以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。
安養寺(あんようじ)
鬼ヶ岳の西北の麓、天王川の一支流、国成川(くんなりがわ)の上流に位置する小盆地に安養寺がある。東は鬼ヶ岳下のトンネルをぬけて武生市大虫地区と、西は曽原、粟野、小杉、南は黒川、勝蓮花、小野、北は宮崎村、小曽原、樫津に隣接している。安養寺は、戸数は百五十戸近くあり、白山地区第一の大集落である。中央部には、浄土真宗本願寺派の専応寺(通称しもんてら)、その東方に真宗大谷派の養徳寺(通称かみんてら)、北部の光明山の麓には白山神社がある。その他、郵便局、農協の出張所及び倉庫、白山小学校第一分校、保育所、生活改善センター等も設けられている。また、集団栽培センター、白山精工(眼鏡関係)、坂下織物(西陣織)、白産木工、武生土コン、山内工業所、安養寺アセテート、佐野製材、加藤縫製工場等働く場所も多い。さらに村田製作所のある小曽原地区にも隣接しているため、経済的な潤いもあるのだろうか、地元に分家して残る青年も多く、戸数も若干ではあるが増加の傾向をたどっている。また、最近集落北部のなだらかな山地を利用して、「太陽の広場」や「開拓キャンプ村」が新設され、明るい話題を提供している。また、二十年計画とかで全部の完成までには、まだ程遠いが、その一部のソーラーシステム(太陽熱利用)の薬草風呂やゲートボール場などは、すでに区民の利用度も高く、いこいの場、社交の場としての役割を果している。
昭和四十六年には耕地整理も完成し、農業の大型機械化、集団化も進んでいる。耕地整理以前は、天王川の最上流ということもあり、水不足で特に農業用水は集落の周辺に散在する大小八十余箇所の溜池で補っていた。そういう事から過去には水争いなどもあったようだが、現在では狐谷(きつねだん)、坂の谷(さかんたん)、池の谷(いけんたん)、馬留(うまっとめ)の四つの溜池が、水面の標高がほぼ同じなのを利用し、耕地整理と同時にパイプライ工事も行ない、圃場給水が行なわれるようになった。また、それは消火栓としても利用され、水不足からくる多くの難問を一度に解消した。
学校の変遷をみると、まず廃藩置県が断行されたその翌年の明治五年に、地区の子供達を対象とした「涵養小学校」が専応寺境内に開校された。明治三十六年には、それより百五十米程西側の三昧腰(さんまいごし)と呼ばれる地籍に新築移転した。明治四十三年には白山小学校第一分教場となり、現在の大野(おおの)地籍にある校舎は、昭和三十九年に新築されたもので、分校としては県内一、二の規模を誇っている。この分校には現在、安養寺をはじめ曽原、鴉ヶ平の四年生までの児童が通学している。社会福祉法人安養寺保育所の起源は、昭和三十五年にさかのぼる。働く婦人の要望と、専応寺住職の理解で、春、秋二回の農繁期に約一ヶ月づつ、御堂を解放しての季節託児所がその発端である。ちょうどその頃、白山村は武生市に合併し、市からの若干の援助を、子供のおやつや遊具にあてての苦しい出発であった。しかし、昭和三十九年に分校が新築移転したのを機に、二階建ての校舎を平屋に改築し、ここに移転して法人化した。しかし、二十年後の昭和五十九年には、建物の老朽化が著しいので、西出(にしで)地籍に鉄筋コンクリート平屋建ての新施設を建造し移転した。現在、生後六ヶ月から学齢児までの約六十名の子供を預り、九名の職員が懸命の保育にたずさわっている。白山地区唯一の保育所とあって、安養寺のみならず白山全域より入所希望者がある。
安養寺には浄土真宗のお寺が二ヶ寺あり、当区に住む人は必ずこの両寺のいずれかの門徒に所属しなければならないというしきたりがある。そのせいか信仰心に篤い人々が多く、仏事も一年を通じかなり多い。一月一日には、老若男女安養寺のほとんどすべての人が、この両寺の住職と年頭の挨拶をかわし、一年の出発としている。また、一月中に各垣内(かいち)ごとに、必ず和讃講(わさんこう)がつとまる。宿は各家を順番に回り、午前中は垣内の話題やよもやま話に花を咲かせ、主婦達の準備した精進料理で昼食をとる。午後は宿の所属するお寺の住職に来てもらって、全員で正信偈を拝読し、法話を聞く。近年夜は魚屋から料理をとり、垣内の盛大な新年会を行なっており、地域の親睦友交を図っている。二月には永代経がつとまり、三月には春の彼岸会が一週間続く。五月には地区の戦没者追弔会があり、七月には門信徒の家で河南十三日講がつとまる。八月には墓参りや盆会、永代経、九月には一週間秋の彼岸会、十月、十一月には両寺の報恩講が行なわれ、十二月には御正忌報恩講がつとまる。また、毎月の行事としても、親鸞聖人の御命日法要や仏教婦人会(毎月十日)、若者を中心としたお経の練習会などがある。毎月十一日には専応寺の庫裡にて「御相続」と呼ばれる念仏三昧のお講も営まれ、多くの篤信家が法悦にひたっている。
