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「山干飯 小字のはなし」 12 菅(すげ)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

菅(すげ)

糠川の一支流の谷あいにある。かっては河野海岸と府中を結ぶ幹線道路であった西街道(河野‐中山‐湯谷‐当ヶ峰‐広瀬‐府中)の脇道(糠‐菅‐糠口(現在の米口) ‐沓掛‐勝蓮花‐広瀬‐府中)が通り、中山方面、甲楽城方面、安戸、土山方面へ行く道もここで交叉し、往還が多く栄えていた。明治二十九年に敦賀、森田間に汽車が開通し、海路より陸路を利用されるようになってから、西街道を通る荷駄も減少し、西街道の裏道とし、また抜荷道として菅を通過する人も少くなった。明治三十五年に糠口より、菖蒲谷、土山をへて糠へ行く道路ができた事によって菅は山あいに孤立し、急速にさびれ現在は廃村に近い。土山から上る道は急坂だが、糖方面からは車の登る道がつけられ、離村した人々の田畑は糠の人々が求め耕作されている。

当区には天台真成宗円住寺と八幡神社がある。神社には阿弥陀如来の立像、薬師如来、不動明王の三体が安置されている。祭壇の前の精巧な吊灯篭一対石灯篭、石手洗いも備えられ、境内には縦の大木がそびえている。

菅で一軒だけとなった柳下氏(五十四才)の話によると、「明治四十二年に八幡神社の社格の問題(昔は社格により税金の負担が違った)で税金に堪えられないとする者と、我慢して社格を維持しようと云う者の対立があり、その結果維持主張派は負け、御神体を売った。そして、そのご神体もどこへ売ったかもわからなかったが、今、此の事実を知りたくて口伝えに売先の部落名の頭文字に赤がつくと云う事を聞き、それを手掛りに県内の赤と云う字のつく町村を全部尋ね歩いた。そしてとうとう丹生郡越廼村赤坂という所を尋ねた時、私の顔を見るなり、菅から来られたのかと云う古老に出逢った。そして菅の八幡神社の御神体の売買の話を聞かせてもらった。その時の事は、堀の黒田家が神官をしておられた時の事で、今では確かな実情は判らない。

赤坂の老人の話では、赤坂でも買い受けるための金が無く、山林を売却したとの事である。そして今のように海岸線に道がなかったので、山道を御神体を背負って赤坂へお迎えしたとの事である。まだまだこの話には語り尽せないほどの事があるとのこと。しかし、只一つの現実として、赤坂の老人の話では、神様の売買以来、菅、赤坂両部落共滅亡の一途をたどっているという事を老人は話の締めくくりに云われたのが胸に痛くひびいた。これが本当の神罰であると思う」と。

寺の境内の植込みの中に、梅の大きな枯株がある。これは、天台宗真盛派真盛上人(本山滋賀坂本西教寺開山)がこの村に巡錫された時、記念としてお手植されたもので、昭和の初期迄、花も咲いたとの事である。

内陣は金箔塗りで、御本尊は弥陀三尊が安置され、祭壇には高さ三十糎位の金箔菩薩像三十三体が安置されていた。昭和二十七年頃迄は尼僧が在住し、近くの集落の子供達はねはん団子をもらいに行ったものであるが、現在は無住である。これらの仏像は盗難を恐れ、昭和五十二年に全部、味真野の越前の里に預けられたが、街道沿いに栄えていた昔の村の姿をしのばせるものである。

又、菅は美人の産地で、昔の人は”日陰美人”と言う人もあった。

一、小字名

1 かみかみだら(上神多良)

2 なかかみだら(中神多良)

3 きたがたん(北ヶ谷)

4 しもかみだら(下神多良)

5 ちわりだ(千割田)

6 しもきただん(下北谷)

7 かみきただん(上北谷)

8 くぼた(久保田)

9 むらかみ(村の上)

10 あちら(阿知良)

11 いけのくぼ(池ノ窪)

12 まつがたん(松ヶ谷)

13 むらのした(村の下)

14 むらなか(村中)

15 みやだん(宮谷)

16 うらみち(裏道)

17 しちとだ(七斗田)

18 ふるみや(古宮)

19 どうのおく(堂ノ奥)

20 ひがしだん(東谷)

21 ひがしのおく(東ノ奥)

山林

22 ひがしやま(東山)

23 おくらみち(奥浦道)

24 しもあちら(下阿知良)

25 はやのこし(早ノ越)

二、小字のはなし

3 北ヶ谷 6 下北谷 7 上北谷 現在の集落は下北谷に接しているが、もとの集落よりみて北の方に位置していた。北ヶ谷の方より米口の地籍の梯子田、国坂をへて中山へ行く道があった。

8 久保田 14村中 現在の集落のあるところで、お宮もお寺もここにある。(久保田地籍)

9 村の上 現在の集落の上、安戸の上ヶ平と接す。

11 池の窪 溜池がある。尾根境で安戸の五合に接する。

13 村下 集落より糖へ下る道にそった所。

15 宮谷 18 古宮 このあたりに昔は集落があり、お宮もこの地にあったと伝えられている。

19 堂ノ奥 古宮の奥。

16 裏道 宮谷の南で、今はあれてしまったが昔はここより甲楽城、糖へ行く道が通じていた。糠から府中へ行くのに安戸まわりの道はなく、菅をへていくのが一番近道だった。

22 東山 安戸の大江との境目あたりに地蔵さんがある。ここは糠口(現在の米口)から糠の浦へ行く道と、旧坂口村の中山と土山を結ぶ道がこゝで交し四ッ辻となっていたところである。

23 奥浦道 裏道の西側の山林で、村下よりこゝを西南の方向に糠ノ浦へ出る道があった。現在の道よりや糠よりの方だった。糠と境。

25 早ノ越 こゝをおりると安戸区の菅坂-浦河内-沓掛-三滝をへて土山に至る。急な坂道だった。

三、いいつたえ

◇天狗堂のはなし 菅と河野村との境の高い山に(標高二八九五)天狗堂とよばれるお堂があった。何という山か名は知らないが、地元では水天宮とよんでいた。今そのお堂は朽ち果て柱が一本残っているだけであるが、浜の漁師達は沖へでた時、この山を目じるしにしていたという。お堂の建っていた所は河野地籍との境界である。

「山干飯 小字のはなし」 11 安戸(やすと)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

安戸(やすと)

糠川の上流の谷合に位置し、急な崖状態の地に中央の道路を挟んで集落が点在している。昔は天城山と土山の中間にあった。交通が不便なため、現在の所へ移って来たと伝えられている。昔の居住地は今は水田に変っている。かっては三十六戸あったが、今は十四戸しかない。

明治四十四年白山冬期分校が安戸、土山、菅の三年生までを対象に設けられた。昭和十一年に独立校舎が建てられたが、昭和四十五年廃校となり、取壊され、今はバス停になっている。

一、小字名

1 じようがだいら(城ヶ平)

2 しょうずがだいら(清水ヶ平)

3 だいぶつ(大仏)

4 すわやしき(諏訪屋敷)

5 ごだいんやしき(五大院屋敷)

6 おおいわくぼ(大岩窪)

7 くわばらやしき(桑原屋敷)

8 しょづがした(小豆ヶ下)

9 つばきだに(椿谷)

10 ドゥドゥ

11 くちなし(口梨)

12 こうち(河内)

13 としかげ(年陰)

14 じんどぐち(神土ロ)

15 とがお(栂尾)

16 おくとがお(奥栂尾)

17 いわた(岩田)

18 がまだ(蒲田)

19 ノタノ谷

20 あなのくち(穴ノ口)

21 こやがたん(小屋ヶ谷)

22 おおたん(大谷)

23 かみおおたん(上大谷)

24 ろくがたん(六ヶ谷)

25 いっさか(一坂)

26 なしのき(梨ノ木)

27 くぼた(窪田)

28 ちゃのきだん(茶ノ木谷)

29 ちゃのきはら(茶ノ木原)

30 かべがたん(壁ヶ谷)

31 かきだいら(柿平)

32 おく(奥)

33 どうやしき(堂屋敷)

34 ゴンゴ

35 みずのみ(水吞)

36 えのうえ(江ノ上)

37 ちわりだ(千割田)

38 あみあけ(網明)

39 みねのたん(峰ノ谷)

40 みずかみ(水上)

41 かめがちょう(亀ヶ町)

42 あにこもり(兄子森)

43 どうのした(堂ノ下)

44 みたき(111)

45 くつかけ(沓掛)

46 ろくろだん(六呂谷)

47 むかいやま(向山)

48 なかのやまはぎ(中ノ山梨)

49 うらこうち(浦河内)

50 すげんさか(菅坂)

51 おおえ(大江)

山林

52 じょうがみね(城ヶ峰)=くわばら(桑原)

53 みこしだん(見越谷)=つばきだん(椿谷)

54 つぼね(坪根)

55 たかば(高場)

56 だけだ(嶽田)=あみあけ(網明)

57 がだん(峨谷)=おおね(大根)

58 ちゃのき(茶ノ木)=ちゃのきはら(茶ノ木原)

59 あにこのもり(兄子森)

60 むかいやま(向山)=むらむかい(村向)

61 ごんご(五合)=うらこうち(浦河内)

62 じょうがだいら(上ヶ平)

63 のぼりばし(登橋)

二、小字のはなし
1 城ヶ平 今から約八百年程前、安徳天皇の時代の頃、天城山で源平の戦いに破れた平家の残党が立てこもり、そのあたりで生活をしたと伝えられている。かなり広い平坦地である。

2 清水ヶ平 山頂に近い場所で、そこに良質の清水が湧き出ている。当時そこに住みついた人達は、飲み水や、田畑の引水として重宝していたらしい。又、隣接地の杉山地区の住民は食水として利用していた。

3 大仏 北条高時が、鎌倉で新田義貞に討たれようとした時、この地に逃げ延び助けられた。

5 五大院屋敷 この近くには現在も石碑が残っており、先祖の供養の場となっている。

戦国時代に落武者たちが建てたものだと云われている。そのまわりには今でも白いわらびが生え、村人達は、それは武将の髭だといっている。

6 大岩窪 ここに大岩があったのでその名が付いたらしい。

7 桑原屋敷 天城山に立こもった平家の残党が居をかまえたと思われる。その下方に滝がある。馬に乗った武士達が滝を駆け上った折に付けたと言う蹄の跡がある。そこが城ヶ峰の入口である。

