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「山干飯 小字のはなし」 03 都辺(とべ)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

都辺(とべ)

丹生山中を流れる天王川の流域にある。現在の都辺はそう古い集落ではない。天正十八年(一五九〇)の「大谷刊部知行」でも、また慶長の石高などの記録でも、「戸部杉本村」と合併されて記されている。

正保郷帳では杉本村と記され、元禄郷帳から、「山干飯杉本村」と「都部村」に分けて記されている。分村する時、地権者によって配分されたせいか、都辺と杉本の境界は非常にいりくんでいる。

村誌によると、古事記には、従者(しとべ)というのがある。そのころ織田、四ヶ浦、宮崎が伊部郷で、北に、平知郷(おち)があり、南に従者郷、東には三田郷、田中郷があるので、この山千飯郷は、従省郷(しとむ)と昔いっていたのであろう。

従者というのは、貴人に仕える執部であるといわれている。そう解釈すると、この都辺の地は貴人に仕える人の住んでいたところであろうということになる。すると、貴人というのは誰かということになるが、このことはまだ明らかでない。から来られた

また、一説では従省部と「とべ」ではなく、「粢餅(しとき)」の「トキ」が「トベ」になったのではないかという。粢餅というのは、神前にお供えする餅のことである。この意味だとすれば、二階堂白山神社にお供えする粢餅の米を作ったところということになる。おそらく白山神社の神領であったので、「シキトベ(部)の里」といったものが、「トベの里」となり、「トベ」と転じたのであろう。

この都辺は明治初期には、十七戸内外の小さな寂しい一寒村であったが、明治二十二年(一八八九)町村制になると白山村の中心地となって、役場が置かれ、ついで明治四十四年(一九一一)には小学校ができ、その後各種の組合、団体等も設けられて村の政治、教育、文化の中心地となった。

終戦後、中学校、診療所、幼稚園、武生市役所出張所、農業協同組合(現在は堀地籍に移転)、武生市農業倉庫、野菜集荷場、育苗センターなどが建設され、白山の繁華街となった。(診療所は廃止)

一、小字名

1 かみのたん(上ノ谷)

2 なかのたん(中の谷)

3 むらのした(村の下)

4 ぼうがだん(坊ヶ谷)

5 さいがんだ(西願田)

6 おかぐらでん(御神殿)

7 きたがたん(北ヶ谷)

8 かみきたがたん(上北ケ谷)

9 しもきたがたん(下北ヶ谷)

10 おにのつくり(鬼ノ作)

11 しもかまいだん(下竈谷)

12 なかやま(中山)

13 きたなかやま(北中山)

14 しょぶしょぶ(ショブショブ)

15 しもしょぶしょぶ(下ショブショブ)

16 むらのうえ(村上)

17 しもむらなか(下村中)

18 かみむらなか(上村中)

19 こだん(小谷)

20 どうでん(堂田)

21 おくどうでん(奥堂田)

22 おしだ(押田)

23 たかだ(高田)

24 ほりだ(保利田)

25 なわて(縄手)

26 むかいがわら(向川原)

27 でんがく(田楽)

28 うえの(上野)

29 ごおず(ゴオズ)

30 かみごおず(上ゴオズ)

31 ぐみだん(茱谷)

山林

32 むらのむかい(村ノ向)

33 みなみひがしだん(南東ヶ谷)

34 にしきたがたん(西北ヶ谷)

35 むらのうえ(村上)

36 みやのうえ(宮ノ上)

37 うしだん(丑谷)

38 かまいだん(竈谷)

二、小字のはなし

1 上谷 杉本谷の一番上の谷

2 中ノ谷 杉本谷の中程にある谷

3 村ノ下 集落の道の下にあるからそういったらし

4 坊ヶ谷 杉本谷の右手に入る小さな谷で半分は杉が植えてある。もとは田んぼだった。

6 御神殿 昔御神殿があったらしい。

7 北ヶ谷 杉本地籍で集落から見て北の方にあるから北ヶ谷といったらしい。

8 上北ヶ谷 北ヶ谷の上の方角にあるからこのようにいう。

9 下北ヶ谷 北ヶ谷の下の方にあるから。

12 中山 集落の中央ぐらいにあるからそういったのであろう。

13 北中山 中山の北の方角にあるからそうよんでいたのだろう。

14 ショブショブ 湿地帯で溜池があり、菖蒲がたくさん生えていたらしい。

15 下ショブショプ ショブショプの下の方にあり黒川に近い。

17 下村中 下村中に白山村役場があった。この役場の横から下黒川の由原へ通ずる巾二米位の山道があった。この道の中程をショブショブとよんでいた。下黒川、安養寺の学童達の通学路だったが、黒川より杉本まわりの大きな道もでき、現在は西瓜畑となっている。

