「山干飯 小字のはなし」 13 米口(こめぐち)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

米口(こめぐち)

昔は糠ロ村と呼んでいた。これは明治の頃までは現在のお宮の東方の谷間から峠を越え菅に出て糠浦に通ずる本街道の分れ道であったからである。

明治以降、丸岡の出村であった仏谷と合併して米ロと改称された。(一説によると、寛政八年一七九六〉八月十五日米口と改称されたとある。)

この村の草分けは平家の落武者斉藤という武士が、虚無僧となってここに土着し、後に谷野彦左ヱ門と名乗った人であるといわれている。この村の谷野家は皆この末孫であるとのこと。また、小原四郎左ヱ門がこの村の草分けとも言われている。今日の小原家は皆この末裔との事だが弘化四年の大火で村が全焼したので、古文書その他重要なものはなく、それ以前の事はあまり解らない。

当区の神社酒列神社は、大正三年頃仏谷の白山神社と合併されたので、今の社殿には両神社の御神体が安置されてある。酒列神社の御祭神は少彦名命で、御神体は薬師如来である。この如来は、昔この神社の前にある寺屋敷(今は荒地)に普門庵という真言宗の草庵があって、その草庵を徳川四代将軍の時、武生龍門寺四世春郷和尚が改築し、今の浄信寺を建立して薬師如来を安置した。後、神社に奉安本尊とした。御本殿は昭和二十年に学校の奉安殿を米口区が買受けたものである。

巡査駐在所は明治時代からあり現在の鎌田氏土蔵西横の空地に建っていたが、昭和二年堀区へ移された。そして、昭和四十八年再び米口区に移転された。

昭和三十七年村田製作所が誘致され、昭和五十五年には、金華山グリーンランドが開設されて、当区も次第に発展して来た。

一、小字名

1 しもわき(下脇)

2 なべと(鍋土)

3 ねこだん(猫谷)

4 ゆのくち(湯の口)

5 さかいめ(境目)

6 つじ(辻)

7 よねぶつ(米仏)

8 かみだいじんぐう(上大上宮)

9 きたんじり(北の尻)

10 くぼた(久保田)

11 むかいやま(向山)

12 じゅうひちまい(拾七枚)

13 ほそばたけ(細畑)

14 えぞえ(江ゾエ)

15 なわて(畷)

16 にして(西出)

17 しょうずがたん(御清水谷)

18 はざま(硲)

19 とちのき(栃ノ木)

20 むらのした(村の下)

21 むらのうち(村の内)

22 とうげ(峠)

23 くちこもちがたん(ロ子持谷)

24 こもちがたん(子持谷)

25 くちおくんたん(口奥谷)

26 おくんたん(奥谷)

27 いつきだん(齋キ谷)

28 おくおくんたん(奥々ノ谷)

29 たかはた(高畑)

30 やすみば(休場)

31 あてら(阿寺)

32 いっぽんぎ(一本木)

33 ながくぼ(長久保)

34 さんごうだん(三合谷)

35 にしたん(西谷)

36 なかのを(中ノ尾)

37 はらがたん(ハラケ谷)

38 はたけがしり(畑ヶ尻)

39 かみよごでん(上ョゴ殿)

40 なかよごでん(中ヨゴ殿)

41 しもよごでん(下ヨゴ殿)

42 いしなばたけ(石ナ畑)

43 やりこ(ヤリコ)

44 さいまだ(サイマ田)

45 むかいごんど(向今堂)

46 はしごだ(梯子田)

47 おもでん(重モ殿)

48 かみおもでん(上重殿)

49 こだんだ(小谷田)

50 たきのした(滝ノ下)

51 かつら(勝等)

52 にほんまつ(二本松)

山林

53 しもむかいやま(下向山)

54 むねのり(宗則)

55 みづかみ(水上)

56 ぜんまがたん(善間ヶ谷)

57 たかづこう(高頭甲)

58 せんまつやま(千松山)

59 くにさか(国坂)

60 あなばたけ(穴畑)

二、小字のはなし

2 鍋土 東の方は丸岡の鍋戸と隣接して居り、西の方は瓦士として昭和の初め頃まで出土されていた。昔は鍋土(なべつち)としても使われていたと想像される。

3 湯の口 水が不足した時、下橋の下をせき止めて水を取り入れた所。(俗に湯を上げるといった。)