9 椿谷 そのあたりに白椿の大木があり、四方にその華麗さを誇っていた。河野の浦、糠の浦、敦賀の浦の漁師達が、沖の海で漁をする時には、航海の目印が安戸の天城山の白椿であったと言う。大漁の時は白椿のお蔭だと天城山を仰いで感謝したと伝えられている。

14 神土口 安戸から別れて神土へ入る口である。

17 岩田 田の中に大きな岩があった。現在は取り去られて、その姿はない。

19 ノタノ谷 天城山から続いているため。

20 穴の口 穴の中で敵が来るのを番をしていたと言われている。

22 大谷その名の通り大きな谷である。

25 一坂 六ヶ谷へ行く道にあり、赤土で三百米程の大きな坂である。

26 梨ノ木 大きな梨ノ木があったと言う。

28 茶ノ木谷 いずれもたくさんの茶の木があったと言うことである。

31 柿平 昔、安戸の水野氏が、三郎柿の木を土手にあちこちに植え、村人達はもらって食べたと言う。現在もその木は残っている。

33 堂屋敷 天城山に立てこもった平家の落武者達は、水が豊富にあり耕地があるので、其の地で暮らしていた。子孫が多くなるにつれ、食糧が次第に必要となったので、山の谷間を次々と田園に開いて行った。次の世代には、堂家敷やゴンゴに人家が増えて行った。又、菖蒲谷へ移り住んだ人もあった。現在でも、菖蒲谷の人達は安戸村に山を持ち、毎年安戸村へ仕事に通っている。

35 水呑 清水が出て、百姓の人達が喉をうるおした。千割田約一町歩の田園に、百二十枚の枚数があり、それ故、その名が付けられたものと思われる。

39 峰ノ谷 高い処にある谷。

40 水上 その名の通り、水の出る上の方を言う。

41 亀ヶ町この地は丁度亀の甲らの様な形をしているのでその名が付けられた。

この地に人が住み付いたのは、天明の時代だと言う。家屋は四十戸程あったらしい。人々は水の出る所を求めて、次々と山を切り開き、田を造って行った。

42 兄子森 兄子森に安戸村の氏神様があり、兄子神社と言う。兄子神社に祀られている御本尊は、金箔に塗られた立派な阿弥陀如来立像である。

安戸村の住民は、自分の兄であり自分の子であと言う意味合いで、兄子と付けて神社を建立し、お祀りしている。兄子の森のお堂は、兄子神社の境内に移してある。

この式内社(奈良時代からあった古い神社のこと)という説もあるが不確実な点もある。

44 三ノ滝 糠の浦より山千飯へ足を運ぶ時、まづ一の滝が目につく。長さ三十間程で菅口にある。二の滝が浦口にあり、高さ三十間程である。三の滝は兄子森の近くを流れる所にある。現在バス停のある所で、かって冬期分校のあった所でもある。高さ五十間程で、通称この三つを合わせて三の滝と呼んでいる。

49 浦河内(浦口ともいう)糠川の上流で、水源を杉山とした川が、安戸で半転、南流をはじめる所で、パッと谷間が広くなる所から浦河内といわれたのだろう。昔は糠浦へ行く道もあり、糠の浦の入口の意で浦口ともいわれたと思われる。

50 菅坂 菅村に登る所の坂である。

61 五合 冷水が出て毎年悪作である為、その名が付けられた。

三、いいつたえ

◇雨乞い

今より二百年前の天明三年に、大飢饉があった。その為に、多くの山を拓いて田を作ったが、久しく雨が降らず、水不足の為大いに困った。

安戸村に、一人の老婆が我が田に水を入れようとして、昼夜水番をして水を取った。怒った村人達は、水不足はこの老婆が独り占めにするからだ。そんなに水が欲しければ、毎日水を取るのが良いと、大勢でその老婆を村の上流、三十六、九番地の前の川底へ、生きたまま、人柱として埋めたそうだ。

ところが、一天俄かに掻き曇り、雨が降り出し、ついに大雨となり、一度に水不足が解消された。村人達は老婆のおかげと、その後供養を続けたのである。

それ以来、水不足の時には老婆の供養にと神主に来てもらい、婆上げの行事を行ない、雨乞いを行ったのである。

しかしながら、その大雨が一方では災いして糠川が氾濫し、村の上の家二、三軒が水に流された。その為、糠の村人達は大いに怒り安戸村へ抗議を申し込み、二度とこの様な事はしてくれるなと、大争いをしたと言う。

◇つり鍾

昔、宇都宮美継氏の家の上に、寺ヶ谷という所があり、お寺が建っていた。ある時、山津波があり、お寺やつり鍾が流された。流される途中つり鍾だけは、小俣久一氏宅の倉屋敷の下の方に止まり、土に深く埋もれたままになっているという。

◇大きな古ごけ

安戸に冬期分校があった頃、そこに昔大きい古ごけがあった。そのこけが、昨日も、今日もと毎日出てくるので、ある人が昼そこへ行って、「お前は何が一番きらいか。」と聞いたら、そのこけは、「私はおつゆが一番きらいだ。」といったので、その人はおつゆを大きい古ごけにぶっかけたら死んでしまったといわれている。今でも大きい古ごけのあったところには、大きい古ごけの株がある。

◇白蛇

安戸にむかし川崎という家があったが、全部病気で死んでしまい、人も寄らず、葬式もせずほったらかしにしておいた。その家が空家になると、そこへ白蛇が現われ、柱に苦しい態で巻きついていたという。下の三滝という所にお墓がある。大水がついてもその墓は流れないといわれている。

◇糠川

糠の魚、生魚は鮮度を落しては価格も半減するところから、ボテさんにより、舟が湊につくのを待って急送された。塩をふりかけておくと、武生へ着く頃には、魚も結構よい塩加減に塩味がきき、鮮度もおちなかった。

「山干飯 小字のはなし」 10 小谷(こだに)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

小谷(こだに)

小谷村は、昔、道路を境に土山村と相対しており、右が土山、左を小谷と昔の旧道にて形付けられていた。

現在の両村の中央が県道に変り、家の移転などで昔の形は残っていない。小谷村は小谷として地番号も元のままで戸数は十戸である。

この地に屋号を小谷さんと言われる家があるが、この家は昔、堀村に城をかまえていた黒田七郎左ェ門宗則という城主が居たが、織田信長の城攻めで落城し、ここ小谷に逃れた。後争いが静まったため、先祖の黒田三郎兵衛のみを残し、再び堀村にもどったということだ。(山寺谷の下に小谷清水と名付けた池があったので、ここに居をかまえたものと思われる。)現在も黒田三郎兵衛氏の屋号呼名を小谷(こだんさん)と呼んでいる。糠に通ずる道端にあったため、昔は旅人の休場になっていた。

松前船が糠浦の沖に停泊し、昆布、肥料、干だら、塩ざけなど北海産物を武生に送る荷が着くたびに、村々より人夫が集まり、広瀬の問屋まで背負って運んだ。賃金は木札の鑑札で、広瀬の問屋で運賃の精算をした。一日に二往復したと聞く。この荷運びも県道が明治十九年に開通し、また、北陸線の開通により便利になった。

一、小字名

1 とうげ(峠ゲ)

2 さがりで(下り出)

3 ながたん(永谷)

4 ぜんまがたん(善間ヶ谷)

5 あかさか(赤坂)

6 うしろがたん(後谷)

7 ひがしたん(東谷)

8 ちぎんだ(契田)

9 のせ(野瀬)

10 やまでら(山寺)

11 むらのうち(村の内)

12 にんにやま(右山)

13 うしろやま(後山)

14 そばたん(添場谷)

15 どうかべ(堂壁)

16 くつかけ(沓掛)

17 はらいだに(払谷)

18 どうでん(土田)

19 さんごうだん(三合谷)

20 かげひら(蔭平)

21 のぼりばし(登橋)

22 ゆのくち(湯ノロ)

23 かもとりだ(鴨坂田)

24 むろいわ(室岩)

25 おおえ(大江)

26 じうがたいら(上ヶ平)

山林

27 かみどうでん(上土田)

28 かみくつかけ(上沓掛)

29 かみにんやま(上右山)

30 かみあかさか(上赤坂)

31 かみうしろだん(上後谷)

二、小字のはなし

1 峠 ①そら峠、米口村との分水嶺となる峠で、これより小谷村の方の水は糠川へ流れ、米口の方の水は吉野瀬川へ流れそら峠とよんでいる。②下峠菖蒲谷と土山村の峠を下峠とよんでいる。

2 下り出 峠より下りてきたところ

3 永谷 土山小谷よりそら峠に行く谷で一番奥深く長い谷である。

4 善間ヶ谷 谷は浅いが湧水が太くて大事な用水である。

5 赤坂 赤坂は文字通り赤色の土が出る。土山からお宮の下の坂道を登った所に、赤坂のおん堂さんと呼ばれた地蔵堂があり、正面に聖観音様と、二体の地蔵様が祀ってあった。

昔、親子四人の乞食が来て家々を廻り食べ物を乞うたが、飢饉の年でだれも食べ物をやらなかったため親子四人とも死んでしまった。七左ェ門はこの親子の供養のため、安永四年石地蔵をつくった。今は寺の地蔵堂に観音様とともに一体は安置されており、もう一体の地蔵尊は長助に帰りたいとの行者様のおつげがあったので、長助がお世話をしている。毎年七月二十四日講中により夕方か御詠歌をあげて供養をしている。

6 後谷 赤坂の後の谷である。

7 東谷 村の東方にあり、土山十六字東谷地籍の続きである。

8 契田 金華山遊園地へ行く広域林道の入口。

9 野瀬 昔からの屋敷跡で、タッチョウ長者屋敷跡がある。今は段々畑となり柿の木、杉を植林してある。

10 山寺 古寺跡か、谷の出口は五輪塔が三つ四つあったが今は土中にうずまっている。寺の過去帳に山寺甚六名とある。

11 村の内 小谷村の宅地である。明治中期の実話に、この村に欲のない女乞食がいて、お宮をねぐらにして毎日家々を廻り食べものを乞うていた。一日腹がはれば明日の事は何も考えず、村の皆んなにかわいがられていた。ある年弥右ェ門に来て食を乞うだが、どうしたことか門口でうずくまったままこと切れた。村人たちが集って葬式、野辺送りをしたが、その時村の若者のひとりが乞食の足の裏に、越前の国小谷村、村乞食の名を墨で黒々と書いた。
 二、三年たって大阪から一人の紳士が尋ねて来て、「我が家に赤子が今年生まれたところが、足裏に名前が書いてあった。行者が見て言うには死亡した所の土をもらって洗えば消えると聞き、お宮の土をいただきに来た」と言って土を持って帰られた。 大阪の豪商の家に生まれ変ったのだそうな。