19 小谷 小さい谷だからこのように言う。

20 堂田 昔尼寺があったらしい。

21 奥堂田 堂田の奥の方にあるから奥堂田という。

26 向川原 集落の向いの方に川がある。(天王川)その川ぞいにある田を言う。

29 ゴオズ 現在の第五中学校のあるところ。昭和十年頃は都辺の辻商店より、堀の木股氏宅までは家は一軒もなかった。上杉氏宅(神土から来られた)の家のところは小高い丘であった。道路は道下氏宅の横から南氏宅の家の後の山すそを通り、中学校の校庭をぬけて松月堂さんの裏を通り、あぶらやさんの前へ出た。あぶらやさんのところは竹やぶであった。中学校よりあぶらやさんにかけては、一番うす気味の悪いところであった。現在では戸数も十四軒にもなり繁華街となった。

30 上ゴオズ ゴオズの上の方にあるから。

31 茱谷 中学校の校庭より見える谷

山林

34 西北ヶ谷 北ヶ谷よりみて西の方にあるからそうよんだのであろう。

36 宮ノ上 都辺の春日神社の上の場所だからそういったのだろう。

三、いいつたえ

◇子育て地蔵

白山出張所の登り口に、二体の地蔵様が安置されている。この地蔵様は西野さんの地蔵様で子育て地蔵とか。元は杉本谷のトンネルの口の瓦ぶきのお堂の中に安置されていたが、この杉本谷の道も人通りが少なくなってきたため、昭和五十一年頃現在の場所へ移された。

◇避病院

都辺の春日神社の下、宮の上に平屋建の隔離病舎があった。昔の人は避病院とよんでいた。当時は赤痢が多く発生し、患者はこの病舎に隔離された。

長老の話では、この病舎には多い時で十数人もいたそうで、患者が苦しんでうめく声が、病舎から百五十米ほど離れた所まで聞えて、夜寝られなかったそうだ。

たいていの人はここで死んだらしく、目を落したら、家族の者は石灰酸という消毒液を身体にふきかけて会ったらしい。

死人の菌が外へ伝染しないように、風呂桶の中で蒸して棺桶に入れ、夜暗くなってから家族の者に背負われ、村の巡査立ち合いのもとに神社の上の山で火葬にされた。

風呂桶は避病院より離れたところに設置されていたそうだ。

死者の中には医者に内緒にして、家で治療して居た人もあったらしい。

病舎は大正五年頃子供の火遊びがもとで焼失したそうだが、その後も毎年赤痢患者が多く出たそうだ。当時の病舎の跡は現在畑となっている。

◇白山育苗センター 白山集出荷センター

白山育苗センターは、昭和五十二年に建てられた。白山野菜集出荷センターは二年後の五十四年に設立された。又、ガラス張りのスイカ育苗棟も二棟建てられた。

字名は北ヶ谷で、当時は赤土の瘦山の雑木林で、松林になっていた所も多くあった。

センターに引きつづき、十四、五ヘクタール余の西瓜畑が出来た。道路も舗装され、畑の一枚一枚に水の設備もされて現在は立派な畑に変貌した。

◇忠魂碑

白山小学校の正面の道路の上、通称稲場現在恒本慶一氏宅の倉の上に、第二次世界大戦前に忠魂碑が建てられていたが、終戦と共に取りのぞかれ、平和塔と碑文も改められ、小学校の敷地内に建て替えられた。

◇藺草(イぐさ)づくりと加工

終戦後二十五、六年頃までこの地でイ草が栽培されていた。刈取期にはちょうど学校の夏休みに入るため、校庭がイ草を干す格好の場所であった。その時期になると猫の手も借りたい忙しさで、小さい子供までが手伝い、一日に二回「干しかえし」の作業をさせられた。

一面に干された校庭はグリーン一色になり、のどかな風景がみられた。

秋の終りから冬にかけての農閑期には、イ草の加工作業が行なわれ、畳表、ござ、飯ござ、田ござ、ござ帽子等がつくられ、昔のことで少しでも高く売るために直売りをして生計をたてた人もあった。

