「山干飯 小字のはなし」 24 若須(わがす)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

若須(わがす)

若須は牧を南西にはいった所、中野より山を越えて西にはいった奥まった所にあるが、中野、牧へ通ずるどちらの道も現在は舗装され、車が通れるようになったので交通の便もよくなった。 

山間の村なので、夏になってもかれぬ豊富な水と清浄な空気に恵まれている。戦後、十一戸であったが、現在は八戸に減っている。 

若須は時代により、和哥集(慶長三年)、和我僧、和歌巣、和歌須等いろいろに記されている。昔はもっと奥まった堂中屋敷、中堂屋敷のあたりに村があったらしい。 

若須という地名は水に関係があるらしく、昔沼地であったのだろうか。若須には白山神社と柏庭寺があり、白山神社は村の中央の裏山にあり、拝殿に絵馬が奉納されている。その中でも、放駒図(一七八八・天明八戊申年九月吉日)と、曳馬図(一八一三文化一〇年酉九月吉日)の絵馬は昭和五十七年、越前の里で武生市教育委員会主催の越前の絵馬展が開かれた時展示した。 

曹洞宗柏庭寺は下手の裏山にあり、今は無住だが、開基は為泉(しせん)等作という和尚で、慶長三年(一五九八)に創建された。開山は旧坂口村少林寺十三世徳峰卓威大和尚で、延享年間(一七四四四七)に開かれた。寺の上の山には代々の住職か村人の墓か分らないが、数基の墓がある。尚、五輪石は四、五百年前のものらしい。毎年願成寺の住職さんをお頼みしてこの寺で法要を営んでいる。 

一、小字名 

1 てらのしたみち(寺之下道)

2 しもまえだ(下前田)

3 むかざか(向坂)

4 かみまえだ(上前田)

5 おくんたん(奥ノ谷)  

6 かみで(上出) 

7 がけがはた(崖ヶ端)

8 すわのした(数和ノ下)

9 みずかみ(水上)

10 ばんどめ(番富)

11 ちゅうどうやしき(中堂屋敷)

12 どうなかやしき(堂中屋敷)

13 こうけだん(高ヶ谷)

14 じんでん(甚田)

15 みやがたん(宮ヶ谷)

16 やなぎだん(柳谷)

17 しんでん(神田)

18 あぜだか(畔高) 

19 おおとし(大年) 

20 こうけだんおく(高ヶ谷奥) 

21うばがたん(宇場ヶ谷)

22 むかがたん(向ヶ谷)

山林

23 あみやき(網焼)

24 うめきだん(梅木谷) 

25 しもむかざか(下向坂)

26 きたおくんたん(北奥谷) 

27 どうのく(堂ノ奥)

28 みやがたん(宮ヶ谷)

29 やなぎたん(柳谷) 

30 だけやま(嶽山) 

31 おとし(落) 

32 おくこうけだん(奥高ヶ谷)

二、小字のはなし 

1 寺の下道 柏庭寺の下にある道際の田の意味だろう。以前は村の道は柏庭寺の下を通っていた。現在は場所をかえて真直ぐに村を通り、道幅もひろげ舗装されたので、旧道は廃れてしまった。 

