「山干飯 小字のはなし」 26 萩原(はぎわら)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

萩原(はぎわら)

天王川東岸の丘の上にあり、川向うの中野村の枝村と伝えられている。なだらかな丘の上は日当りも良く、萩が生茂っていたのであろうか。 

小さな集落ながら、お医者さんあり、商家あり、酒造家ありと栄えたのは、米ノ浦から中野を経て、黒川、安養寺へ出る街道ではなかったかと思われる。

明治の初期まで、武田漢方医がおり、後、大阪へ出て南方医学花岡流を学ばれ、現在もその子孫が大阪で開業されているという。昭和の初期一度墓参の為、萩原に来られたそうである。 

明治中頃、酒の醸造をしていた家もあり、酒桶にもみじの木を使用していたという。 

大正中頃より昭和十五、六年頃まで、瓦を焼く窯を持っていて広く販売していた家もあり、又、野鍛冶屋もあった。昭和初期には牛乳屋もあり、毎日若い人達によって、白山村内はもとより、現在の越前町、河野村、坂口地区まで広く配達されていた。 

一、小字名 

1 とうげだん(峠谷)

2 おおたん(大谷) 

3 おおたんぐち(大谷口)

4 おくめん(奥面)

5 かみなわて(上縄手)

6 まえふかだ(前深田)

7 ほりのうち(堀野内)

8 おおの(大野)

9 しろた(白田)

10 たなだ(棚田)

11 みやのした(宮ノ下)

12 こだん(小谷) 

13 さんがいろく(三階録)

14 げんたらだん(源太良「郎」谷)はら(芦原) 

15 あしはら(芦原) 

二、小字のはなし 

1 峠谷 小杉とさかいの山間、萩原の続きの道が高くなったり低くなったりしていたので峠といわれ、また、その奥が谷になっていたので、この名がつけられたようだ。 

2 大谷 奥深く細長い谷窪になっており、その下に田があった。萩原では一番大きな谷。 

3 大谷口 大谷の入口で、大谷と続きになっているのでこの名がついたのだろう。 

4 奥面 牧の区の下手に当る山に面している。 

5 上縄手 広くて萩原では一番良い田である。 

6 前深田 田沼のように深く底なしになっていたようで、底にたくさん竹が入っていた。今でも深い田である。 

8 大野 中野、萩原の入口にあり、大きい野原になっており、昔としては大きい田や畑があったので大野と名づけられたのだろう。 

10 棚田 同じ高さの土手で同じ広さの田がだんだんになって並んでいる。 

11 宮の下 八幡神社の下に田があったのでこのように名づけられたのだろう。でも、今はお宮様はなく、二階堂町の白山神社に大正九年に合祀された。お祭りも白山神社と同じ日にしている。 

12 小谷 奥深いところにあり谷窪になっている。火葬場がある。大谷に対して小谷である。 

13 三階録 黒川近くにあり、土地の高さが三段になっている。 

15 芦原 大昔は芦がいっぱい生えていたのであろうか。

16 大畑 山の下の方を広く開墾して、大きな畑であったらしく跡が今も残っている。 

三、いいつたえ 

◇萩原の白きつね 

萩原の大谷から源太良谷、中野の釈迦堂にかけて白きつねが出てだまされると言って恐れられたそうである。 

二階堂の米商をしていた人が黒川へ代金を払いに来たが、帰りにきつねにだまされ、何時間も同じ所を行ったり来たりしているので、萩原の人が見るに見かねて送っていったそうである。 

そのきつねを多数の人が見ているそうで、たくさんのきつねの巣があったようだ。 

◇天狗さんの松 

白山神社に合祀されるまでのお宮さんのあった跡地に大きな松の木があり、その下にある溜池の上いっぱいに枝を広げていた。 

その松の木には天狗さんがいると、子供達に恐れられていた。今はもう枯れてしまってその姿はない。 

Translate »