◇白山出張所白山公民館

昭和五十一年三月「丑谷」に建てられた。赤土の痩山で雑木林であった。上杉本の東丑谷とつづく。

「山干飯 小字のはなし」 02 白山と山干飯

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

白山と山干飯

米ノ浦蓮光寺文書に「当所米ノ浦干飯崎(かれいざき)は敦賀よりの入海で、敦賀から十里離れた出張所で唐船はこの岬を泊所に定めていた。山干飯庄四十八か村総社、百済国(くだら)の比丘尼(びくに)の御船もここについて上らせられたということが古い社家縁起にでている。又、今は国司越前守殿より唐船目付の御番所並に烽火台が置かれている。唐船の売物は小舟で敦賀から運んだ。毎日朝食を敦賀で、昼食をこの岬と定めていたので、昔は敦賀を筒飯(つつい)の浦、この米ノ浦を干飯の浦と呼んだ。筒飯とは朝食のことであり、干飯とは昼食の和名である。」と記されている。

昔、敦賀から干飯崎に運ばれた荷物は、翌朝干飯崎や白山方面の人足達によって、山を越え、昼頃には二階堂の白山神社付近まで運ばれ、ここで昼食となったのかもしれない。それで白山山干飯となったのであろう。

白山神社の祭神は、百済の国の王女自在女が米ノ浦の干飯崎に漂着し、山を越え二階堂に永住し、自己の守神である三像の仏を祀って白山大権現と称したのが白山神社の創めとも言い伝えられている。

又、地区の昔からのいい伝えによると、百済の王女が国難をさけて、米ノ浦に漂着し、食糧の準備に米を炊き、干しあげたのでその地を干飯と名づけられている。それより、米ノ川を渡り六呂師を経て干合谷の峠から御山のあたりについた時、従者ののどの渇きをいやすため、王女が水を求めて杖で岩をついたところ、浄水がこんこんと湧きでた。この清水を解雷ヶ清水という。

王女は、この周辺を開発され海岸方面を海干飯、白山方面を山干飯とよぶようになったと伝えられている。

古くは山干飯郷四十八ヶ村の総社と言われていたが、四十八ヶ村をあげると、旧白山村全域と、宮崎村小曽原・古屋・熊谷・増谷・旧坂口村の勾当原・湯谷・中山・河野村の八田・甲楽城・糠・神土・杉山・越前町の牛房平・米ノ浦・六呂師・蓑浦・高佐・白浜・茂原・厨・道口・大樟・小樟が含まれている。

明治二十三年市町村制の実施にあたり、白山神社の名をとり白山村と名付けられた。山干飯郷のなくなった現在でも、近隣の人達は旧白山地区をさして山干飯とよび、また、地区内でも、周辺の小野・勝蓮花・安養寺・曽原方面の人は、現在の村の中心である菖蒲谷(白山神社近くの集落)へ行くことを、山干飯へ行くという。これは白山神社が山干飯郷の中心であったことが伺われる。

「山干飯 小字のはなし」 01 序

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

白山地区の地名(小字)を研究した読書グループの人たちの長年の労作がこの度刊行されることになりました。

地名の研究は戦前からもあり、戦後も地名に関する多くの出版もあります。谷川健一氏は地名研究所を個人でつくりました。この福井県版とも言うべきものは「うぶすな」という機関誌も刊行されています。今はなき柴田知明氏の『足羽という地名(明治書院昭和五八年)もあります。

武生市は既に武生市史資料編として「小字名一覧」(昭和五七年刊)を出版し、杉浦氏はこのことを地名学会で発表しました。武生市の小字の研究は全国的に知られています。ところで、この『小字名一覧」は武生市域の六千数百の小字を附図に記入されてあり所在場所も明らかとなるし、さくいんまであり、全小字名は、すぐどこにあるかさがし出せるという便利なものです。

しかし、この便利な「一覧』も単なる小字名が、地番順にならべられているにすぎなく、これを興味深く読ませる工夫はしてありません。今は亡き五十嵐與平氏が解題でその概要を説明してありますが、これのみで各地区の人たちは満足できないでしょう。そこで、これを、地区の人たちに親しみやすく読み物風に工夫して編集したものが、この本となったのです。このことは、まことに画期的なことであって、県内でも珍しい企画であって、読書グループのすばらしい成果でもあります。白山の地域に根ざした研究で、白山の地域で生活している者でなくてはできないものです。見て楽しい絵あり、伝説あり、一,二三八の小字名の由来あり、幼児から老人まで、誰でも理解できる親しみやすい構成となっています。きっと県内でもこれに刺されて、次々とこういう試みがなされることでしょう。先駆的な試みであります。