2 下前田 村の中央より下手の前の田の意味。 

3 向坂 村の向いにある坂に沿った。中野に通ずる道がある。 

4 上前田 下前田の上手にある田。 

5 奥ノ谷 集落のうしろの谷にある田。 

6 上出 中央にある上前田と下前田の上手にある田。

7 崖ヶ端 崖の際にある田の意味だろう。出ていた崖は削ったそうである。 

9 水上 水の源の意味だろうか。 

10 番富 昔、厨城山の侍とこちらの侍が戦った時に馬を撃いだと言ういいつたえがあるが、馬留が番富になったのか、又は通行人を見張る番所があったのだろうか。 

11 中堂屋 敷屋敷という名の通り、若須村は、昔、奥まったこの付近にあったらしい。現在でも山間ではあるが、この場所は一番開けていて、昔お寺もあったようだ。 

六十年余り前に、中堂屋敷を耕作していた人が眼が悪くなり、武生の一の字判断の占師に見てもらったところ、中堂屋敷の田の端の方に墓石が埋っていて、それを踏んで田を作っている為に罰が当って眼が悪くなったので、すぐに埋れている墓石を掘り出してお祀りしないと両眼とも見えなくなると言われたそうだ。早速、本家の人も手伝って何日がかりで田を掘り起したところ、言われたあたりに、南無阿弥陀仏と書かれた墓石と台石が見つかったと言う。さっそくそれを持ち帰り、武生の浄秀寺でお経を上げてもらい、道の近くの山際にお祀りし、お花を供えてお参りしていた。そうする中に自然に眼病が治ったといわれている。月日がたつうちに村の道も場所が変り、旧道がすたれてゆく中に、いつの間にか墓石も、又山の土の中に埋ってしまったらしく、今は見当らない。

12 堂中屋敷 現在の道を挟んで北に中堂屋敷、南に堂中屋敷がある。今も窪地になって残っているが昔からのいいつたえによると、向ヶ谷の田の上の奥高ヶ谷の山に蛇が池という深い池があったそうだ。その池に大きな蛇が住んでいたが、ある時、雌蛇か雄蛇かどちらかの蛇か不明だが、敦賀に住んでいる蛇に会いに行き、途中、塩水の入らない立石の海に住みついたとか。その若須の蛇が移る時に大雨が降り、大洪水になって家々が押し流された。その時流れ止った人達が住みついて出来た村が牧だという。敦賀へ移った蛇は後に若須へ帰りたいと泣いているとか。若須の子供たちは、いろりばたでおじいさんから昔話を聞かされている。昔、平家の落武者がお墓を背負って住みついたといういいつたえも残っている。 

13 高ヶ谷 深くて大きい谷なのでこの名がつけられたのかも知れないが、池の蛇が敦賀に移る時に大洪水になって谷がこけたので、こけ谷といわれるようになったといういいつたえがある。 

15 宮ヶ谷 今は田に杉が植えられているが、昔、村が奥にあった頃、宮ヶ谷の山に神社があったのではないだろうか。 

16 柳田 行季等を作る柳が生えていたのだろうか。

17 神田 現在は杉林になっているが、宮ヶ谷に近いところにあるので、昔は神に捧げる米を作る田であったのだろうか。 

18 畔高 奥まった谷田なので、畔が高かったのか。

20 高ヶ谷奥 名の通り高ヶ谷の奥の田である。

22 向ヶ谷 昔、村があったと思われる堂中屋敷、中堂屋敷の向いの谷だからだろうか。 

24 梅木谷 二階堂へ通ずる谷で、昔、梅の木がたくさん生えていたらしく、街道だった。 

25 下向坂 若須の下手の方の向いの坂で、向坂と落ち合って中野へ通ずる。下向坂の通称寺屋敷と呼ばれる場所に、安土桃山時代の頃と思われるが、白天寺という寺があったとか。 

ある時、薬売りが吹雪に会い、行き倒れになっている所を、白天寺の住職に助けられた。その折、住職より薬売りをしているよりもお坊さんになれと諭されて、半年間白天寺で修行をし、得度して自分の里の浅水へ帰り、白禅寺を建てたそうである。 

白禅寺は禅宗であったが、江戸時代に一向宗に改宗した。その間幾度も火災に会い、寺が焼けたそうだが、先祖が白天寺に助けられた薬売りであることは間違いないそうで、昭和四〇年頃白禅寺より若須に調べに来たそうだ。 

白禅寺は現在福井市三尾野町にあり、近江八幡に末寺が一箇所あるそうだ。 

26 北奥ノ谷 奥ノ谷は若須下手の裏の谷で、その北にある。 

27 堂の奥 昔、神社があったのではないかと思われる宮ヶ谷のかえしの山なので、堂の奥と付けられたのか。 

28 宮ヶ谷 今は杉林になっているが、宮ヶ谷の山を登ると、上は扇状にひろがっていて、中央は平らな場所になっているので、この所に神社があったのでないかと想像される。 

29 柳谷 山に柳が生えていたのか。 

30 嶽山 若須嶽である。 

31 落 落ちるように急斜面だからか。 

32 奥高ヶ谷 高ヶ谷の奥の山で、蛇が池があったという。 

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