以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。
白山と山干飯
米ノ浦蓮光寺文書に「当所米ノ浦干飯崎(かれいざき)は敦賀よりの入海で、敦賀から十里離れた出張所で唐船はこの岬を泊所に定めていた。山干飯庄四十八か村総社、百済国(くだら)の比丘尼(びくに)の御船もここについて上らせられたということが古い社家縁起にでている。又、今は国司越前守殿より唐船目付の御番所並に烽火台が置かれている。唐船の売物は小舟で敦賀から運んだ。毎日朝食を敦賀で、昼食をこの岬と定めていたので、昔は敦賀を筒飯(つつい)の浦、この米ノ浦を干飯の浦と呼んだ。筒飯とは朝食のことであり、干飯とは昼食の和名である。」と記されている。
昔、敦賀から干飯崎に運ばれた荷物は、翌朝干飯崎や白山方面の人足達によって、山を越え、昼頃には二階堂の白山神社付近まで運ばれ、ここで昼食となったのかもしれない。それで白山山干飯となったのであろう。
白山神社の祭神は、百済の国の王女自在女が米ノ浦の干飯崎に漂着し、山を越え二階堂に永住し、自己の守神である三像の仏を祀って白山大権現と称したのが白山神社の創めとも言い伝えられている。
又、地区の昔からのいい伝えによると、百済の王女が国難をさけて、米ノ浦に漂着し、食糧の準備に米を炊き、干しあげたのでその地を干飯と名づけられている。それより、米ノ川を渡り六呂師を経て干合谷の峠から御山のあたりについた時、従者ののどの渇きをいやすため、王女が水を求めて杖で岩をついたところ、浄水がこんこんと湧きでた。この清水を解雷ヶ清水という。
王女は、この周辺を開発され海岸方面を海干飯、白山方面を山干飯とよぶようになったと伝えられている。
古くは山干飯郷四十八ヶ村の総社と言われていたが、四十八ヶ村をあげると、旧白山村全域と、宮崎村小曽原・古屋・熊谷・増谷・旧坂口村の勾当原・湯谷・中山・河野村の八田・甲楽城・糠・神土・杉山・越前町の牛房平・米ノ浦・六呂師・蓑浦・高佐・白浜・茂原・厨・道口・大樟・小樟が含まれている。
明治二十三年市町村制の実施にあたり、白山神社の名をとり白山村と名付けられた。山干飯郷のなくなった現在でも、近隣の人達は旧白山地区をさして山干飯とよび、また、地区内でも、周辺の小野・勝蓮花・安養寺・曽原方面の人は、現在の村の中心である菖蒲谷(白山神社近くの集落)へ行くことを、山干飯へ行くという。これは白山神社が山干飯郷の中心であったことが伺われる。