「山干飯 小字のはなし」 20 曽原(そはら)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

曽原(そはら)

丹生山地を流れる天王川左岸にあり、安養寺の西に位置する。 

鎌倉時代初期(一二〇〇年頃)には、須恵器がこの土地(窯の口)から陶片として出てきたことから甑原と言ったらしい。甑とは穀物を煮る焼物の器物のことで、当地区は日本六古窯の一つであるかま跡が発見された小曽原と隣接し、古くからヤキモノが焼かれていたのでこの名がつけられたのではなかろうか。

また、曽原とはススキが重なるように多く生えているところということで、この地には住居に必要なススキが一面に生えていたことから、ススキが原とも言われているようだ。 

このほか、アイヌ民族、大和民族とともにこの地に住みついた朝鮮人の名前がソということ、そしてその人たちが文化を教えていたがため、ソという小字にハラを合わせてソハラとなったのではないかとも言われている。 

 昔はお宮様を中心に五、六軒の家が点在し、村内に集落をなしていたが、次第に家が増加するにつれ、中井積善氏宅以北の野の小字に広がってゆき、現在では小曽原地区の境地にまで広がっている。明治二十二年~二十五年まで、黒川にあった■思小学校の分校が中井積善氏の家で開設された。 

集落は高い所にあって、田は低く稲をかついで坂を登った。稲刈りの女衆、稲を天びん棒で荷う男衆の姿は風物詩でもあった。昭和四十年(一九六五年)に耕地整理がなされ、道も八米巾のものがつき、安養寺の方から見ると高台に見え、その背後に厨城山が眺められる。 

集落センターは昭和四十四年に勝蓮花にあった第二分校をここに移転して建てたものである。 

一、小字名 

1 の(野)

2 ひがしいなば(東稲場)

3 しようずのしり(清水尻)

4 とうべた(藤平田)

5 しもふかだ(下深田)

6 かみふかだ(上深田)

7 やなぎまち(柳町)

8 はやがれ(旱上)

9 しんかいだ(新開田)

10 むかいだ(向田)

11 むかいの(向野)

12 あさばたけ(麻畠)

13 にたんだ (二反田)

14 むらのした(村之下)

15 むらのなか(村之中)

16 たかいなば(高稲場)

17 にしのたに(西之谷)

18 さかじり(坂尻)

19 かみがはら(上川原)

20 こしまづけ(腰間漬)

21 おくやま(奥山)

22 ゆきどおり(行通)

23 ふりや(古屋)

24 あまがたん(尼ヶ谷) 

山林 

25 ふくろうだん(梟谷) 

26 おくあまがだん(奥尼ヶ谷)

27 からすがだいら(鴉ヶ平) 

28 むかいからすがだいら(向鴉ヶ平)

29 こがたん(小ヶ谷)

二、小字のはなし 

1 野 耕地整理にて水田。 

2 東稲場 高台にあり、ハサ場を作った。その下に通称狭間というせまい谷間があった。 

3 清水尻 清水が沸き出る。 

4 藤平田 藤がたくさん生えていたらしい。 

5 下深田 6上深田 深田である。 

7 柳町 天王川のそばにあって、毎年毎年水がついたので柳を植えたらしい。 

8 旱上 安養寺の地境のところにあって、夏期には水不足で旱ばつにあうので、その名がついた。今はライスセンターが建っている。

9 新開田 新堀田とも言う。沼地だったのを小杉の夏梅与三右門氏が開田したが、深田だったので難儀したとのこと。今は鴉ヶ平の真中にあるが、ここも、もとは山の中で薄気味の悪いところであったらしい。 

12 麻畠 曽原で一番いい畠で床が栽培されていた。

17 西之谷 西の方に位置し、通称「釜のロ」といい「隠居屋敷」がある。 

釜の口:村城の南端、カマノクチの段上から昭和二十四年(一九四九年)頃、焼灰とともに、鎌倉時代初期のものと思われる陶片数個が発見され窯跡と確認されたが、現在はこわされ田圃となってしまった。 