12 右山 村より右の方の山畑地である。

13 後山 昔、小谷村の鎮守秋葉神社の社があった。 明治三十六年土山村神明神社と合祀されて現在地 土山の三十字上赤坂の地に新社殿を建てた。

後山の鎮守堂は大昔、土山の二十三字真久保の古宮地にあったのかもしれない。古来鎮守字堂の下にあったので、堂下という名になった。

14 添場谷 この谷の開田は谷水を高台に引く時に通 水のトンネル(横穴)を掘り水を引き、初めに六十刈(一反)を開田、後に八十刈を開き溜池を造用水とした。

15 堂壁 糠蒲への旧道で十六字 沓掛に続く糠川に そった旧道である。 30 上赤坂 土山、小谷村の神社がある。 明治三十六年秋葉山神社、神明神社を合祀した。この時神社の登る中間に山の神のお堂があったのを現在地に社殿を新築して(神社の左の土地)うつした。昭和二十八年頃までは、十二月八日の山祭りには山仕事にたずさわる人々(木びき、炭焼等)は御神酒やぼたもちを持ってお詣りをした。神前に献灯し、三宝を神前に並べ、その上に酒をそそぎ拝礼して帰った。九日は一日休養した。女の人はお詣りすることは禁じられていた。

「山干飯 小字のはなし」 09 土山(つちやま)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

土山(つちやま)

古来より土山村と称したと思われる。泰澄大師が越前山干飯に来錫されて一村一宿坊を造られて宿坊に坊守をおき、村々の信仰の中心となされた。(白山神社に四十八坊ありというのは、山干飯四十八ヶ村に一坊をおいたことをいうのである。)

土山のお宮地は、土山十四字西山の二十九番地にあり、西山の中腹にあって古来よりの坊跡である。祭神は文珠菩薩木像同不動明王像十一面観世音像三尊像で、この仏像について、願成寺世代住職が修覆再興をした記録が仏像台座に書いてある。

願成寺の開創は応安五年、今より六百五十年前であるから、土山村開村以来の神宮本尊であり一村一坊の守護神であったと思われる。

土山の土地は、一帯が土のみで、石は無く、広域林道工事者も、土山の田地の改良工事(耕地整理)をした方々も、「私等三十年来工事の仕事をしているが、このような土ばかりの所ははじめてで、土山の名の通りですね。」と言われていた。山を三十米、 四十米も切り開き道路を造ったが、心土まで土であり、石は一個も出なかったと言うことだ。一千何百年来土山村と呼ばれていたのも、この理由からでなかろうか。

一、小字名

1 かみはたがだん(上畑ヶ谷)

2 はたがたん(畑ヶ谷)

3 ちがだいら(血ヶ平)

4 つじどおり(辻通)

5 てらだ(寺田)

6 てらのおもて(寺表)

7 はかんたん(墓ノ谷)

8 てらのおく(寺ノ奥)

9 だけ(嶽)

10 なかのたに(中ノ谷)

11 にしのたに(西ノ谷)

12 なかにし(中西)

13 だいもん(大門)

14 にしやま(西山)

15 むらのした(村下)

16 ひがしたん(東谷)

17 そんばたん(添場谷)

18 どうでん(土田)

19 さんごうだん(三合谷)

山林

20 きたはら(北原)

21 かみひがしたん(上東谷)

22 まくぼ(真久保)

23 のぼりばし(登橋)

24 ゆぐち(湯口)

25 はらいだん(払谷)

26 ごんご(言語)

27 あおいけ(青池)

28 としかげ(年蔭)

29 やなぎくぼ(柳久保)

二、小字のはなし

1 上畑ヶ谷 昔から畑地で山裾は傾斜地だが肥沃なので段切りをして、山桐、うるしの木、桑の木、三つ種、こうぞ等を植えた。

山桐は実から桐油を絞って行灯に用いたが暗いので、菜種油を二割程混合して使った。食用にならず、雨ガッパ、提灯、番傘等防水用に使用した。実は持主が二回拾った後は誰でも自由に拾ってもよかった。木が大きくなれば実も少なく、収穫もだんだん減ってくる。こうして役にたたなくなった木は下駄に使われた。重いが歩いても歯は減らず一般向きであった。

冬期は三つ椏、こうぞの皮はぎをした。桑の木は高くなるので梯子を架けて葉をつんだが、近年の刈り桑の木とはちがい小さな葉だった。桑の大樹は上等品の家具に造られ、舟ダンス、茶ダンス、箱火鉢、お椀の木地等になった。根は干して桑酒に入れた。鯖江の宿場に薬酒の酒造り屋があった。この土地は明治十年頃開田したが、用水が少ないため、山腹に横穴を掘ったところ、たくさんの湧水が出たので、近隣の村々より見学に来たそうである。

2 畑ヶ谷 九字の嶽より続いている地籍で、明治初年の頃、古老の話に「うららが田の草取りに行くと、上の高い田の土堤の眺めの良い所に肉獅子やカモシカがたくさんいて、日長の一日中草取唄をうたうのを聞いて見おろしていた・・・・」と。カモシカは毎日出てきたが、人にもおそれず害もなかったそうな。

3 血ヶ平 この地籍は菖蒲谷の一字血ヶ平の続きで、土山三字血ヶ平となっていて、四字辻通りに続いている。明治初年までは辻通りまで開田してあり、血ヶ平、畑ヶ谷の谷窪はしょぶしょぶの赤そぶの湧く湿地帯であった。

4 辻通り 願成寺元寺の屋敷前の道路で、糠浦へ通じ、現在の寺入口のT字路になっている。この道路の右の田は昔から風呂の下と呼ばれており、七堂伽藍のあった時の湯殿跡である。

寺の入口より五十米程上り、米ロと菖蒲谷に行く分れ道に、辻の地蔵堂があった。今は寺の石段の登り口に移されているが、地蔵堂には地蔵様一体とほかに立像二体があり、桃山時代かそれ以前の作といわれている。

辻通のしも土山字大門との境の川に極楽橋がある。この橋台は大石三個で出来ており、左の石は平石一個、右の石は二個となっている。昔碑をこわして橋をつくったという記録がある。

5 寺田 願成寺元寺屋敷で七堂伽藍の跡を享和年間に開田した。三反歩位ある。御朱印地は年貢を納入せずとも良いので、願成寺には三石四斗七升の年貢諸役免除の殿様(松平家代々)の書付がある。

6 寺の表 願成寺の一部開田したところ。昔、飢饉の年に土山村の大門氏が開田した時、仕事に来た人に手間代として一日に米五合を支払った。約一反歩位あったらしい。仕事に来た人々も飢饉のため粗食で十分な力仕事は出来なかったようである。

7 墓の谷 昔から土山の墓地で、願成寺初代からの墓や、村の家々の墓もあり、願成寺開山第一世芳・祖厳禅師の無縫塔がある(卵塔とも言っている)村の総墓で宝篋印塔一基があり、ともに昭和四十九年十一月一日に武生市の文化財に指定された。南北朝時代の手法をよく残している。農道改修の際寺墓地石段三段を無くして前面を道としたため元の形はない。

8 寺の奥 元願成寺の奥の谷で、この上が九字嶽地籍となっている。

9 嶽 寺の奥の上台地である。昔は田地だったが、今は杉が植えてあるが、それ以前は山桑、油桐木、三ッ匣、こうぞ等も植えてあった。その上は大杉林で中腹に安戸の天城へ行く道があり、菖蒲谷の血ヶ平より続く道である。

ここにまつわる話に、「或る日村の鶏が時の声をあげて、コレコッコーと鳴いたら、嶽山が火事となり、たくさん切り倒してあった大木は黒こげになってしまった。」と。それよりめんどりが鳴くと不吉であると言い伝えられている。

10 中の谷 この谷は日当りが良くて不作で飢饉の年であっても種子もみはあったという。谷の中央に清水がわき、この池で田を養っている。

11 西の谷 村の西方の谷で、中の谷より西の谷へ通じる山道がある。山の窪地に二坪程の平地があり、そこはこけがはえていて日当りも良く、人目にもつかず休場として格好の地であったため、村人は仕事に行くように見せかけ、ここに集ったという。

12 中西 西の谷続きで、谷の下の方で山腹に横穴を掘り用水にしている。

13 大門 元願成寺の入口にこの名があり、土山村の屋敷地である。橋本氏の屋号呼名を大門と言うのも、寺の大門に宅地を定めたので呼名になった。

14 西山 昔から畑地で、日当りよく作物がよく育ち、村の季節の野菜の多くはここで作る。山桑、こうぞ、油桐を植えた時代もあり、戦時中は食料増産でさつま芋、麦をたくさん作り供出した。この地籍の右方に村のお宮さんの旧地跡があり、近年は杉を植林して、耕地は少くなってきた。初めてキャベツを作った時、炊いて食べたら昆布を炊いて食べたような味がしたと古老が言っていた。

15 村下 小谷十一字の内に続き、佐内屋敷跡があるが、畑となり近年は杉を植林してある。

16 東谷 村より東方にあって小谷六字後谷と七字東谷の上の谷である。多くは溜池を用水としている。高台の田は百年程前に開田したと思われる。

17 添場谷 昔から添場谷と呼ばれていた。そばを作った谷かも知らず、そばは蒔いて八十日か百日位たてば刈り取られる作物で、非常に作りやすく貯蔵も出来、粟、きびに次ぐ大切な食料であった。茎はよく乾燥して繭から糸を取る時のゆで汁、あく湯に使用(茎を燃して灰にし、ざるにとり湯をかけて一夜おき、その上ずみのあく水を使った)他の灰のあくより良く糸が引けた。

18 土田 糠谷に面した山で日当りが良い。山の中腹へ谷水を引き開田した。安戸、土山、小谷地区の山中の田は、日当りが良く、水の便があれば開田したと思われる。帯のように長い田がたくさんある。

