以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。
小杉(こすぎ)
天王川の左岸、粟野の南にある。山千飯道(西田中と二階堂を結び、丹生郡に属していた当地にとって郡役所につながる重要な道路だった)ぞいに集落があったせいか、駐在所(明治二十四年大正十五年)がおかれ、店もあり、昭和七年には、木炭倉庫が設置された。この倉庫は戦争で木炭の生産量がへると共に政府米の集荷、保管場所となり、農協の倉庫ができるまで利用された。集落は以前は現在の中心地より南西の方向に集中していた。
昔はのかじが村のあちこちにあったようだが、当地にもかんじやの家号をもつ家がある。現在の夏梅五郎兵衛家の前の南側の畑にかんじや場があり、明治の初期当区の人でかんじゃ集めに歩いたという人がある。戦争中金属回収に地がねの余っていたのを供出、かなてこ、ふいご、鉄をふかしたかす等、かいねに放置されていたのを記憶している人もいる。明治の中頃現在の前氏の小屋の所にかんじや場を作っていた人があった。後、安養寺武生と居を移された。現在は開拓パイロット事業により、黒川、安養寺、曽原境の山は切り開かれ、西瓜、大根などが栽培され、見通しがよくなった。戦後夏梅瓦所ができ、そのせいか屋根ふき職人が非常に多い。
一、小字名
1 こすぎだん(小杉谷)
2 どうのおく(堂之奥)
3 もちがたん(餅ヶ谷)
4 きたがたん(北ヶ谷)
5 どうのうしろ(堂ノ後)
7 おやまんたん(小山ヶ谷)
8 おくめん(奥面)
9 しりえ(尻江)
10 あわのぐち(粟野口)
11 おおだ(大田)
12 しもがわら(下河原)
13 あんようじぐち(安養寺口)
14 とりごえ(取越)
15 じんでん(甚田)
16 のどくぼ(喉久保)
17 ながを(長尾)
18 かみがはら(上河原)
19 むかいとげだん(向峠谷)
20 ひがしうえの(東上野)
21 しうえの(西上野)
22 こだん(小谷)
23 なかとげだん(中峠谷)
24 おくとげだん(奥峠谷)
山林
25 きたいなば(北稲葉)
26 ななぎだん(七々キ谷)
27 うばがたん(乳ヶ谷)
28 むらのうえ(村の上)
29 むかいの(向野)
30 おおばた(大畑)
31 にしだん(西谷)
二、小字のはなし
2 堂ノ奥 5 堂ノ後 6 堂ノロは八幡神社を中心とした地名のようである。
7 小山谷 粟野地籍の小山谷のつづき。
8 奥面 集落の奥、北稲葉の山裾に面した所。
9 尻江 集落に接した一番大きな谷(堂ノ奥)から出てきたえすじ(用水路)のしもにあるところの意か。古くは集落の殆んどがこの地に集っていた。
10 粟野口 昔の街道は粟野地籍の小山、桜地を経て川原へおり、川ぶちを歩いて小杉地籍へとあがって行ったが、小杉からみれば粟野の入口に位置した所で、川原の方をカマグチ、あがった所をブタイとよんでいた。
11 大田 12 下河原 この二つを総して地元ではシモノコロとよんでいる。小杉の沖田の真中に道路がありその川下の方である。その田が野道によって天王川ぞいと集落よりにわけられ、川ぞいの方を下河原・集落よりの方を大田と名付けられていた。大田をだいだと呼ぶ人もあり比較的大きい田が多かった。
13 安養寺口 14 取越を経て安養寺地籍に続く。取越は両側が山の切り割りでちよっとした峠であった。
15 甚田 向野の山と黒川川にはさまれた細長い地域だったが、耕地整理で川になってしまった。
16 喉久保 山と川にはさまれた細長い窪地であり、黒川地籍の喉窪に続く。黒川にあった小学校への通学路でもあった。黒川の城ヶ谷地籍にあったお城の堀だったという話もある。ここに長四郎田といわれる田があり、昔長四郎という者がここに金の壺を埋めたという伝説がある。また、この田の山あいの土手に良質の湧水があり、集落の人はよく汲みに行ったものである。
17 長尾 大畑の山と尾境で天王川へむけ細長い土地で、大畑と境の山の中に小杉区の火葬場があった。
18 上河原 シモノコロと道をはさんで相対し、通称カミノコロ。天王川ぞいの田である。小杉の用水は牧と地境の所で取水し、尻江のがけっぷちを通り上河原へ入った。これが小杉の”オオユ〟とよばれ、この水を利用し上河原の入口に水車が作られていた。がけの所を通って来た水だからか、”がけの水車”とよばれていた。
19 向峠谷 中峠谷 奥峠谷 集落よりみて川のむかいに、萩原地籍へ山越えして行く道が谷に沿ってあった。
