以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。
粟野(あわの)
慶長三年の記録では、粟生野となっている。そのせいか”あおの”とよぶ人もいる。天王川の左岸、曽原の南にある。
明治四十四年、白山冬期分校が、曽原、粟野、小杉の三年生迄の学童を対象に設けられた。初めは民家を借り、昭和十一年には独立校舎が建てられたが、昭和四十五年廃校となり、県道ぞいに現存する建物は集落センターに改装された。
水利の便が悪く、向平地籍に溜池を作ったり、遠く黒川地籍の喉窪で黒川川に砂俵をつみ柴を並べ、古むしろを貼り赤土ですき間をうめるといったいわゆる”柴止めのユ”を作り取水していたが、大雨が降ると流され、距離が長い為漏水する等の苦労があり、用水路のしもの方は水不足で畑にせねばならなかった。
耕地整理と共に溜池や取水口も改修され、田ばかりでなく、山の上の鴉ヶ平やそれに続く台地の向平や、山の奥も畑になったがそこへも給水されるようになった。集落へむけて大きな道路もでき、出荷時期には西瓜やレタスを満載した車が行き交う。集落も近年戸数が激減し淋しい思いをしたが、焼物をされる人がふえ、にぎやかになった。
1 きどのわき(木堂の脇)
2 しものはし(下橋)
3 ぼうのうえ=ぶいのげ(棒之上)
4 まえだ(前田)
5 さくらまち(桜町)
6 かみむかい(上向)
7 おやま(小山)
8 むらのうち(村之内)
9 むらのおく(村之奥)
10 きたがたん(北ヶ谷)
11 すげんたん(菅谷)
12 みなみたん(南谷)
13 おやまだん(小山谷)
14 おおばた(小山畑)
15 さくらぢ(桜地)
16 はんだ(半田)
17まわりぶち(回渕)
18 おわき(大脇)
19 いちみち(壱道)
20 むかいだ(向田)
21 むかいだいら=だい(向平)
22 きたばた(北畑)
23 やまのおく=やまのあっち(山奥)
山林
24 どうだん(堂谷)
25 にしきたがたん(西北ヶ谷)
26 むかい(向い)
二、小字のはなし
1 木堂の脇 曽原との境で、東西から山が迫ってきて、その狭い間を流れる天王川に沿って山干飯道があった。木堂とは木戸の事ではなかろうか。昔、各通路の要所に設け、通行人を調べた関所の小さいもので、地形からみて山千飯道の要所としてこのあたりに木戸が設けられていたのではなかろうかという。
2 下橋 木堂の脇をすぎると天王川を渡り集落へむかう。昔からこのあたりに橋があり(現在も木橋がかかっている。)集落の川下であり下橋とよんだのだろう。
3 棒之上 下橋を渡った処の山裾の平地になった所。曽原がこの下の川に用水の取水口を設けており、(現在はそれより上流に移ったが)棒杭を組んでいたのでこの呼び名が出来たのではなかろうか。昔はここに集落があり、現在も井戸の跡が残っている。殿様の年貢のとりたてがきつかったので谷の奥の現在の集落の方へ移動して行ったという。曽原へ移住していった家も何戸かあった。
4 前田 棒之上の前の田
6 上向 集落前の天王川に沿って上流の方。
7 小山 集落の東北方の文字通り小さい山。良質の瓦土がでたので明治のはじめここに瓦屋をはじめた人があった。
8 村の内 9 村の奥 現在の集落のある所。
11 菅谷 山あいの田で菅が自生している。
ここにホヤマツといわれる木があった。マツと言っても松ではなく、こんもりとした杉ノ木で、天狗さんが住んでいると言われていた。
「天狗さんの巣というのは丁度茶釜位の大きさで、上下共に丸く卵みたいな格好だった。杉葉で作ってあって、天狗さんがいなはると杉葉は青いし、いなはらんと赤う枯れてる。そんないかさで人間が入れるかって?、ホラ、人間は入れんけど天狗さんは人間でないで入れるんやろ。あそこで炭焼きしてたおんさんが居小屋でねてたら、屋根の上で笛吹いたり、ワッハッハと笑ったり、屋根の葺きくさをまくろうとしなはるんで、外へでてほおられても悪いし、中でちぢんでいたんにゃと言いなはったわの」ここに生れ育った老婆の話である。
17 回渕 天王川がここで急カーブでまわり渕をなしていた。河川改修と道路の改修で、現在の県道の小杉と粟野の境はこの上を歩いているようなものである。
18 大脇 壱道の道と天王川の間で道にそい比較的長くのびた場所で、道の脇だったからかもしれない。
川ぞいにマイブツとよばれている所があった。黒川と天王川が合流し、迂回していた所で、土砂が推積してできた田だったのだろう。耕土は浅く、砂地だった。
19 壱道 安養寺より小杉の取越をへて粟野へ行くと、一番先に踏む粟野の土地で集落へむかう道があった。
20 向田 21 向平 22 北畑 集落の前方に川を渡って鴉ヶ平へ行く道があり、道を境に北側を北畑、南側上の方を向平、その下の田を向田といった。向平には昔粟野区の火葬場があり、耕地整理をしたところ、五輪塔が発掘されたが由緒はわからない。総墓ではなかろうかという。
23 山奥 集落からみて川向うの山(向い)をこして奥の谷間に田があった。両側の山肌をけずりうめたて畑となり、今はもうその面影はない。
24 堂谷 棒之上の後から集落の方へひろがる山で、集落よりのお堂には観音様が祀ってあり、曽原境の方は下堂とよぶがこにもお堂があり、金色の神様が祀ってあった。或夏の事、某家の人があまり暑いので、水浴し神様もさぞ暑かろうと水を浴びせ橋の上へ乾しておいた。丁度そこを通りかかった血ヶ平の人が、”助けてくれ”という神様の声を聞いて拾っていってしまった。それから神様のおられなくなった栗野はさびれたが、血ヶ平は栄えたという。それで血ヶ平の人は粟野の人がとり返しに来るのを恐れ、お堂の前に金網をはって保護していたという。その神様は、いくら正面むけても粟野の方をむいてしまわれるという事だ。女神さんだったので粟野におられる間は嫉妬されたのか粟野には美女が育たなかったと。
血ヶ平へ拾われていったあと、今一つのお堂の観音様と北ヶ谷の八幡様をあわせ、堂谷の中程の現在地に明治七年、お宮様をたてお祀りした。お堂のある谷の意だろう。
25 北ヶ谷 尾根が集落内へ突出しているせいか、中ケ谷(なかたん)ともいう。集落の北に位置する山である。この上に古く八幡さまを祀ったお堂があった。
26 向い 集落の川向いの山を向いとよび、その形か長山ともいう。ここにもお堂があり、夜相撲をとったという平地も残されている。この山の下に5桜町という小字があり、桜の木でも植えてあったのか、お堂がにぎやかだった頃をしのばせる。