19 三合谷 今は山林となった。

20 北原 土山村の北方の山地山林をいう。

21 上東谷 土山村の東方山地。

22 真久保旧古宮の地名があり、昔の秋葉山神社の跡である。

24 湯口 大昔湯が湧き出たところであろう。小谷村2字湯の口の近くである。河野村糠浦へ流れる糠川の源は、杉山、神土の山の中にあり、(安戸村天城の水も杉山谷へ流れている)菅の川水を合わせて糠の海に入る。この谷は切り立った岩石が多いが甲楽城断層の割目であろう。越前町の温泉の湧く血ヶ平の谷も岩山で両側が切りたっているがよく似ているように思う。地下に湯脈があり湧き出していた事があるのだろう。

三、いいつたえ

◇神明

土山、小谷村に神明講があり、毎月、月初めに廻り番に当番を定めて夕方集まる。(原則として男子)集まった者は手を洗い清め、神前にぬかずき般若心経を唱える。そのあと持ちよったお酒と当番にあたった家の手づくりの料理で食事をし一夜を楽しんでいる。昔は、五品位の副食を用意し(ごはんはめいめいが重箱につめて持ち寄った。)残ったものは重箱につめて持ち帰ったが、今は簡単なものになった。

「山干飯 小字のはなし」 08 堀(ほり)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

堀(ほり)

堀という名の由来は明らかではないが、集落背後の丘上に、城中、城場という字名が残っているところから城があったのではないかといわれている。城中の四方に堀切りの跡があり、そのため下の方一面は窪地になっており、水溜りが多かったため、堀と名付けられたと言われている。(堀の跡とも言われている。)

集落は城中と御清水ヶ谷の一部を宅地としていたが、現在はこの元の村より西の方へとのびてゆき、勘定場、城戸ノロ、上中江、暮坪と家数が増えていった。

城のあったといわれる場所より東の方へ下ると谷があり、そこに飲料水が出ている。城は二階堂城の支城であり、城主は堀村の開祖であったと伝えられているところから、古来より栄えた村ではないかと思われる。

武生‐米ノ線を結ぶ街道は、昔は村の真向いの経ノ尾の麓を通っていたが、明治二十九年の道路改修によって県道が村の前を通るようになったため、今は廃道となっている。

堀には三柱神社があったが、大正九年(一九二〇)に山千飯の総社である二階堂の白山神社に合祀された。

村の中央に京都本隆寺の末寺である法華宗真門流妙証寺がある。この寺の開基は足利時代の中期といわれている。昭和三十七年に十七世が入寂されて以来無住となっているが、壇家がよく管理し行事を守っている。

明治八年には御清水ヶ谷の畑地に十五ヶ村共同で温故小学校が新築され、以来三十五年に二階堂に新校舎が出来るまで開校されていた。昭和になってもその畑から石墨などが出て来たという。

明治三十四年には、堀郵便局が置かれ、以来民家の一部を局舎にあてていたが、昭和初期に現在の上村下に初めて白山郵便局として独立の局舎が新設された。

県道が改修されてから、地区の重要な建物が建てられ、色々な商家も増えて行き種類も十一あり、栄えて行く集落といえよう。

大正に入って安戸から出て来た木股氏が、上中江に居を構えて風呂屋をはじめた。経ノ尾の麓から良い水が湧き出て、皮膚病や神経痛に効くと評判になり、米を持って泊り込む湯治客も多かったという。近くの人は大人は二銭、子供は一銭で入浴に行ったといわれる。後に床屋も開業し、散髪をしたお客さんは、無料で入浴したという。風呂屋は十二年頃に廃業し床屋だけとなった。

最近まで富山の薬屋さんの定宿となっていた。現在でもその付近は良い水が豊富に出るので飲料水として多くの人が利用している。

朶村に小谷があった。織田信長の兵火に焼かれた堀城の人達が小谷に逃れた。しかし、平穏になってから三郎兵衛という人を残して再び堀に帰ったといわれ、そのため堀の朶村になったという。現在は土山に近いため土山の朶村となっている。

一、小字名

1 おくおおいわ(奥大岩)

2 たかいら(高平)

3 おくみなみだん(奥南谷)

4 なかみなみだん(中南谷)

5 なかおおいわ(中大岩)

6 くちみなみだん(口南谷)

7 くちおおいわ(ロ大岩)

8 きどのくち(城戸ノロ)

9 かみくれつぼ(上暮坪)

10 なかくれつぼ(中暮坪)

11 しもくれつぼ(下暮坪)

12 かんじょうば(勘定場)

13 かみなかえ(上中江)

14 ゆぶりだん(湯降谷)

15 しもなかえ(下中江)

16 しもむらじた(下村下)

17 かみむらじた(上村下)

18 しろのなか(城ノ中)

19 おしょうずがだん(御清水ヶ谷)

20 おおいなば(大稲場)

21 げたがたん(下田ヶ谷)

山林

22 とうげ(峠)

23 りょうたん(両谷)

24 きどのおく(城戸ノ奥)

25 むねのり(宗則)

26 しろば(城場)

27 きょうのお(経ノ尾)

28 きょうがみさき(経ヶ岬)

二、小字のはなし

1 大岩 その名の通り、谷の奥の所に大きな岩があり、以前はその岩まで田であった。全面に苔が生えており、いつも水がしたたり落ち、巨岩の相を持っていたが、今は森林に囲まれてその俤はない。

2 高平 南谷の奥地で、普通ならば狭くなるのだが幅の広い地域があるので、高平と名付けられたのだろうか。

4 南谷 山千飯四十八ヶ郷の総社であった白山神社を起点として考えると、南にあるので南谷となったのか、中野村の北谷と思い合せるとこの考えもなりたつのである。

8 城戸ノロ 伝説としては何もないが、二階堂、及び堀に城のあったことを考えると此処に城戸のあったことは当然と思われる。しかし、それがいずれの城のものであるかはわからないが、二階堂城が本城で、堀城が支城であったと伝えられるところから、二階堂城のものかとも考えられる。一部は宅地にもなっている。

9 暮坪 遠く口分田の昔に拓かれていた田には、暮と呼ばれている地名もあるらしいが、暮坪はその頃、田であったかどうかは疑わしい。しかし四方が道路で囲まれ、二筋の作道で上、中、下に区分されており、高低が少なく、しかも最近の耕地整理に多くの神代杉が掘り起されたことを思うと、相当早く開墾されたものと思われる。

12 勘定場 堀城の勘定奉行所があったのかも知れない。又、その建物の敷地であったとも考えられる。

13 上中江 この字の中に桜町という田もある。かっては、桜の木でもあったのだろうか。上、中、下に分かれたこの田からも、耕地整理に神代杉が多く掘り出された。

14 湯降谷村の真向いので、畑になっているが、飲み水が湧き出ている。昔は湯であったと伝えられている。

16 下村下 元の村の下にあるのでそうよんだと思われる。この地は粘土質のため、明治三十二年頃に、瓦工場が建てられた。経営者は代ったが、昭和三十年頃までつづけられた。

18 城の中 通称、城中(じょうなか)といわれている。宅地の一部と、後の畑地で、頂上は広い台地となっており、城塞があったのではなかろうかと思われる。

19 御清水ヶ谷 宅地の一部と後の畑地となっている。この地の一画に温故小学校が建てられた。明治八年から三十三年まで開かれていた。

かって城の飲料水に使用されたのも、この谷の水であったかと思われる。耕地整理が出来るまでは、四町程の田を養なっていたが、今は水量も減り少なくなっている。

25 宗則 城ノ中から尾根伝いに行くと、宗則の頂上に出る。一面平地になっており、ここに堀城の本城があり、城主は、宗則成ノ守といったという。城ノ中の畑地と共に、独立した丘陵で眺望も良く、海岸の方も、府中の方も一望の内にあって、城のあったのも成程と肯けるのである。

この城も織田信長の兵火に焼かれたといわれ、この字名も城主の名前が付けられたと伝えられている。

27 経ノ尾 堀の正面の山で、通称向山とよんでいる。その頂上に村人の安泰を願って、法華経経文を書いた一字一石が埋められているといわれ、そのため経ノ尾と名付けられたという。又、その頂上に大きな松があり、村人は経の松と呼んだ。かなり遠くから眺められ、枝ぶりも良く、山の象徴として仰いだが、十年程前から枯れ初め、今は姿を見ることは出来ない。

白山地区に給水される水道の上水槽がこの経ノ尾の北端に作られるといわれている。

28 経ヶ岬 経ノ尾の東南につき出ているため、そうよばれたらしい。米口地域の猫谷と地続きである。

「山干飯 小字のはなし」 07 菖蒲谷(しょうぶだに)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

上菖蒲谷(しょうぶだに)

昔は岡と呼ばれる真向いの小高い場所に集落があったらしい。谷合いへ降りたのは何時の頃かわからないが、明治末頃は十四、五戸程であったという。

美しい大字名は、その昔菖蒲の花が咲いていたのかもしれない。川上に位置するため、美しい澄んだ水が絶えず流れ、南に面した暖い集落である。

県道が改修されてから、白山地区の中心地となったため、家数が二十五戸になった。隣接する堀とともに山村でありながら戸数が増えていった。

菖蒲谷は昔から、医者を開業していた人が多かった。明治の末、今の歯科医の篠山先生の父親に当る範先生という方が、内科医を開業された。漢方薬や、富山の置薬に頼っていた村人は大喜びであった。しかし、この人は若くして亡くなられ、その後、この場所で、佐々木先生、丹尾先生、似生先生、谷口先生、野尻先生と次々と開業され、診療に当って来られた。

この地で亡くなられた谷口先生以外の方々は村を去られた。その間無医村であったこともあり、地区民としては大きな不安であった。病人は、武生や宮崎村、また糠浦まで診てもらいに行ったが、戦争中であったため、車もなく、リヤカーや戸板にのせれて行った人もある。現在は地元出身である高橋先生が開業されて、地区民はこれ以上のよろこびはないと安堵している。

土山の願成寺の文書によると、菖蒲谷、土山、安戸に山争いがあり、天正十九年三月十四日山境の取り決めが行われたとある。

一、山の大場については大嶺、南平の横道を境にする事。

一、山に入ることの出来る者は菖蒲谷、土山、安戸で切り出しが出来る。

一、三ヶ村のうち菖蒲谷は持ち山が多いので、土山、安戸の者が山を利用した請料として毎年米五斗を菖蒲谷に納める事。となっている。

一、小字名

1 ちがだいら(血ヶ平)

