「山干飯 小字のはなし」 23 牧(まき)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

牧(まき)

慶長三年(一五九八)の記録には真木村、文録三年(一五九四)には槇村、正保郷帳(一六四四)には牧村となっている。天王川の左岸、小杉の南にある。若須村が洪水で流され、高台の通称茶ノ木谷(現在の後家の裏の山べた)に流れついた人々によって集落がはじまったという伝えがある。また、一説には、昔、丹の治郎兵衛長者といわれた豪族が、奥の谷口に居を構え、牧を支配し、駒牧を作り馬匹の生産をしていたため、牧場、または牧野を簡略して牧の集落名称となったという説もある。吉ヶ谷家が丹の長者の別家の流れをくむとも言われている。明治十年十六戸あった集落のうち、谷奥にあった谷口家、吉ヶ谷家、橋本弥太夫家の三軒を残し焼き つくした大火は村人にとって忘れられない。その折、隣村の小杉では、夏梅五郎兵衛家は各戸に米半俵を贈り、村人達は総出で連日後片付けに力ぞえした。牧の人達はその恩が忘れられず、小杉のどんな小さな普請にも、壁つけ、建前の手伝いに今も行っている。 

また、当区では、道場源右ヱ門家が古くから道場仏をお守りしてきた。家はもと上野家と後家の間にあった。正月になると村中が朝五時になると道場家へ御膳米五合をもって集まり、お経様をあげてお参りし、その後お宮参りをした。道場家の人は正月がすむと鏡餅をさげ、集落一軒一軒にわけて歩き、家々の仏様にお経をあげた。当家の人は毎日いりあい(午後五時)にお太鼓をならし村人に刻をしらせた。(太鼓がいたんでからは半鐘にかわった。) 

毎月行なうお講さまには、交代で宿をしたが、当日宿の当主が御膳米を持って道場仏に参り、お経をあげてからお太鼓をならす。それを合図に皆が宿へ参詣した。 

集落内は円宮寺(東)陽願寺(西)敬覚寺と、属するお寺も宗派も異っていたが、道場家は集落全体のお寺としての存在だった。昔は各家が味噌、しょうゆをたてても道場家へもって行った。 

牧の大火の際道場家も焼けたが、仏様は上野家の背戸の棒の木の上に安座しておられ無事だったので上野家へお祀りしておかれた。ところが、道場家へ帰りたい”という夢のお告げがあったと言う事で、また道場家へもどされたという。 

今では道場家は絶え、道場仏は黒川の敬覚寺へお預けした。道場家の最後の住いとなった家には、現在焼物をされる近代的な”べろ亭さんが入居されている。 

当区の誇りとするところは、集落内で姻戚関係の多い事もあってか、報恩講さま、祝儀、葬式等ことがあると村中が子供に至るまで集まる。この助け合いと和合の精神の村のよさは今も伝えられている。 

一、小字名 

1もちがたん(餅ヶ谷)

2はたけだ(畑田)

3きたがたん(北ヶ谷)

4きたがたんぐち(北ヶ谷口) 

5やなぎくば(柳窪)

6かわむかい(川向い)

7うえの(上野) 

8ふけだ(不毛田) 

9にしだ(西田)

10まつばだん(松葉谷)

11きたまだん(北間谷)

12しようじゃくぼ(生者窪)

13おくんたん(奥之谷)

14えのした(江ノ下)

15きちがたん(吉ヶ谷) 

16かみいなば(上稲葉)

17おいなば(大稲葉)

18わき(脇)

19やがき(家垣) 

20たんのまえ(谷ノ前)

21とのがたん(殿ヶ谷)

22はたがたん(畑ヶ谷)

23わがすぐち(若須口)

24おかのした(岡ノ下)

25むかい(向)

26まるやまのした(丸山下)

27ながれだ(流田) 

28まるやま(丸山)

29にかぐら(糠蔵) 

30ゆきどおり(行通)  

山林 

31すんがたん(杉ヶ谷) 

32おくきたまがたん(奥北間ヶ谷) 

33うしろてがたん(後藤屋ヶ谷) 

34しようじゃがたん(生者ヶ谷)

35かみはたがたん(上畑ヶ谷)

36まえてがたん(前藤屋ヶ谷) 

37おちや(落屋)

