以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。
鴉ヶ平(からすがだいら)
もともと鴉ヶ平という行政区画はないが、曽原の小字9新開 10向田 27鴉ヶ平 28向鴉ヶ平 安養寺の小字157中ノ八田の一部にまたがる二十町歩余りの丘陵地に、昭和二十一年、戦災者や外地引揚者が入植。その中心地の鴉ヶ平が何時となくこの地の呼称になってしまった。現在戸数九戸のうち、小字中ノ八田に住む二戸の住所は安養寺、あとは曽原となっている。
昔は新開田のあたりに沼地を開拓して作られたという底なしと思われるような深田が三反余りあったのと、粟野の水野庄吉氏が、鴉ヶ平で良質の粘土をみつけ製瓦場を大正の頃造ったといわれるあとが残っていただけである。あとは一面雑木林で、鴉ヶ平の名からも想像されるように鴉が非常に多く、新開田の田へ行くのはうす気味悪く勇気のいるところだった。現在では入植した人達の努力で美しい畠となり、保有米が余る程の田も開田された。道路も舗装され、近代設備のある豚舎、花木園、一面に広がる西瓜畑や大根畑に昔の面影はなく、畑作の先進地として視察に訪れる人も多い。
開拓して三十五年がたち、生活にゆとりもでき、開拓二世の時代に移ろうとしている。昭和五十六年、全員の協議で開拓の労を忘れない為に、中心部の二反歩の共有地に”開拓の碑”をたて、周囲に後継者を含む全員が一本づつ桜の木を植樹した。ゆくゆくはこの地に集会のできるセンターをと計画されている。