2 こだに(小谷)

3 いなば(土地稲場)

4 はかんたに(墓ヶ谷)

5 むらのおく(村ノ奥)

6 おおひら(大平)

7 たかひら(高平)

8 みなみだん(南谷)

9 しもみなみ(下南)

10 このうえ(家ノ上)

11 おか(岡)

12 たけのこし(竹ノ腰)

13 ひのきだん(桧谷)

14 うやま(宇山)

15 はしがたに(橋ヶ谷)

16 ばんば(馬場)

17 みやのまえ(宮ノ前)

18 しもばんば(下馬場)

19 ののこし(野ノ腰)

20 よこまくら(横枕)

21 ごたんだ(五反田)

22 むかいかわ(向河原)

山林

23 たけのこし(上野ノ腰)

24 とうげ(峠)

25 かみちがだいら(上血ヶ平)

26 かみおおひら(上大平)

27 かみむねあげ(上宗上)

28 かみはしがたん(上橋ヶ谷)

29 かみみなみだん(上南谷)

30 かみたかひら(上高平)

31 おおいわ(大岩)

32 かきだいら(柿平)

33 ろくがたん(録ヶ谷)

二、小字のはなし

1 血ヶ平 山林上血ヶ平の下手の谷であり、土山の③血ヶ平の地続きでかっては田であったらしいが、今は山林になっているのか、田としてこの字名を知る人もない。

2 小谷 菖蒲谷から土山を経て糠に至る県道沿いの小さな谷

3 土地稲場 集落の奥の南向きの小高い所にあり、日当り良く昔は稲架の場であった。

4 墓ヶ谷 以前にこのあたりの田を整地したら、五輪の塔の頭が出て来たので、昔は墓場だったのかと思われる。

5 村の奥 集落を通り越して村の奥にある。

6 大平 山林上大平の下にある。

7 高平 山林上高平の下にある。

8 南谷 堀地籍の南谷の地続きであり、上手にあたる。

9 下南谷 総社白山神社を中心として南方に当る谷なのでそう呼ばれたものと思われる。

10 家の上 集落の奥の上方にある。

11 岡 ここに集落の氏神である白山神社がある。菖蒲谷の村も、もとはここにあったという。集落の南方の小高い丘陵地で日当りが良く、かっては秋になるとここに稲架が立ち並んだそうだ。夕方遅くまで稲刈りをして疲れた体で稲を背負って、この岡に登るのはとても辛かったそうで、稲を架け終えて家に帰る頃には真暗になり、手さぐり足さぐりで帰ったと言う。

12 竹の腰 この奥の谷は竹藪であったそうだ。

13 桧谷 大きな桧でもあったのか。

14 宇山 村の上で畠がたくさんあり、昔はここにも家が建っていたそうだ。

16 馬場 18下馬場 その昔七十五町歩、七堂加藍の建物を誇った山千飯四十八ヶ村の総社白山神社の直線に当り、おそらく馬場として使用されたのであろう。通称仮屋ともいわれており、白山神社の三十三年毎のお渡りの祭礼の前夜、神社をお出ましになった神様を一夜仮の小屋を作って安置したので仮屋と言う名が出来たそうだ。

17 宮の前 二階堂より中野に通じる県道沿いの左側の山に総社白山神社の下の宮があったそうである。

21 五反田 都辺の地続きでここに菖蒲谷の田が五反あったのだろうか。

22 向河原 二階堂より中野に通じる県道近くにあり、千合谷の解雷ヶ清水を原流とする天王川の菖蒲谷より見て向側となる。

24 峠 菖蒲谷より土山に通じる県道近くにある。

35 上血ヶ平 この山に昔は火打石の原石が出たが、各村から来て取り尽され、今はほら穴のみ残っている。

26 大平 大きな斜面だからか。

30 上高平 南谷の奥に当り広い斜面が高い所にあるからこの名が出来たのか。

31 大岩 堀の大岩の地続きで山の中腹に大きな岩がはり出して居る。今は杉の木が大きくなって見る事が出来ない。

32 柿ヶ平 安戸の柿ヶ平の地続きである。

33 緑ヶ谷 戦前は参剝山(二ヶ村以上共有の山)この山は菖蒲谷、土山、安戸の共有で菖蒲谷は一番奥の山。

三、いいつたえ

◇嶽の一本松

大きな枝ぶりの良い松で、嶽は土山地籍だが、菖蒲谷より安戸の天井へ行く山の高い所にあり、山の行き帰りの目安として菖蒲谷の人に親しまれていた。また、この松にかかるお日様を見て時間を計ったともいう。今は枯れてない。

◇寺

場所は定かではないが、江戸末期まで天台宗の寺院があったそうだ。御本尊は現在菖蒲谷の白山神社に安置されてあるそうで、この仏像は名のある人の作と言われているが、文化三年の供養の時、傷みが激しいので修理に出した所、その修理の仕方が悪かったので文化財には認められなかったと言う。

◇古墳

昭和四十九年天城への登山道路を作る時、この白山神社の境内から鎌倉末期のものと思われる骨壺が出土している。骨壺の周囲は玉石で囲まれ、更に刻み石で囲んであって直経三十糎程の物が三個あった。その一個の中には骨らしきものが入っていた。この神社の境内にはまだ残された古墳があるのではないかと言われている。

◇お医者じようせん

通称じょうせんと言う地名がある。坂田氏宅の上の台地で、ここに昔じょうせんさんと言うお医者さんがあったそうである。また、このお医者さんは坂田氏一族であったとも言われている。

◇筆塚

中村氏と言う学者がおり、近くの子弟を集めて学問を教えたと言う。その徳を偲んで子弟達で筆塚を建て後世に伝えた。

◇田争い

六ヶ谷の山林の下の谷は、安戸の六ヶ谷と呼ぶ田になっている。この田で昔菖蒲谷と安戸が争ったそうである。この谷は菖蒲谷が苦労して切り開いた大切な田であった。どうしたいきさつか安戸がこの田を我が田だと言い出し、お互いにゆずらず話し合いがつかない。皆で相談の上、では領主様に願い出て決めてもらおうと言うことになった。

両方の庄屋が幾日もかかって領主様の所へ行き、お互いの言い分を申し上げたそうな。領主様はどちらとも言わず、

「お前たち田植えはすんだのか。」

「はい、全部終りました。」

「菖蒲谷は何を植えたか。」

「はい、早稲を植えました。」

「安戸は。」

「はい、赤い穂の出るもちを植えました。」

とそれぞれ答えた。

「では穂の出る秋まで待とう。」

と言うことになった。

そして、いよいよ秋になり、待ちに待った穂が出たが、それは一面赤い穂のもちだったので、菖蒲谷の負けとなったそうである。菖蒲谷はたしかに早稲を植えたのになぜ赤い穂が出たのかと言えば、安戸のある家にとてもてなわん婆さんが居て、菖蒲谷が田植えしたその夜一晩の間に全部植え替えてしまったのであった。

大切な田を取られた菖蒲谷は、「おのれこの恨みは孫子の代まで忘れんぞ」と口惜し涙をのんだそうである。それ以来菖蒲谷と安戸は一組の縁組も無かったと言う。 しかし、最近では昔の争いはどこへやら、今ではその田んぼも植林されたり、減反のため昔の田の面影はない。

「山干飯 小字のはなし」 06 千合谷(せんごうだに)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

上千合谷(せんごうだに)

天王川の最上流部の谷合いにあり、千合谷の名の通り、谷の数が多いところからその名が由来しているといわれている。西方の山を越すと米ノ浦に達する。

集落の北西方には、二階堂町白山神社の奥の院といわれる白山神社があり、西方の御山には解雷ヶ清水(けらがしょううず)がある。

この解雷ヶ清水には、古く朝鮮、百済国の王女自在女(さいめ)が国難を避けて、干飯浦(米ノ浦)に上陸し、さらに奥地へ山を分け入り、千合谷へ向った。途中従者は水を求めたが、周りに見つからなかったので、王女は脚元の岩を杖で突いたところ、美しい冷水が渾々と湧き出し、従者の咽の渇きをいやすことが出来たという言い伝えが今も残っている。以来、由緒深い霊地として社を建て、不動明王を祀り、昔から毎年七月七日にはお祭りを行っている。村人はそれぞれ花を一輪づつ器に入れて手にしながらおまいりをしたものであった。また、雨乞いの神でもあり、天王川の水源地として、今でもこの水が渇れることはなく、一分と手がつけられないくらい冷たく清らかな水が流れている。

山干飯隧道が出来るまでは、米ノ浦から魚を売りに出るボテ振りさん達は、峠を越えると必ずこの水で魚を冷やし、府中の方まで売りに行ったという。冷たいため魚の鮮度を保つことが出来たらしい。

五十年頃までは、千合谷の人達はこの水で顔を洗い、野菜や食器も洗った。しかしこの頃では家屋の改造にともない、水洗トイレが普及され、汚水が流されるようになったので、そうしたことも昔話になってしまった。

今日まで、一回も火事を出したことがなく、これもお不動様のおかげと村人はいいつたえている。祭りの前日は、子供達が社周辺の草刈りや清掃を担当していたが、いつの頃からかその行事もなくなった。昭和五十五年には、茱原田、八斗田、馬戸(このあたりを通称ショケダンという)に潅漑用ダムが完成し、白山地区の田畑をうるおし、また、昭和五十八年には、水源地の工事が開始され、六十五年には工事完成で、白山地区の飲用水として需用が満されることになっている。これを機会に拝殿の改築が行われ、昭和六十一年七月、千合谷町あげての落成式典がとり行われた。

戸数は、明治六年頃には三十五戸あったが、昭和の現在は二十三戸に減少している。昔は炭焼きで生計をたてていたが、当時炭焼きは雨が降ると仕事にならず、男はお互いの炭焼き小屋をたづね合って、山や田畑をかけてチョボ(バクチ)をしていた。女は宝引きが楽しみの一つであった。

一、小字名

1 とうげ(峠)

2 くちとうげ(口峠)

3 くらかけぐち(鞍(鞍)掛口)

4 なかのはた(中ノ畑)

5 とりごえ(鳥越)

6 くちりょうだん(口無谷)

7 おやま(御山)

8 おやまぐち(御山口)

9 かくれだん(隠レ谷)

10 ささだん(笹谷)

11 くちろだん(口広谷)