ここで若干、私の感想を加えるならば、地名(小字名)は、どうして誕生したのかとい素朴な疑問を誰しも持つでしょう。今日のように山野を歩くことが少くなってどこの山に、何が、いつ、いくとあるということは、だんだん知らなくなっている時代に地名が誕生したのではなく、初めは、地名も何もなく、唯毎日山野に動植物をさがし求めてくまなく歩いた時代、それは、縄文時代以前の石器時代、否旧石器時代にまでさかのぼるでしょう。山野から毎日の食糧を探し求めねばならない時代、それこそ、毎日その地域の変化がつかめ、地形や形状もよく把握されていたに違いない。あすこの谷には何があり、川の向うには木の実がある、川岸には、魚がいつ頃やってくるか、毎日、食糧をさがして生活していた時代、その地域の土地が手にとる様に知悉されていました。「地名の発生は必ずや人の生活における必要と便利に基づくものである上に、その地に生きる人びとの契約書なき合意と外からの快い承認と記憶によって保持されるもの」(『足羽という地名』二一頁)であるといわれています。その土地の地名が固定化し、何人もこの土地を知り、その地名に異をとなえず、必要さと、便利さとによって自然と地名が誕生していくものでありましょう。ナンビクァラ族は今猶アマゾン河の上流地域に二、三百キロの範囲をさまよいあるき、女は採集、男は狩猟の生活を続けていると人類学者川田氏は報告しています。こういう時代には文字はなく、唯地名は、どうしていたか単純な地名であり、自然の地形を重んじた名称が発生するでしょう。口から音として伝えられていき、どんな漢字もありません。発音が大切なのです。

武生市真柄の老人からシンゴという村の名を聞いたが、地図に地名はない、真柄のえだ村だという。漢字で今は、新宮となっています。武生市の『小字一覧』には新宮とかなづけていますが、(四八頁)私の聞いたのはシンゴでした。土地の古老が昔から呼んでいた言葉が一番正しい地名であると私は思っています。米ノ浦(越前町)もコメンダが昔からの呼び名であって、コメノウラといってはいないのです。『小字一覧」のさくいんには、平かなで統一してあって、たいへんよい。漢字が日本に輸入される迄は、日本人は、漢字をつかわず、発音だけで連綿として続いていたのでしょう。小字名はこのように、地域の人々の文化と歴史がこめられて受けつがれてきたものでしょう。

いま、われわれは、この小字名をたよりに、ありし日の人々の地域と文化、歴史をさぐろうと試みているわけです。

これがどこまで果せるか、永い努力が必要であって、この一端が白山地区の『小字」の研究にこめられていることをうれしく思うものです。

小字名はもともと、どこの土地でも太閤検地があって、この時にちゃんと、検地帳に記入されています。南越地方は慶長三年頃に行われています。わたしは、ある村の検地帳と明治の初めの土地台帳の小字を比較してみましたが殆ど同じでした。慶長時代の検地の折りに小字名ができたのではなく、もっと以前から小字名はあったのでしょう。ただ文字化されていなかっただけでした。民俗学者柳田さんも、その土地の名まえは、どう言っていたか、漢字でなく呼び方を聞けといっています。わたしの村の小字名に、

アミチ(雨落)
ジョガタン(城か谷)
キンナクボ(桐ヶ窪)

下の漢字はいつ誰がつけたのか、発音と漢字名はどうもしっくりしません。

アミチは網地とも網血ともかけるし亜道ともかける。ジョガタンは女が谷とか助が谷、条が谷、何んとでもかける。特に検地帳の頃の村役人が字が知らず、あて字でかいたりかなでかいたりしています。かなの方がよいが、下手な漢字を使っていては、先祖のつけた小字名がおかしくなってしまいます。

だから、小字名は漢字でなく、平かなが一番よいと思います。日頃考えていたことの一端をのべて序文といたします。

福井県史編さん委員(民俗部会副部会長)
鯖江市史編さん嘱託
刀祢 勇太郎

発刊にあたって

美しい自然と恵まれた環境に囲まれた白山地区、私たちが日常生活を送る中で、行政区画は切っても切れないものであります。

行政区画の単位名(都辺村、堀村、安養寺村等)の字名は、いくつかの小字が集合して、大字を形成しているものであり、土地改良、基盤整備により土地形態は変っても、小字名は後世に永く続くものであります。

白山読書会の皆さんが、昭和五十八年以来四ヶ年に亘り、こうした小字についての調査研究を続け、小字についての由来、小字にまつわる伝説などを編集し、発刊の運びとなりましたことは、ご同慶に甚えないところであります。

グループの方々の並々ならぬご労苦に対し、深く敬意を表したいと思います。

本書が多くの方々に愛読され、今後の地域発展の糧となれば幸と存じます。

昭和六十一年十二月
白山公民館長
清水 宇右衛門

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