20 東上野 21 西上野 小杉の一番上畑のあった処で、真中を山千飯道が通っており、その道を境に東と西に名付けられたようだ。
西上野に現在夏梅製瓦所がある。高台で登り口(通称坂尻‐さかんじり)に水呑場があった。
25 北稲葉 小杉の北の小高い所で平地の所は近年まで畑で稲架場があった。
26 七々木谷 小さな谷がいくつかあり、七つあるという人もあれば、まだあるという人もある。村の上集落の真上の山で、明治十七年に建てられた八幡神社がある。祭神は応神天皇だが集落の人はお産の神様だと言い、安産を祈願すると神様がたすきがけでお手伝いに来てくださると信じている。
以前は現在地より南東よりの下野実氏宅上の通称大稲葉とよばれる所にあった。その近くにある縄手家の後の竹藪をゴクラ屋敷(御蔵の意か?)とよんでいるが、大稲葉で干した上納米を入れる倉がこのあたりにあったのかもしれない。上納米を昔は御蔵米といった。堂ノ奥に八幡神社の神田があった。
29 向野 集落のむかいにあたり、小字の中でヒライバシと呼ばれる所は畑で、カクレバタと呼ばれる所は田だった。橋のたもとに竹藪があり、その中にお墓、上には長尾の火葬場があり、安養寺と黒川からの道の合流地だったが気味が悪かった。
30 大畑 黒川地籍の城があったと伝えられる城ヶ谷の裏側にあたる。城ヶ谷が落城した時、落人が大判千枚、小判千枚、うるし千杯、朱千杯という宝物を埋め、目じるしにヤドメの木を植えておいた。そのため、埋めた人が生まれ変わると白いヤドメの葉ができ、見つける事ができるという語り伝えがあり、明治の頃、大畑の所有者だった人が白いヤドを求め山中を探し歩いたがみつからなかったと言う。
また、この山の中腹に金壺を埋んだ人があり、物かげでそれを見ていた人が、そっと掘り出してギャル(蛙)を代りに埋んでおいた。それとは知らず金壺を埋んだ人が掘りに行ったところ、ギャルが飛び出しびっくり仰天、こりや何時の間にお金がギャルに化けたのかと、”善どん、善どん、わしじゃわしじゃ”とギャルをつかまえようとしたが、ギャルはピョンピョン飛んでいってしまった。
こんな話もある、さきの喉久保と地続きのところでもあり、当地区ではこのあたりにのみ宝探しの話が残っている。
昔、山林を開田しようとしたが、水がなく失敗し、やむなく畑にしたという話もあり、段になって平地になったところがあった。それで大畑の名ができたのかもしれないが、この地も、向野、取越と同じく今度のパイロット事業で畑になってしまった。
31 西谷 峠谷の西側の山。
22 小谷 上野を出た街道はこの地の山をきり割り牧へ通じていた。山あいの小さな谷で田もあった。
通称峠ともよばれ、牧への下りは急坂で木が茂り、若須岳の吹きおろしで冬は吹雪だまりとなり、大正十三年に現在の川ぞいに道がつくまでは難所だったようで、天狗の巣だ、狐が出る、狼が出ると恐れられていた。
牧からの登り口(牧の人はこのあたりを小坂とよぶ)に水呑場があり、一服できるようになっていて、ここにお地蔵様が祀られていた。牧の上野源十郎家の貞松さん(百年位前の人)という人が、平等から持ってきてここに安置したという事だ。大人でも気味悪い所だったらしく、牧の某家の婆様が毎日小杉の旦邦に雇われていく嫁の為に、嫁が毎日小杉通いを致します。どうかお頼み申します”と願かけをしたという話もある。
また、”ある時どこやらのおんさんが馬をひいて通りかかったんにゃと、するとここまで来たら馬がいかんようになってしもて、何やら変やと思うたら、足もとでホウホウとオオカ(狼)がな
きだしてきたんにや、それでおんさんは手さぐりですんば(杉葉)をかき集め、腰にさげていたチカッポ(火打石とかね・煙草をのむ為どうらんといっしよに腰にさげていた)でカチカチと火をつけ、笹を刈ってセンパ(十能)を形作り、その上にのせてオオカの方へ持って行ったら逃げて行ってしもたんにやと
“天狗さんにはよう会うた。夜あがりする時にセイタに宵荷を一杯につけて、両方の手に杖ついて峠のてっぺんにつっ立ってるんと会うたんにや、腰ぬける程びっくりしてやっと逃げて帰った。山で仕事をしているとよく音が聞えたものだ。前びきで木を切る音がガイガイとして、次はカンカンとよきを使う音、ドサーと木の倒れる音、天狗さんは人間より仕事が早いので音の間も早くすぐわかる。ある時、木を切って一服していたら、ガラガラところがってくる音がしてびっくりした事がある。実際には木は切られていないし、ころがってもいないのだ。これが天狗さんの仕事だ”
村の古老達は峠の昔話をこんなふうに話してくれた。