12 おくくちろだん(奥口広谷)

13 さるだん(猿谷)

14 なべど(鍋土)

15 なかがくぼ(中ヶ窪)

16 ひながたん(雛ヶ谷)

17 だい(平ラ)

18 だいらぐち(平ラロ)

19 たかお(高尾)

20 でのたんぐち(出ノ谷口)

21 ばんどめ(番留=番乙女)

22 むかいやま(向山)

23 どうのくち(堂ノロ)

24 どうのく(堂ノ奥)

25 むらなか(村中)

26 どうりんだ(堂(道)林田)

27 とのやま=どうのやま(戸ノ山=堂ノ山)

28 てらだ(寺田)

29 くろのうえ(畦ノ上)

30 のどたん(喉吞)

31 くぼた(久保田)

32 いちのたん(一ノ谷)

33 おくいちのたん(奥一ノ谷)

34 ちわらだ=ちわりだ(茅原田)

35 はっとだ(八斗田)

36 ひやがたん(部屋ヶ谷)

37 あいど(相戸

38 にのたん(二ノ谷)

39 にのたんぐち(二ノ谷口)

40 すわのぢ(諏訪(防)路)

41 う(ん)まど(馬戸)

42 るびがだいらぐち=ももがだいらぐち(胡桃ヶ平口)=(桃ヶ平ロ)

43 こまがたん(駒ヶ谷)

山林

44 にがき(苦木)

45 かまがたん(釜ヶ谷)

46 きようしたん(キョウシ谷)

47 きたどうのく(北堂奥)

48 かみくちろだん(上口広谷)

49 りゆうがみね(竜ヶ峰)

50 なかお(中尾)

51 ちようし(チョウシ)

52 おくにがき(奥苦木)

53 みなみにのたん(南二ノ谷)

54 ひがしいちのたん(東一ノ谷)

55 おくちょうし(奥チョウシ)

56 がくぼ(ユジが窪)

57 にがき(苦木)

58 おおひらくぼ(大平窪)

59 おおくぼくち(大窪口)

60 いちのくぼ(一ノ窪)

61 びわたに(批把谷)

二、小字のはなし
1 峠 山越えをし、六呂師を経て、米ノ浦に出る昔の街道。

2 口峠 峠道へ上る入口。

3 鞍掛口 百済の国の王女が、国難を逃れる為、船で出国し、米ノ浦に流れ着き、六呂師から竜ヶ峰を越えて村里へ向ったが、道が険しくて馬で進むことが出来ず、鞍をこのあたりの木にかけたという。

4 中ノ畑 山の中腹にある畑で、昔は油木が植えてあって、その実を拾ってかますにつめ油を取る工場のある甲楽城まで売りに行った。大へん良い収入になったという。

5 鳥越え 高い山と山の間にある低い山で鳥達の渡り場であったとか。

7 御山 解雷ヶ清水のある山で、神様のお水の山と尊んで呼んだのだろう。

9 隠れ谷 小さくて入口の解りにくい谷で年貢隠しの田があったといわれている。

11 口広谷 入口が広くなった谷。山の頂上に、五間四方位の土台石のようなものがある。何か建物の跡でなかったかと思われる。又、池の跡もある。

13 猿谷 若須岳の降り口に当り、獣達の通り道であったのか。

21 番留め 昔、二階堂に荷物を調べて、金を取る番所があったので、それをさけて山伝いに出る道を、他地区の人達に教えてあげる為と、住民のために作った仮の番所のあった所。

22 向山 村の向うの山。

23 堂ノ口 村の氏神様のお堂のある所。

24 堂ノ奥 氏神様の奥の土地。

32 一ノ谷 総ヶ谷の一番入口の谷。

3 4茅原田 谷底にある田で、昔は茅原であったのか。

35 八斗田 昔、年貢が八斗であったのだろう。

37 相戸 日当りの良い田で、飢饉の時でも良く米が取れたそうな。

40 諏訪ノ路 安戸地籍の諏訪屋敷と、天井山を通じて何か連がりがあるように思うが、何も残っていない。

49 竜ヶ峰 昔、大きな竜が住んでいたといわれる。

三、いいつたえ

◇這い獅子

二階堂白山神社宝物の、一本角の獅子頭は這い獅子といわれている。昔から十月四日の例祭には、千合谷の若衆がこの頭をつけて舞うことに決っている。他の在所の人がかぶると、手足がしびれ、こわばって動くことが出来なかったといわれている。

ササズリ、チャリ、オタフク等も千合谷の若衆が代々受継いで来たが、それも六、七十年前までの話で、今は誰も使える人はない。

山干飯地区に祇園ばやしという獅子舞があったが、千合谷が発祥の地だといわれている。

◇池の窪

竜ヶ峰の頂上近くの、池の窪という所に小さな池がある。その池はいつも水が白く濁っている。その昔、百済の国の王女が大勢の家来と山越えをする時、この池の水で米を研いだそうで、今でも白く濁っているといわれ、そこから流れる鞍掛川の水も白く濁って流れている。

◇茶屋ケ谷

昔、千合谷と二階堂の間で争いごとがあり、仲が悪かったらしい。そのため、千合谷の人達は、武生や、白山の中心へ出るのに二階堂を通るのがいやであったのか、それとも通してくれなかったのか、一の谷から茶屋谷をぬけて菖蒲谷へ出たという。又、二階堂に役人の番所があったため、ここを通行するたびに高額の通行料金が取られるというので、料金のがれのために番留から一の谷、茶屋ヶ谷をぬけて菖蒲谷へ出たという。今でもその道はあるが荒れ果てている。

◇白椿

昔、百済(くだら)の国の王女が、国難をのがれて大勢の家来を連れ、黄金千両、朱千叭(かます)を舟に積み、米ノ浦の干飯崎へ上陸したという。六呂師から千合谷へ山越し、二階堂に来る途中の山の中の白椿の木の下に、黄金や朱を埋めたそうである。

場所は二の谷の奥で、今でもそのままだといわれるが、夢の中では、ありありとその場所が現れるが、翌日行って見てもどうしても見分けることが出来なかった。宝物は今もそのまゝ有るといわれている。

◇うたじし

 昔の人は、山の中や、畑で仕事をする時は、たいてい大きな声で唄っていたそうである。すると何時の間にか、うたじしが出て来て、畑の向うの山陰にすわって首をかしげて、じーっと聞きほれていたそうである。気が付いても知らん顔していると、何時までもいるので、「何じゃ、われ又来たんか」と声をかけると、こそこそと山の中へ隠れるが、又出て餌も取りに行かんとすわっていたという。

◇しか

昔、千合谷にも、鹿がいたそうで、射止めてかついで帰った人もあるし、時には角を拾って来た人もあるそうだ。

◇与門ごろ

昔、千合谷と二階堂が話し合いをして村境を決めることになった。

その日になると、二階堂の代表の人は、朝早く起きて来て、どんどん山の中に入って行った。千合谷は村が谷間のため、夜明けがおそいので遅れてしまった。代表の与門さんは、後から追いかけたが、二階堂の人は若くて足が速いため、追いつくことが出来ず、とうとう、堂の奥の奥まで来てしまった。そのうち与門さんは、木の根に足を取られて、「スッテン」と転んでしまった。腹を立てた与門さんは、「勝手にさらせ」と怒鳴って帰ってしまったそうである。それでこのあたりを与門ごろという。

「勝手にさらせ」と言われた二階堂は、そこから奥はもらってしまったという。今でも堂の奥の奥の広い山林が、二階堂のとび地として残っている。

◇茅(かや)刈り

千合谷の人達に、茅刈りという大きな仕事があった。

春の日ざしも、日毎に暖かくなり、谷々を埋めていた雪が眼に見えて少なくなって来ると、「あゝ茅刈りの時期が来る」と、若い嫁さん達は物憂くなったという。その頃、在所の総代さん達は、区長さんの家に集って、その年の百姓手間を決める。

決められた男手間と女手間の中間が、その年の茅一メの価額である。又、その時にその年の雪の解け具合を見て、口明日(くちあけび)を決める。

口明日が決まると落着かず、鎌を研いだり、丈夫なカルサンを作ったり、日持ちのするおかずを作ったりしておいた。口明の日が来ると、一時、二時には起きて、自分はもちろん子供の分のおにぎりを作ったり、餅を焼いたり、赤ん坊にはお乳を飲ませて、いづめに入れ、四、五才の子は近所の年寄りに頼み、学校に行く子には起きたらすぐ食べられるように朝食を並べておいた。

外はまだ真暗で、お星様がキラキラ光っていた。一人では行けないので、何人か組になって、手に手に提灯を下げ、それぞれ自分の目ざす山へ出掛けた。

近い刈り場もだんだん無くなると、遠く六呂師、午房ヶ平、米ノ浦、高佐の滝の近くまで刈りに行った。千合谷の人達が入り込まないかと張り番をしていた地つづきの在所もあった。

在所生れの嫁さんは、小さい時から見よう見まねで上手に刈り揃えて行ったが、他所から来た嫁さんは泣かされた。五把で一〆と言い、上手な人は一日に幾メも刈ることが出来た。刈った茅は長く重かった。遠い山から背負って帰るのも又一苦労であった。

子供達も学校から帰ると水汲みをしたり、掃除をしたり、赤ん坊のお守りをしたり精いっぱいの手伝いをしながら親の帰りを待った。

そんな日が四、五日も続くと、もう体はへとへとに疲れ切ってしまった。

前年の暮の内に、神山、大虫、安養寺方面から注文を受けておき、出来上った茅をガタガタ車に積んで家々に運ぶのも一苦労であった。仲買人を通して買売されたが、個人売りもあった。若いお嫁さんはつらい目にあいながら、お金がどれだけ入ったか知らなかったが、大低その家の半年分の小遣いはあったのではないだろうか。

在所の屋根の葺替えは、結(ゆい)で茅三〆づつ持ち寄って手伝った。

「山干飯 小字のはなし」 05 二階堂(にかいどう)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

二階堂(にかいどう)

天王川上流部の山千飯盆地一帯を見渡す西部山麓に位置する、近世の山千飯郷の中心的集落として発達した。

当区の小泉家は二階堂吉信の末裔と伝えられ、代☆吉の字を冠し吉右ェ門と称していた。二階堂という地名についても二階堂吉信という武将がこの地を治めていたところからこの名がついたといわれている。