4 猫谷 向山から丸岡寄りで山から畑にかけての一帯を猫谷と呼ぶが、畑の方は現在耕地整理されて田になっている。

いつの頃か、又猫と云われる三匹の老猫がいた。米口の又右ヱ門、菖蒲谷の又左ェ門、上杉本の又兵衛にその猫がいて、毎晩集まって踊っていた。

最初のうちは家の者達も気付かなかったが、朝になると手拭いが濡れているので、不思議に思っていた。ある晩、猫が手拭いをくわえて外へ出るので、家の人が後をつけて行った所、田んぼ道を通り抜け向山の谷へ入って行った。そこにはもう他の二匹の猫達が居て、「えらい遅かったな。」と云った。「家のもんらが寝るのが遅いさけ、なかなか出られなんだんや。さあ踊ろ、踊ろ」と手拭いをかぶった三匹の猫が、「ニャーンとューリャ、俺らは又猫ニャーンとニャンと。」と、手振り足振り面白く浮かれ踊り出した。家の人はびっくり仰天、腰を抜かしてしまった。

猫はその時以来行方不明となったが、その後そこら辺りを猫谷と呼ぶようになった。

5 境目 仏谷と沓掛の境目にあり、冬になると吹雪や雪だまりで遭難する人が多く、命からがら村端の家に救助を求めた。命のさかいめという事から名づけられたという。

6 辻 その一区画だけ区画整理されて整然としていたので辻といった。

7 米仏 米口と仏谷の合致した所であまり古い呼び名ではないらしい。

8 上大上宮 米口区の南、上方に位置しお宮や墓所がある。昔は三昧があり埋葬もした。又出産の際の汚物を捨てる大きな穴もあった。上方の三昧の近くに寺があったが、神社の上にあったので下の方へ移動した。今でも竹林の中に寺の庭園らしい跡が残っている。

9 北の尻 村の北、川下にあり村のおむつ洗い場があった。

12 拾七枚 十七枚の田が続いていた。

13 細畑 山裾に細長く続いた畑で現在は工場敷地になっている。

14 江ゾエ 向山の川に沿った田。

15 畷 堀と米口の旧道沿いで畷になっていた。清水谷山裾にあり、きれいな水が出て食水にも使われている。

18 硲 両側に高い土手があって、その間に挟まれて谷のようになっていた田。

19 栃の木 県道の出来る前は山に続いていて栃の木が生えていたと見られる。

21 村の内 そらでと呼ばれ、大上宮に続いており、昔は家が集中していたが、大正から昭和にかけて県道沿いに転出したり、都会に出たりして村を去る家もかなりあって、山の方から次第に減り、今はそれらの屋敷跡は林や畑と化している。

24 子持谷 奥谷から西の方へ入込んだ小さな谷で、入口の方から見ると山に見える。一反五畝程の田で昔の隠し田と言われている。貧困で生れた子供を間引きする時代には、それだけの隠田があれば子供を持つ事も出来るということから名付けられたという。

27 齋谷 いつきの木が生えていた。嶺続きには最近まで大きないつきの木があって赤い実がたくさんついていた。

29 高畑村 一番の高地にある田で現在は荒地になっている。

30 休み場 昔の糠街道で、米口から菅へ通ずる山道の登り詰めた所にあり、往来の人達の休み場であった。近年、金華山グリーンランドが近くに出来て、休み場の一劃は道路に削り取られたが、地蔵堂は今も残っており道標も書かれてある。この街道は西街道の脇道で、昔府中から海岸(糠浦)へ通ずる抜荷の脇道となっていた。脇道をしようとするには二つの理由が考えられる。その一つは商人達が少しでも利益を多くしようと、問屋口銭の徴収を避けて脇往還を駄送したこと、もう一つは、この商人達に協力し、現金収入を得るため馬持ちの百姓が荷物を積載するというわけだった。