二、小字のはなし 

1餅ヶ谷 小杉の餅ヶ谷の続きで戦後山林になった。 

2北ヶ谷 4北ヶ谷口 集落の北方にあり、一番奥は小杉地籍の北ヶ谷でほとんど山林になった。柳窪小杉と地境になる。小杉ではこの境の川の中に”ウナゼメのユ”とよばれる井堰を作っていた。ウナゼメとは、長く大きな丸太(ウナとよぶ)を川に並べ、杭でとめ、流されぬよう下の方に大きな石を並べ、上の方へは更にウナを縦横四、五段杭を打ってとめ、水をせきとめたものである。堤防が今程しっかりしていなかったせいもあって、堰のかみにあたるこの地の川原ぞいの窪地はよく水がついた。堤防の補強に、川原ぞいには柳がよくはえており、猫柳の芽ぶきに春の訪れを感じたものである。境の小杉地籍の方は尻江の崖ととなっており、そちらの方の田をガケの下とよんでいた。 

6川向い 天王川の右岸で柳窪と相対する位置にある。川原ぞいの宿命でよく水がつき、大雨で牧の橋がこの田の真中迄流れて来た事がある。小杉と境になる。 

7上野 小杉の西上野の続き。 

8不毛田 牧の橋のたもとの天王川ぞいで、よく水がつき稔らぬ事がたびたびあった。 

10松葉谷 まわりの山は痩土なのか松の木が多く、田に松葉がこぼれたものである。 

12生者窪 34生者ヶ谷 生者ヶ谷には牧の「さんまい」があり、生者窪は生者ヶ谷の山にそった北側の一番奥の窪地である。 

14江ノ下 生者窪、奥之谷から集落の方へえすじのでてくる下の方に当る。 

15吉ヶ谷 この谷の口に吉ヶ谷を姓とする家があった。谷は二叉になっており、小さい方を小吉ヶ谷とよぶ。

16上稲葉 17大稲葉 高台で日当りもよく、集落の多くの家もここにある。稲架の林立したところである。 

18脇 稲葉から山干飯道をみると高台の左脇に位置する。 

1家垣 集落からみて山干飯道前方で天王川迄の地域をいい、あたかも牧は集落の垣根のような位置にあった。 

現在県道は、牧の橋を渡ったあと中野地籍の長町へむけ、ほぼ真直ぐに走っている。山于飯道は小杉から山あいを通って小坂へおり、ワタズメ(渡り詰めの意か)とよばれる田をへて橋を渡り、大稲葉の下の方を迂廻し、若須川を渡る。丸山をべて丸山下の今の地蔵堂のある所の後をまわって中野地籍の長町へと続いていた。家垣の内でも若須川手前の道ぞいの田を石橋とよんでいた。 

この川には石橋がかけてあったようで、河原に石のくずれたのがあったのを記憶している人もある。 

20谷ノ前 集落に接している奥ノ谷の前方。 

24岡ノ下 大稲葉の高台の下、若須川よりの方である。脇の反対側になる。 

26丸山下 丸山から天王川へかけての一帯。 

県道ぞいに現在二体の地蔵堂がある。一体は元丸山にあったもの。今一体の色の黒い方は元小坂の水呑場にあったもので、道路が改修されたのを機にここへ合祀されたという。 

27流れ田 丸山の下の川向うの天王川ぞいの所でよく水がつき流された。萩原との境。 

28丸山 文字通り丸い山だったというが、丸い部分は道路にけずられてしまった。後は前藤屋ヶ谷の山近くを若須川、天王川が流れ、前方の落屋の山も影をおとし、黒ぼんさんが出るとか言われ、あまり気持のいい所ではなかった。そのせいか、昔はここに地蔵さんが安置されていた。 

30行通 若須の行通に続く。昔は行きどまりの谷田が多くあったが、通りぬけて行かれる所に名付けられたのではなかろうか。現在は山林になっている。 

31杉ヶ谷 牧でも肥沃な山で杉ノ木がよくできる。

33後藤屋谷 お宮の後の山で、牧の大火の時、お宮の下の宮下藤兵衛家の婆様が御神体をもってこの山の中に逃れ、火災から守ったと伝えられている。集落をはさんで前方の山を、36前藤屋ヶ谷という。

37落屋 小杉の西谷の山と尾境で、天王川の方へきりたつように落ちこんでいる。落屋の下の天王川と若須川の合流した所はドンドが打ってよどんでいたが、ここをマイブッ(埋没の意か)とよび、夏になると子供達の格好の水浴び場であった。深い所もあり、河童がでるという噂もあった。小杉から落屋の方へおりてくる所を小坂とよぶ。ここに水呑場がありお地蔵さんが祀られていた。 

三、いいつたえ 

◇若い衆講 

十二月頃、元服をすませた十六才~二十五才までの男の人が、昼食後宿になる家に集まり、豆腐、油揚げを当時若須にあった豆腐屋へ買いに行き、味噌は各家々をまわり少しずつわけてもらい、豆腐と油揚げの味噌汁を作って食べ、夜遅くまで談笑した。 

その頃は豆腐、油揚げは何よりの御馳走で、子供のいる家では、子供が宿まで豆腐をもらいに来たという。 

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