小泉家は代々二階堂の庄屋を務め、造り酒屋であったが、その後花筵等の伝習所をつくり、地域の産業の振興に努めた。また、小泉家には真宗道場もあり、総社白山神社の神職なども務めた家で、総社白山神社古文書をはじめ多くの古文書がある。

明治二十九年頃先代小泉教太郎県会議員が武生1米ノ線の県道改修に奔走し、現在の武生米ノ線が出来た。

堀町に公立温故小学校が明治初期に建てられたが、白山地区の学校を合併するにあたり、二階堂の白山神社境内に白山尋常高等小学校として、明治三十五年頃に設置され、隣村の坂口村、城崎村の高等科の生徒もこの学校に通って来た。

明治四三年(一九一〇)現在の都辺地区に白山尋常高等小学校が移転し二階堂の学校は廃校になった。二階堂町の東方山千飯道の北側の丘に古墳があると伝えられており、その近くの山麓から昭和三十五年頃、和同元年(七〇八)に初鋳された和同開珎をはじめとする皇朝銭が出土した。

遺跡のうちこれらの銭貨を意図的に埋納したと判断される例は全国的には各地に発見するものの、福井県下では確実な例は極めて乏しく、今のところこの下の宮遺跡だけである。

この遺跡から和同開珎、万年通宝、神功開宝の三種、計二十五枚という県内最多の皇朝銭が発見された。これらを内蔵する須恵器の一つは平瓶という埋納器としては比較的まれな器種である。

偶然の結果出土したこの遺物は発見者山下禎一氏によって永らく保管されていたが、現在は福井県立博物館に寄託してある。

白山神社は山千飯盆地を見渡す丘にあって、山千飯四十八ヶ村の総社であった。

祭神は伊諾冊尊で、「白山神社縁起」によれば、百済王の娘自在女が尼となり海を渡り、干飯崎(現越前町米ノ浦)に上陸して二階堂の地に至り悪病を祈禱によって平癒させたため、その守り神を当地の産土神としたのが白山妙理大権現と伝えられている。

中世近世には白山大権現と称した。養老元年(七一七)泰澄の創建と伝えられ、七堂伽藍の大坊で社領七五町を有し、殿社が多数あったという。江戸時代まで本地伝として阿弥陀如来を安置し、元和二年(一六六一)以来、鯖江誠照寺末の真宗光坊が神職を兼帯していたが、文政四年(一八二一)神主小泉家と真宗道場とに分離した。(小泉家蔵白山神社文書)

祭日は旧歴四月初午日、六月十四日、八月初午日、十一月初午日である。

祭礼の御輿行列は榊を先頭に、猿田彦-白山宮大旗-祇園大旗-村々氏子旗-悪魔払-獅子神楽-若者御馳走-御膳米口庄屋-御輿-神主の順で、御輿かつぎは昔から米ノ浦の若衆で、額に一本角御獅子頭は千合谷の若者と定められていた。

その御輿も今は修繕不能ないたみようで御輿堂に保管されており、現在は氏子の方々から特殊寄付を募って小さな御輿をつくり、幼児、小学生がかつぎ、氏子若衆、氏子総代一名、各集落からの宮当番一名が子供御輿について氏子の家を廻っている。

現在は白山神社の祭礼は十月十日に決められている。御輿堂も古く、いたみもひどくなったので、昭和六十年に下の広場に新しく建てられ保管されている。

大正九年(一九二〇)に菖蒲谷の白山神社、杉本の大将軍将社、都辺の春日神社、萩原の八幡神社、堀の三柱神社、土山の神明神社、小谷の秋葉神社が合祀した。現在総社白山神社の氏子は、二階堂、堀、菖蒲谷、萩原の四集落が氏子で合計七〇戸位で維持している。

一、小字名

1 おくじゅうだん(奥十谷)

2 かみじゅうだん(上十谷)

3 なかじゅうだん(中十谷)

4 しもじゅうだん(下十谷)

5 じゅうだんまえ(十谷前)

6 はやしがたん(林ヶ谷)

7 ろんみようじだん(運明寺谷)

8 かみいなり(上稲荷)

9 うめきだん(梅木谷)

10 なかいなり(中稲荷)

11 しもいなり(下稲荷)

12 にしのたに(西の谷)

13 ぢぞうまえ(地蔵前)

14 おくしみだん(奥志美谷)

15 しみだん(志美谷)

16 はくさん(白山)

17 みやのした(宮の下)

18 がんざき(願崎)

19 つくだ(佃)

20 またん(間谷)

21 きつねくぼ(狐窪)

22 うえの(上野)

23 いなば(稲場)

24 だいみようじん(大明神)

25 じゅうだん(十谷)

36 なかめぐり(中巡)

27 おおいわ(大岩)

28 うえみや(上宮)

29 しものみや(下の宮)

30 じょうざん(城山)

31 うしがたん(牛ヶ谷)

32 かみうめきだん(上梅木谷)

33 おくんみようじだん(奥運明寺谷)

二、小字のはなし

1 奥十谷 二階堂地区では、一番大きく又長い谷で、一番奥にあるので付けられたのではないかといわれる。上、中、下、そして十谷前と、奥の方から五つの呼名で分けられている。昭和四十七年の耕地整理で、三米巾の農道が出来、自動車で中十谷まで行くことが出来、農作業が便利になった。昭和五十七年には林道がつけられ、山の麓まで自動車で行けるようになった。

6 林が谷 7運明寺谷 共に現在は森林になっている。

8 上稲荷 この小字より下の方に、昔、稲荷さんをお祀りしたお堂の跡が残っている。それより上の方にあるため、そうよばれたらしい。

9梅木谷 二階堂から若須へ通じる昔の山道があり、昔の人は荷物を背負って、二階堂を通って米ノ浦へ行ったという。現在も山道は残っている。若須にも同じ字名があるが、いわれは知られていない。

10 中稲荷 稲荷堂を中心に、そのあたりを付けられたと思われる。

11 下稲荷 稲荷堂から下の方を呼んだものと思われる。

12 西の谷 白山神社から西の方にあるためか、堀の南谷、中野の北谷と思いあわせるとうなづける。

13 地蔵前 大正の初期迄、お地蔵さんがお祀りしてあったため、そうよばれたらしい。現在は、白山神社の拝殿にお祀りしてある。七月二十四日、十月二十四日の年に二回各家々から、赤飯、おすし、おはぎ等を作りお供えする。又、妊娠している婦人の家では、赤白のお餅を作りお供えし、各家に分けられる。お詣りした人達にも配られ、残ったお供物は家族でいただき、皆で安産を祈願する。昔は男の人達もお詣りし、のぼりもたて、盛大だったようだが、現在は一家の主婦一人と、子供達だけで、店で買って来た菓子、くだものをお供えするようになり、昔のような手作りのお供えは少なくなった。

16 白山総社 白山神社伊佐那冊尊をお祀りしてある所である。白山大権現と称し、山千飯四十八ヶ村の総社で、神領七十五町歩を有し別当寺院もあった。養老元年(七一七)越の大徳、泰澄の開基と伝えられている。

17 宮の下 白山神社より下一辺を宮の下と呼んでいた。

18 願崎 白山神社の近くで、昔、神の遙拝所であった。

22 上野 白山神社より向側の、小高い丘に上野城跡があった場所といわれている。上野城とは美濃守土岐頼芸が一時居城したといわれている。

23 稲場 昔の人が稲を乾す場所として「はさ」をた稲を乾した所から稲場とよんだものと思われる。

27 大岩 谷の奥に大きな岩があり堀の大岩と地続きである。

三、いいつたえ

◇鍋が人をつかむはなし

二階堂の狐窪を通って中野の田楽坂へ出る道がある。昔この狐窪あたりに大きな柿の木があって枝が道の上にのびて薄気味が悪く、また、近くに二階堂の火葬場もあるため、夜ここを通ると、木の枝から鍋が下ってきて人をつかむといふ事から、今でもこの道を一人では通らなくなった。

「山干飯 小字のはなし」 04 上杉本(かみすぎもと)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

上杉本(かみすぎもと)

普通杉本と言っているが、立待村吉江にも杉本という村があるので、白山村の杉本は河上にあるので、上杉本というようになった。この集落は杉本谷の中程にあって、丸岡、沓掛、勝蓮花、小野方面からの通学路に沿った十一戸ほどの村であったが、近年になって、都辺や県道沿いに移転したので現在では元のところには一軒もなくなって、今では神社だけが残っている。

この杉本谷の道は、武生方面からは小野、勝蓮花、沓掛、丸岡をへて、都辺、黒川、中野、牧、若須方面へ通ずる唯一の道で重要な道路だった。杉本谷と丸岡とのさかいに、長さ六十米ぐらいの小さなトンネルがある。このトンネルを越して通学した。

今では菖蒲谷よりに道路ができたのでだんだんと人通りも少なくなり荒れ果ててきた。現在では農作業や、山仕事に行く人が通るぐらいである。

昔から都辺、杉本といわれてきたので、小字も持主によって、都辺地籍、杉本地籍になったようで、非常に入りくんでいて厳密に分けることはむずかしい。

一、小字名

1 かみのたん(上ノ谷)

2 なかのたん(中ノ谷)

3 おおひら(大平)

4 とりごし(鳥越)

5 まえ(前田)

6 みずかみ(水上)

7 むらなか(村中)

8 むらした(村下)

9 さいがんだ(西願田)

10 おかぐらでん(御神楽殿)

11 きたがたん(北ヶ谷)

12 こだんぐち(小谷口)

13 どうでん(堂田)

14こだん(小谷)

15 おしだ(押田)

16 ごおず(ゴオズ)

17 ぐみだん(茱谷)

18 たかだ(高田)

19 ほりだ(保利田)

20 むかいがわら(向川原)

21 だいみようじん(大明神)

22 なわて(縄手)

23 しもむらなか(下村中)

24 かみむらなか(上村中)

25 しょぶしょぶショブショブ)

26 なかやま(中山)

27 うしだん(牛谷)

28 しもかまいだん(下竈屋)

29 おにのつくり(鬼ノ作)

30 しもきたがたん(下北ヶ谷)

31 あまがたん(尼ヶ谷)

32 うまおとし(馬落し)

33 おくかまいだん(奥竈屋)

山林

34 おまつばた(御松畑)

35 ひがしがたん(東ヶ谷)

36 かみぐみだん(上茱谷)

37 ひがしうちだん(東丑谷)

