「山干飯 小字のはなし」 11 安戸(やすと)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

安戸(やすと)

糠川の上流の谷合に位置し、急な崖状態の地に中央の道路を挟んで集落が点在している。昔は天城山と土山の中間にあった。交通が不便なため、現在の所へ移って来たと伝えられている。昔の居住地は今は水田に変っている。かっては三十六戸あったが、今は十四戸しかない。

明治四十四年白山冬期分校が安戸、土山、菅の三年生までを対象に設けられた。昭和十一年に独立校舎が建てられたが、昭和四十五年廃校となり、取壊され、今はバス停になっている。

一、小字名

1 じようがだいら(城ヶ平)

2 しょうずがだいら(清水ヶ平)

3 だいぶつ(大仏)

4 すわやしき(諏訪屋敷)

5 ごだいんやしき(五大院屋敷)

6 おおいわくぼ(大岩窪)

7 くわばらやしき(桑原屋敷)

8 しょづがした(小豆ヶ下)

9 つばきだに(椿谷)

10 ドゥドゥ

11 くちなし(口梨)

12 こうち(河内)

13 としかげ(年陰)

14 じんどぐち(神土ロ)

15 とがお(栂尾)

16 おくとがお(奥栂尾)

17 いわた(岩田)

18 がまだ(蒲田)

19 ノタノ谷

20 あなのくち(穴ノ口)

21 こやがたん(小屋ヶ谷)

22 おおたん(大谷)

23 かみおおたん(上大谷)

24 ろくがたん(六ヶ谷)

25 いっさか(一坂)

26 なしのき(梨ノ木)

27 くぼた(窪田)

28 ちゃのきだん(茶ノ木谷)

29 ちゃのきはら(茶ノ木原)

30 かべがたん(壁ヶ谷)

31 かきだいら(柿平)

32 おく(奥)

33 どうやしき(堂屋敷)

34 ゴンゴ

35 みずのみ(水吞)

36 えのうえ(江ノ上)

37 ちわりだ(千割田)

38 あみあけ(網明)

39 みねのたん(峰ノ谷)

40 みずかみ(水上)

41 かめがちょう(亀ヶ町)

42 あにこもり(兄子森)

43 どうのした(堂ノ下)

44 みたき(111)

45 くつかけ(沓掛)

46 ろくろだん(六呂谷)

47 むかいやま(向山)

48 なかのやまはぎ(中ノ山梨)

49 うらこうち(浦河内)

50 すげんさか(菅坂)

51 おおえ(大江)

山林

52 じょうがみね(城ヶ峰)=くわばら(桑原)

53 みこしだん(見越谷)=つばきだん(椿谷)

54 つぼね(坪根)

55 たかば(高場)

56 だけだ(嶽田)=あみあけ(網明)

57 がだん(峨谷)=おおね(大根)

58 ちゃのき(茶ノ木)=ちゃのきはら(茶ノ木原)

59 あにこのもり(兄子森)

60 むかいやま(向山)=むらむかい(村向)

61 ごんご(五合)=うらこうち(浦河内)

62 じょうがだいら(上ヶ平)

63 のぼりばし(登橋)

二、小字のはなし
1 城ヶ平 今から約八百年程前、安徳天皇の時代の頃、天城山で源平の戦いに破れた平家の残党が立てこもり、そのあたりで生活をしたと伝えられている。かなり広い平坦地である。

2 清水ヶ平 山頂に近い場所で、そこに良質の清水が湧き出ている。当時そこに住みついた人達は、飲み水や、田畑の引水として重宝していたらしい。又、隣接地の杉山地区の住民は食水として利用していた。

3 大仏 北条高時が、鎌倉で新田義貞に討たれようとした時、この地に逃げ延び助けられた。

5 五大院屋敷 この近くには現在も石碑が残っており、先祖の供養の場となっている。

戦国時代に落武者たちが建てたものだと云われている。そのまわりには今でも白いわらびが生え、村人達は、それは武将の髭だといっている。

6 大岩窪 ここに大岩があったのでその名が付いたらしい。

7 桑原屋敷 天城山に立こもった平家の残党が居をかまえたと思われる。その下方に滝がある。馬に乗った武士達が滝を駆け上った折に付けたと言う蹄の跡がある。そこが城ヶ峰の入口である。

9 椿谷 そのあたりに白椿の大木があり、四方にその華麗さを誇っていた。河野の浦、糠の浦、敦賀の浦の漁師達が、沖の海で漁をする時には、航海の目印が安戸の天城山の白椿であったと言う。大漁の時は白椿のお蔭だと天城山を仰いで感謝したと伝えられている。

