「山干飯 小字のはなし」 12 菅(すげ)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

菅(すげ)

糠川の一支流の谷あいにある。かっては河野海岸と府中を結ぶ幹線道路であった西街道(河野‐中山‐湯谷‐当ヶ峰‐広瀬‐府中)の脇道(糠‐菅‐糠口(現在の米口) ‐沓掛‐勝蓮花‐広瀬‐府中)が通り、中山方面、甲楽城方面、安戸、土山方面へ行く道もここで交叉し、往還が多く栄えていた。明治二十九年に敦賀、森田間に汽車が開通し、海路より陸路を利用されるようになってから、西街道を通る荷駄も減少し、西街道の裏道とし、また抜荷道として菅を通過する人も少くなった。明治三十五年に糠口より、菖蒲谷、土山をへて糠へ行く道路ができた事によって菅は山あいに孤立し、急速にさびれ現在は廃村に近い。土山から上る道は急坂だが、糖方面からは車の登る道がつけられ、離村した人々の田畑は糠の人々が求め耕作されている。

当区には天台真成宗円住寺と八幡神社がある。神社には阿弥陀如来の立像、薬師如来、不動明王の三体が安置されている。祭壇の前の精巧な吊灯篭一対石灯篭、石手洗いも備えられ、境内には縦の大木がそびえている。

菅で一軒だけとなった柳下氏(五十四才)の話によると、「明治四十二年に八幡神社の社格の問題(昔は社格により税金の負担が違った)で税金に堪えられないとする者と、我慢して社格を維持しようと云う者の対立があり、その結果維持主張派は負け、御神体を売った。そして、そのご神体もどこへ売ったかもわからなかったが、今、此の事実を知りたくて口伝えに売先の部落名の頭文字に赤がつくと云う事を聞き、それを手掛りに県内の赤と云う字のつく町村を全部尋ね歩いた。そしてとうとう丹生郡越廼村赤坂という所を尋ねた時、私の顔を見るなり、菅から来られたのかと云う古老に出逢った。そして菅の八幡神社の御神体の売買の話を聞かせてもらった。その時の事は、堀の黒田家が神官をしておられた時の事で、今では確かな実情は判らない。

赤坂の老人の話では、赤坂でも買い受けるための金が無く、山林を売却したとの事である。そして今のように海岸線に道がなかったので、山道を御神体を背負って赤坂へお迎えしたとの事である。まだまだこの話には語り尽せないほどの事があるとのこと。しかし、只一つの現実として、赤坂の老人の話では、神様の売買以来、菅、赤坂両部落共滅亡の一途をたどっているという事を老人は話の締めくくりに云われたのが胸に痛くひびいた。これが本当の神罰であると思う」と。

寺の境内の植込みの中に、梅の大きな枯株がある。これは、天台宗真盛派真盛上人(本山滋賀坂本西教寺開山)がこの村に巡錫された時、記念としてお手植されたもので、昭和の初期迄、花も咲いたとの事である。

内陣は金箔塗りで、御本尊は弥陀三尊が安置され、祭壇には高さ三十糎位の金箔菩薩像三十三体が安置されていた。昭和二十七年頃迄は尼僧が在住し、近くの集落の子供達はねはん団子をもらいに行ったものであるが、現在は無住である。これらの仏像は盗難を恐れ、昭和五十二年に全部、味真野の越前の里に預けられたが、街道沿いに栄えていた昔の村の姿をしのばせるものである。

又、菅は美人の産地で、昔の人は”日陰美人”と言う人もあった。

一、小字名

1 かみかみだら(上神多良)

2 なかかみだら(中神多良)

3 きたがたん(北ヶ谷)

4 しもかみだら(下神多良)

5 ちわりだ(千割田)

6 しもきただん(下北谷)

7 かみきただん(上北谷)

8 くぼた(久保田)

9 むらかみ(村の上)

10 あちら(阿知良)

11 いけのくぼ(池ノ窪)

12 まつがたん(松ヶ谷)

13 むらのした(村の下)

14 むらなか(村中)

15 みやだん(宮谷)

16 うらみち(裏道)

17 しちとだ(七斗田)

18 ふるみや(古宮)

19 どうのおく(堂ノ奥)

20 ひがしだん(東谷)

21 ひがしのおく(東ノ奥)

山林

22 ひがしやま(東山)

23 おくらみち(奥浦道)

24 しもあちら(下阿知良)

25 はやのこし(早ノ越)

二、小字のはなし

3 北ヶ谷 6 下北谷 7 上北谷 現在の集落は下北谷に接しているが、もとの集落よりみて北の方に位置していた。北ヶ谷の方より米口の地籍の梯子田、国坂をへて中山へ行く道があった。

8 久保田 14村中 現在の集落のあるところで、お宮もお寺もここにある。(久保田地籍)

9 村の上 現在の集落の上、安戸の上ヶ平と接す。

11 池の窪 溜池がある。尾根境で安戸の五合に接する。

13 村下 集落より糖へ下る道にそった所。

15 宮谷 18 古宮 このあたりに昔は集落があり、お宮もこの地にあったと伝えられている。

19 堂ノ奥 古宮の奥。

16 裏道 宮谷の南で、今はあれてしまったが昔はここより甲楽城、糖へ行く道が通じていた。糠から府中へ行くのに安戸まわりの道はなく、菅をへていくのが一番近道だった。

22 東山 安戸の大江との境目あたりに地蔵さんがある。ここは糠口(現在の米口)から糠の浦へ行く道と、旧坂口村の中山と土山を結ぶ道がこゝで交し四ッ辻となっていたところである。

23 奥浦道 裏道の西側の山林で、村下よりこゝを西南の方向に糠ノ浦へ出る道があった。現在の道よりや糠よりの方だった。糠と境。

25 早ノ越 こゝをおりると安戸区の菅坂-浦河内-沓掛-三滝をへて土山に至る。急な坂道だった。

三、いいつたえ

◇天狗堂のはなし 菅と河野村との境の高い山に(標高二八九五)天狗堂とよばれるお堂があった。何という山か名は知らないが、地元では水天宮とよんでいた。今そのお堂は朽ち果て柱が一本残っているだけであるが、浜の漁師達は沖へでた時、この山を目じるしにしていたという。お堂の建っていた所は河野地籍との境界である。

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