31 阿寺 昔の北陸街道の近くにあり庵寺があったのではないかと思われる。

38 長久保 昔は田で窪地に長く伸びていた。

34 三合谷 土地がやせていて米が少ししか取れなかったので名付けられたという。

38 畑ヶ尻 昔桑畑でその下方の畑をさしている。現在は杉林であるが、「カザエモン」というあまり上質ではないが桑の木が所々に残っている。

42 石ナ畑 石の多い田であった。昭和の初期まで田であったが現在は杉林になっている。

54 宗則 堀地籍の宗則と地続きになっている。戦国時代の落武者、黒田七郎左ェ門宗則が城を構えたが後に焼き落された。

55 水上 川の上流に沿った所で山間には畑もあったが今は山林になっている。

56 善間ヶ谷 土質が特に肥沃で植林しても成長が早く良い谷であるという所から名付けられた。

57 高頭甲 周囲の山より一段抜き出て高いのでこのようにいう。

59 国坂 昔の北陸街道の周辺にある。

60 穴畑 そこだけ特に落ち込んで低い畑であった。

三、いいつたえ

◇偽代官

安政の頃、米ロ村へ偽代官がやって来て、村人達が取押えたという話。

当時、米口村は若狭藩領となっていた。

夏も終り秋の気配が濃くなった頃、若狭藩の代官と名乗る、年の頃なら三十五歳から四十歳位の男が、大、小の刀をさし馬に乗ってやって来た。

庄屋はお代官様の突然の来訪に慌てふためいて、下へも置かぬ心遣いをしていた。代官は「今年の年貢高を調べに来た。あり態に申し述べるように。不作の状況などもあり態に云いなさい。御奉行様に献上物があったら預かって行く。」と、いかにも献上物をすると年貢をまけて貰えるような口振りであった。庄屋は之は長百姓とも相談して考えねばならぬと思っていた。

その時、小野村から注進が来た。それは「どうも偽代官らしいから気をつけた方が良い」という知らせであった。

その時の庄屋は小原弥三右ェ門といゝ、分別のある人であった。そこで酒や御馳走を出しておおいにもてなした。代官はすっかり御機嫌であった。そして夜も遅く、寝る事になった。座敷にふとんを敷き蚊帳を吊った。代官は「何故蚊帳を吊るのか。」と聞くので、「この辺りは山家なのでまだ蚊が居りましてよくおやすみになれんといけませんので。」と答えた。

代官が寝入った頃、庄屋はそっと座敷に忍び込んだ。寝ていると思った代官が「どうしたのか」と云った。「もうそろそろ夜が明けますので雨戸をくらせて頂きます。」と、云いながら素早く代官の傍の刀を取って外へ飛び出した。慌てて後を追いかけた偽代官を、手配してあった在所(部落)の者達が手に手にこん棒を持って真夜中の大格闘を演じ、取押える事が出来た。庄屋は「刀を取上げるのに苦労した。」と、話して居た。

◇米口の常当番

これは明治の頃から今も続いている行事の一つである。墨で常当番と書かれた木の下げ札が隣から廻ってくると、お薬師さんと呼ばれている酒列神社へお詣りするのである。二十四、五軒あるので、月に一回は当番が廻ってくる事になっている。

この村は昔、賭事が大変盛んで、賭事をしないのはお薬師さんだけだといわれる程であった。「いや、お宮さんで開くからお薬師さんも仲間だ。」と、冗談を云う者もいたとか。

一晩のうちに家が動いたといわれる程で、財産を傾け土地を手離す者も多かった。その為に相当の土地が他部落へ移っている。ある時、負け続けて金に窮したあげく皆で相談して、お宮さんのお金を一時拝借する事にした。そしておみくじでお伺いした所が、どうしても御返事が出て来ないのである。之は神様が怒られたのに違いないと考えて、それから皆で毎日お詣りしたら、やっとおみくじがいたゞけたという事である。

それから常当番を作って毎日一軒づつ参詣する事になったのだと伝えられている。

◇糠口の大火

弘化四年(西暦一八四七年)旧暦の七月六日、糖口村のある家から出火し、集落の殆んどが全焼するという大火があった。当時、糠口村の家数は約三〇戸近くあり、今の空手地域に家が集中していた。その時焼け残ったのは、土蔵や小屋一、二戸だけだったと伝えられている。

以来、百四十年余り経過したが、今なお八月六日には、神社で焼祭りの行事が行なわれている。被災後、家を新築する時には吊かもいはいよう(ぜいたく)普請として、固く禁じられたと伝えられている。

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