38 むらのうえ(村の上)

39 おやまだん(御山谷)

40 みやがだん(宮屋谷)

二、小字について

1 上の谷 杉本谷の一番上の方にあるから上の谷という。杉本トンネルに近い。

2 中ノ谷 杉本谷の中間にあるから中ノ谷という。

3 大平 おおひらとよんでいるが、それ程広くはない。

5 前田 昔の神社の前にあたるところと思われる。

6 水上 清水の源だろう。

7 村中 村の中央に位置したところにある。

8 村下 集落の道の下にあるからそういったらしい。

9 西願田 集落の西の方向になるからと思われる。

10 御神楽殿 昔御神殿があったところからそのように言うらしい。

11 北ヶ谷 集落からみて北の方にあるからそういったのだろう。

13 堂田 昔尼寺があったので堂田という。

16 ゴオズ 現在の中学校のある場所。

20 向川原 集落の向いの川べりにある田であるからそういったらしい。

25 ショブショブ 菖蒲がたくさん生えていたらしい。

30 下北ヶ谷 北ヶ谷より下の方にある谷だからそうよんだらしい。

31 尼ヶ谷 竈谷の奥の方にある谷で大きなほら穴がある。

32 馬落道 巾が狭く、けわしい所で馬も落ちそうなところだったようだ。

33 御松畑 昔神社があり、松の神木があったらしい。

37 東丑谷 都辺の丑谷に続き現在の公民館及び白山出張所の敷地の一部に含まれている赤土の瘦山で雑木林であった。高くて大変見晴しのよい場所である。

「山干飯 小字のはなし」 03 都辺(とべ)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

都辺(とべ)

丹生山中を流れる天王川の流域にある。現在の都辺はそう古い集落ではない。天正十八年(一五九〇)の「大谷刊部知行」でも、また慶長の石高などの記録でも、「戸部杉本村」と合併されて記されている。

正保郷帳では杉本村と記され、元禄郷帳から、「山干飯杉本村」と「都部村」に分けて記されている。分村する時、地権者によって配分されたせいか、都辺と杉本の境界は非常にいりくんでいる。

村誌によると、古事記には、従者(しとべ)というのがある。そのころ織田、四ヶ浦、宮崎が伊部郷で、北に、平知郷(おち)があり、南に従者郷、東には三田郷、田中郷があるので、この山千飯郷は、従省郷(しとむ)と昔いっていたのであろう。

従者というのは、貴人に仕える執部であるといわれている。そう解釈すると、この都辺の地は貴人に仕える人の住んでいたところであろうということになる。すると、貴人というのは誰かということになるが、このことはまだ明らかでない。から来られた

また、一説では従省部と「とべ」ではなく、「粢餅(しとき)」の「トキ」が「トベ」になったのではないかという。粢餅というのは、神前にお供えする餅のことである。この意味だとすれば、二階堂白山神社にお供えする粢餅の米を作ったところということになる。おそらく白山神社の神領であったので、「シキトベ(部)の里」といったものが、「トベの里」となり、「トベ」と転じたのであろう。

この都辺は明治初期には、十七戸内外の小さな寂しい一寒村であったが、明治二十二年(一八八九)町村制になると白山村の中心地となって、役場が置かれ、ついで明治四十四年(一九一一)には小学校ができ、その後各種の組合、団体等も設けられて村の政治、教育、文化の中心地となった。

終戦後、中学校、診療所、幼稚園、武生市役所出張所、農業協同組合(現在は堀地籍に移転)、武生市農業倉庫、野菜集荷場、育苗センターなどが建設され、白山の繁華街となった。(診療所は廃止)

一、小字名

1 かみのたん(上ノ谷)

2 なかのたん(中の谷)

3 むらのした(村の下)

4 ぼうがだん(坊ヶ谷)

5 さいがんだ(西願田)

6 おかぐらでん(御神殿)

7 きたがたん(北ヶ谷)

8 かみきたがたん(上北ケ谷)

9 しもきたがたん(下北ヶ谷)

10 おにのつくり(鬼ノ作)

11 しもかまいだん(下竈谷)

12 なかやま(中山)

13 きたなかやま(北中山)

14 しょぶしょぶ(ショブショブ)

15 しもしょぶしょぶ(下ショブショブ)

16 むらのうえ(村上)

17 しもむらなか(下村中)

18 かみむらなか(上村中)

19 こだん(小谷)

20 どうでん(堂田)

21 おくどうでん(奥堂田)

22 おしだ(押田)

23 たかだ(高田)

24 ほりだ(保利田)

25 なわて(縄手)

26 むかいがわら(向川原)

27 でんがく(田楽)

28 うえの(上野)

29 ごおず(ゴオズ)

30 かみごおず(上ゴオズ)

31 ぐみだん(茱谷)

山林

32 むらのむかい(村ノ向)

33 みなみひがしだん(南東ヶ谷)

34 にしきたがたん(西北ヶ谷)

35 むらのうえ(村上)

36 みやのうえ(宮ノ上)

37 うしだん(丑谷)

38 かまいだん(竈谷)

二、小字のはなし

1 上谷 杉本谷の一番上の谷

2 中ノ谷 杉本谷の中程にある谷

3 村ノ下 集落の道の下にあるからそういったらし

4 坊ヶ谷 杉本谷の右手に入る小さな谷で半分は杉が植えてある。もとは田んぼだった。

6 御神殿 昔御神殿があったらしい。

7 北ヶ谷 杉本地籍で集落から見て北の方にあるから北ヶ谷といったらしい。

8 上北ヶ谷 北ヶ谷の上の方角にあるからこのようにいう。

9 下北ヶ谷 北ヶ谷の下の方にあるから。

12 中山 集落の中央ぐらいにあるからそういったのであろう。

13 北中山 中山の北の方角にあるからそうよんでいたのだろう。

14 ショブショブ 湿地帯で溜池があり、菖蒲がたくさん生えていたらしい。

15 下ショブショプ ショブショプの下の方にあり黒川に近い。

17 下村中 下村中に白山村役場があった。この役場の横から下黒川の由原へ通ずる巾二米位の山道があった。この道の中程をショブショブとよんでいた。下黒川、安養寺の学童達の通学路だったが、黒川より杉本まわりの大きな道もでき、現在は西瓜畑となっている。

19 小谷 小さい谷だからこのように言う。

20 堂田 昔尼寺があったらしい。

21 奥堂田 堂田の奥の方にあるから奥堂田という。

26 向川原 集落の向いの方に川がある。(天王川)その川ぞいにある田を言う。

29 ゴオズ 現在の第五中学校のあるところ。昭和十年頃は都辺の辻商店より、堀の木股氏宅までは家は一軒もなかった。上杉氏宅(神土から来られた)の家のところは小高い丘であった。道路は道下氏宅の横から南氏宅の家の後の山すそを通り、中学校の校庭をぬけて松月堂さんの裏を通り、あぶらやさんの前へ出た。あぶらやさんのところは竹やぶであった。中学校よりあぶらやさんにかけては、一番うす気味の悪いところであった。現在では戸数も十四軒にもなり繁華街となった。

30 上ゴオズ ゴオズの上の方にあるから。

31 茱谷 中学校の校庭より見える谷

山林

34 西北ヶ谷 北ヶ谷よりみて西の方にあるからそうよんだのであろう。

36 宮ノ上 都辺の春日神社の上の場所だからそういったのだろう。

三、いいつたえ

◇子育て地蔵

白山出張所の登り口に、二体の地蔵様が安置されている。この地蔵様は西野さんの地蔵様で子育て地蔵とか。元は杉本谷のトンネルの口の瓦ぶきのお堂の中に安置されていたが、この杉本谷の道も人通りが少なくなってきたため、昭和五十一年頃現在の場所へ移された。

◇避病院

都辺の春日神社の下、宮の上に平屋建の隔離病舎があった。昔の人は避病院とよんでいた。当時は赤痢が多く発生し、患者はこの病舎に隔離された。

長老の話では、この病舎には多い時で十数人もいたそうで、患者が苦しんでうめく声が、病舎から百五十米ほど離れた所まで聞えて、夜寝られなかったそうだ。

たいていの人はここで死んだらしく、目を落したら、家族の者は石灰酸という消毒液を身体にふきかけて会ったらしい。

死人の菌が外へ伝染しないように、風呂桶の中で蒸して棺桶に入れ、夜暗くなってから家族の者に背負われ、村の巡査立ち合いのもとに神社の上の山で火葬にされた。

風呂桶は避病院より離れたところに設置されていたそうだ。

死者の中には医者に内緒にして、家で治療して居た人もあったらしい。

病舎は大正五年頃子供の火遊びがもとで焼失したそうだが、その後も毎年赤痢患者が多く出たそうだ。当時の病舎の跡は現在畑となっている。

◇白山育苗センター 白山集出荷センター

白山育苗センターは、昭和五十二年に建てられた。白山野菜集出荷センターは二年後の五十四年に設立された。又、ガラス張りのスイカ育苗棟も二棟建てられた。

字名は北ヶ谷で、当時は赤土の瘦山の雑木林で、松林になっていた所も多くあった。

センターに引きつづき、十四、五ヘクタール余の西瓜畑が出来た。道路も舗装され、畑の一枚一枚に水の設備もされて現在は立派な畑に変貌した。

◇忠魂碑

白山小学校の正面の道路の上、通称稲場現在恒本慶一氏宅の倉の上に、第二次世界大戦前に忠魂碑が建てられていたが、終戦と共に取りのぞかれ、平和塔と碑文も改められ、小学校の敷地内に建て替えられた。

◇藺草(イぐさ)づくりと加工

終戦後二十五、六年頃までこの地でイ草が栽培されていた。刈取期にはちょうど学校の夏休みに入るため、校庭がイ草を干す格好の場所であった。その時期になると猫の手も借りたい忙しさで、小さい子供までが手伝い、一日に二回「干しかえし」の作業をさせられた。

一面に干された校庭はグリーン一色になり、のどかな風景がみられた。

秋の終りから冬にかけての農閑期には、イ草の加工作業が行なわれ、畳表、ござ、飯ござ、田ござ、ござ帽子等がつくられ、昔のことで少しでも高く売るために直売りをして生計をたてた人もあった。

◇白山出張所白山公民館

昭和五十一年三月「丑谷」に建てられた。赤土の痩山で雑木林であった。上杉本の東丑谷とつづく。

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