隠居屋敷:浅右ェ門の家があったらしい。

浅右ェ門の話 

・浅右ェ門の家は現在の加藤氏宅の前にあったと言われており、百石の旦那様であったらしく、下男が六~七人、下女が五~六人いたらしい。 

・近所に住む忠右ェ門家に経善という役僧がいて、浅右ェ門と仲が良く、話し相手のライバルでもあった。経善はなかなかの口達者で、浅右ェ門はいつも負けていたとのこと。それで浅右ェ門は自分の墓は忠右ェ門の家の方を向けて建てるようにと言い残して死んだそうで、今もそのように建っている。また、埋葬の時は朱漬けにしたそうだ。 

・家の前に大きな門があり、そこに狼を飼っていた。そのため奥さんが実家からおみやげにぼた餅を持ち帰った時、みな取られたそうで、それからは裏道を作り家に入ったので難をのがれたとのこと。今でもところどころに道がある。 

・彼は、あばけなし(後先を考えぬ)のところがあって、ある風の強い日、下男に灰をまけと言いつけた。下男は”こんな日に灰をまくとみな吹き飛んでしまうから”と言うと”まわりの田んぼ、畑はみな自分の地所だからかまわん”と言ってまかしたという。 

当時、灰は貴重な肥料であった。 

・なかなかの頑固者で、”お金は払うから二人分働け”という主義で、ある日大根播きをする時、”今日は肥(人糞)持ちだ。肥持ちは半分遊びやぞ”と言われた男は、田桶を前後二つずつ四つを天びん棒で荷って持ってゆき、帰りは何も持たず何回かするうち田桶がなくなってしまった。男は”旦那様田桶がなくなってしまいました。どこにあるのですか”と尋ねると、”帰りになぜ持って帰らぬ”と、”でも旦那様は半分遊びやと言われたので…”と言うと、旦那様は悪かったとあやまったそうな。 

・ある時、浅右ェ門が正月の年頭に福井の役所(郡の奉行所)に出頭するので籠をかついで行けと命じた。男は、”相手はだれですかと尋ねると、お前には二人分払っているのだから一人で行け〟との事、男はしかたなく片方に旦那様、片方に大きな石をつけて天びん棒をかついで歩き出した。福井の大橋九十九に着くと荷い棒を欄干にのせ、旦那様を川の方へ出し”これから無理を言うか言わないか、言うのなら川へ落してしまう”と言った。旦那様はあやまり、それからは無理を言わなくなったそうな。 

19 上川原 上川原の少し下流に、通称鞍が渕というところがあり、その少し上の方には矢倉山(尼ヶ谷地籍)がある。矢倉山の高い所には平らな場所があって矢倉が建っていたらしい。その大きさは三間四方のもので、現在の蔵の大きさのものである。矢倉山の下の方に天王川が流れていて鞍が渕があり、対岸には木堂の脇がある。地形からみてこれは粟野地籍で、木戸の意味でなかろうかという。 

・鞍が渕 平家の武士達おおぜいが府中街道!山干飯街道城山へと攻めに行こうと思い、木堂の脇の所へ来たが道のりがわからず、そこにいた老夫に尋ねると、老夫は千合の谷(千合谷)を越え、万の谷(増谷)を越え、熊が出る谷(熊谷)を越えねばならないと答えると、武士達はずいぶん遠い所から来たらしく、まだそんなに遠いのかそれでは間にあわぬと思い、大将は切腹し馬もろとも川に身を投げた。そして、おおぜいの武士、野武士達は散りぢりに帰ったそうである。川には馬の鞍が浮いていた。それで鞍の渕といった。 

22 行通り 谷奥の田だが山越して増谷へ行く道があった。 

23 古屋 落武者がいたそうな。今でも大きな穴がある。

24 尼ヶ谷 尼さんがいたらしい。 

27 鴉ヶ平 28向鴉ヶ平 戦後開拓したところで、鴉がたくさんいる。 

29 梟谷 かくし田(官吏の目の届かぬところに作った田で、尼ヶ谷、古屋谷、堂谷もそうであったらしい)があり、ふくろうがいたそうな。 

三、いいつたえ 

◇五輪の塔 

加藤氏の墓の横に今も残っており、豪族、又は公郷、殿様、武士の墓であろうか?。梵字は千年程昔の字であるらしい。

◇よろいびつ 

武士が戦に出る時、自分の墓を鎧櫃の中に入れて出陣したものである。これは討死した時、他人の手によってこの櫃の中の墓をその場にたてるのが武士の情であった。現存している。 

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