14 神土口 安戸から別れて神土へ入る口である。

17 岩田 田の中に大きな岩があった。現在は取り去られて、その姿はない。

19 ノタノ谷 天城山から続いているため。

20 穴の口 穴の中で敵が来るのを番をしていたと言われている。

22 大谷その名の通り大きな谷である。

25 一坂 六ヶ谷へ行く道にあり、赤土で三百米程の大きな坂である。

26 梨ノ木 大きな梨ノ木があったと言う。

28 茶ノ木谷 いずれもたくさんの茶の木があったと言うことである。

31 柿平 昔、安戸の水野氏が、三郎柿の木を土手にあちこちに植え、村人達はもらって食べたと言う。現在もその木は残っている。

33 堂屋敷 天城山に立てこもった平家の落武者達は、水が豊富にあり耕地があるので、其の地で暮らしていた。子孫が多くなるにつれ、食糧が次第に必要となったので、山の谷間を次々と田園に開いて行った。次の世代には、堂家敷やゴンゴに人家が増えて行った。又、菖蒲谷へ移り住んだ人もあった。現在でも、菖蒲谷の人達は安戸村に山を持ち、毎年安戸村へ仕事に通っている。

35 水呑 清水が出て、百姓の人達が喉をうるおした。千割田約一町歩の田園に、百二十枚の枚数があり、それ故、その名が付けられたものと思われる。

39 峰ノ谷 高い処にある谷。

40 水上 その名の通り、水の出る上の方を言う。

41 亀ヶ町この地は丁度亀の甲らの様な形をしているのでその名が付けられた。

この地に人が住み付いたのは、天明の時代だと言う。家屋は四十戸程あったらしい。人々は水の出る所を求めて、次々と山を切り開き、田を造って行った。

42 兄子森 兄子森に安戸村の氏神様があり、兄子神社と言う。兄子神社に祀られている御本尊は、金箔に塗られた立派な阿弥陀如来立像である。

安戸村の住民は、自分の兄であり自分の子であと言う意味合いで、兄子と付けて神社を建立し、お祀りしている。兄子の森のお堂は、兄子神社の境内に移してある。

この式内社(奈良時代からあった古い神社のこと)という説もあるが不確実な点もある。

44 三ノ滝 糠の浦より山千飯へ足を運ぶ時、まづ一の滝が目につく。長さ三十間程で菅口にある。二の滝が浦口にあり、高さ三十間程である。三の滝は兄子森の近くを流れる所にある。現在バス停のある所で、かって冬期分校のあった所でもある。高さ五十間程で、通称この三つを合わせて三の滝と呼んでいる。

49 浦河内(浦口ともいう)糠川の上流で、水源を杉山とした川が、安戸で半転、南流をはじめる所で、パッと谷間が広くなる所から浦河内といわれたのだろう。昔は糠浦へ行く道もあり、糠の浦の入口の意で浦口ともいわれたと思われる。

50 菅坂 菅村に登る所の坂である。

61 五合 冷水が出て毎年悪作である為、その名が付けられた。

三、いいつたえ

◇雨乞い

今より二百年前の天明三年に、大飢饉があった。その為に、多くの山を拓いて田を作ったが、久しく雨が降らず、水不足の為大いに困った。

安戸村に、一人の老婆が我が田に水を入れようとして、昼夜水番をして水を取った。怒った村人達は、水不足はこの老婆が独り占めにするからだ。そんなに水が欲しければ、毎日水を取るのが良いと、大勢でその老婆を村の上流、三十六、九番地の前の川底へ、生きたまま、人柱として埋めたそうだ。

ところが、一天俄かに掻き曇り、雨が降り出し、ついに大雨となり、一度に水不足が解消された。村人達は老婆のおかげと、その後供養を続けたのである。

それ以来、水不足の時には老婆の供養にと神主に来てもらい、婆上げの行事を行ない、雨乞いを行ったのである。

しかしながら、その大雨が一方では災いして糠川が氾濫し、村の上の家二、三軒が水に流された。その為、糠の村人達は大いに怒り安戸村へ抗議を申し込み、二度とこの様な事はしてくれるなと、大争いをしたと言う。

◇つり鍾

昔、宇都宮美継氏の家の上に、寺ヶ谷という所があり、お寺が建っていた。ある時、山津波があり、お寺やつり鍾が流された。流される途中つり鍾だけは、小俣久一氏宅の倉屋敷の下の方に止まり、土に深く埋もれたままになっているという。

◇大きな古ごけ

安戸に冬期分校があった頃、そこに昔大きい古ごけがあった。そのこけが、昨日も、今日もと毎日出てくるので、ある人が昼そこへ行って、「お前は何が一番きらいか。」と聞いたら、そのこけは、「私はおつゆが一番きらいだ。」といったので、その人はおつゆを大きい古ごけにぶっかけたら死んでしまったといわれている。今でも大きい古ごけのあったところには、大きい古ごけの株がある。

◇白蛇

安戸にむかし川崎という家があったが、全部病気で死んでしまい、人も寄らず、葬式もせずほったらかしにしておいた。その家が空家になると、そこへ白蛇が現われ、柱に苦しい態で巻きついていたという。下の三滝という所にお墓がある。大水がついてもその墓は流れないといわれている。

◇糠川

糠の魚、生魚は鮮度を落しては価格も半減するところから、ボテさんにより、舟が湊につくのを待って急送された。塩をふりかけておくと、武生へ着く頃には、魚も結構よい塩加減に塩味がきき、鮮度もおちなかった。

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