「安養寺」という地名の由来を訪ねてみると、地区の南方向出(むかいで)地籍にその起源があるようだ。この垣内に「御堂屋敷(おんどやしき)」という字名が今でも残っている。この地はいい伝えによると、福井の足羽山の北の麓にある安養寺(浄土宗の寺で、もと朝倉敏景が一乗谷に創建したが、天正三年現在地に移転した。)の老僧が、ここに草庵を建てて隠居していたようだ。それが朝倉氏滅亡の時その一族朝倉大進土佐坊がこの地に逃がれてきたので、草庵の老僧は福井へ戻ったという。地名はそんな所に由来しているのだろうが、この地は四方を山に囲まれた盆地であるため、隠棲するには格好の地であったのかもしれない。
安養寺の地区内を細かく分類すると、十二の垣内からなっている。上出(かみで=武生へのトンネルに近い所)、南空出(みなみそらで)、北空出(きたそらで)=養徳寺より東側一帯)、西出(にしで=専応寺を中心とした所で「村中」とも呼ぶ)、茶屋出(ちゃやで=白山神社の周辺)、西三昧腰(にしさんまいごし)、東三昧腰(ひがしさんまいごし=生活改善センター付近)、北向出(きたむかいで)、南向出(みなみむかいで=国成川を境にして南側一帯)、東郷城(ひがしごうじろ)、西郷城(にしごうじろ=小曽原よりの所)、大野(おおの=安養寺分校の周辺)の十二班で運営されている。昔は、上出、茶屋出、向出など盆地周辺の山裾に人家があったようだが、人口の増加につれて中央部へ進出したという。しかし、近年は郷城、大野垣内への進出が著しい。
一、小字名
1 おくふくせんだん(奥福仙谷)
2 わりだん(割谷)
3 おくよもだん(奥与茂谷)
4 くちよもだん(ロ与茂谷)
5 おしろさかした(後坂下)
6 おおしろやま(大後山)
7 しもうしろやま(下後山)
8 にしろしろやま(西後山)
9 くちふくせんだん(口福仙谷)
10 そとふくせんだん(外福仙谷)
11 しもこしろやま(下小後山)
12 からとぶち(唐戸渕)
13 なかこしろやま(中小後山)
14 かみこしろやま(上小後山)
15 さかのした(坂ノ下)
16 おくさかのたに(奥坂谷)
17 こがたに(小ヶ谷)
18 ろくろだん(六呂谷)
19 きつねだん(狐谷)
20 あしはらだん(芦原谷)
21 おおみなくち(大水口)
22 くちさかのたん(口坂ノ谷)
23 きたさか(北坂)
24 さかのこし(坂ノ腰)
25 うしろ(後)
26 だん(段)
27 あしおだ(足尾田)
28 かみだいもん(上大門)
29 しもだいもん(下大門)
30 なかだいもん(中大門)
31 かまぐち(鎌口)
32 ひがしぼうのく(東坊奥)
33 どうのうしろ(堂の後)
34 ぼうのおく(坊の奥)
35 みやのした(宮ノ下)
36 どうやま(堂山)
37 さくだ(作田)
38 ごうじろ(郷城)
39 じゃだん(蛇谷)
40 とりのこし=とりごえ(鳥越)
41 かみでん(神子田)
42 しもかしお(下樫尾)
43 なかかしお(中樫尾)
44 かみかしお(上樫尾)
45 むかいかしお(向樫尾)
46 ななおだん(七尾谷)
47 ひがしひなた(東日向)
48 にしひなた(西日向)
49 かみさんたんだ(上三反田)
50 えむかい(江向)
51 しもさんだんた(下三反田)
52 やなぎだ(柳田)
53 ゆげんだ(遊見田)
54 なかの(中野)
55 しもにしの(下西野)
56 なかにしの(中西野)
57 かみにしの(上西野)
58 しもおおの(下大野)
59 さわ(沢)
60 なかじゅうろくでん(中十六田)
61 しもじゅうろくでん(下十六田)
62 たけがたん(竹谷)
63 かみあざみだん(上蒐谷)
64 おくはってん(奥八田)
65 くちはってん(口八田)
66 しもあざみだん(下蒐谷)
67 なかあざみだん(中蒐谷)
68 げだん(揚谷)
69 いぬあな=いぬげ(犬穴)
70 やまいぬがあな(山犬ヶ穴)
71 うまっとめ=うまどめ(馬留)
72 とうろうでん(灯籠田)
73 うまどめぐち(馬留口)
74 やきやま(焼山)
75 かみじゅうろくでん(上十六田)
76 ふくろこだん(梟子谷)
77 ふくろこだんぐち(梟子谷口)
78 ずく(頭空)
79 おおの(大野)
80 けのした(崖ノ下)
81 はざま(狭間)
82 さるはし(猿林)
83 こしろした(小城下)
84 さんまいごし(三昧腰)
85 しもつるの(下鶴野)
86 かみつるの(上鶴野)
87 てらまえ(寺前)
88 むらなか(村中)
89 みやみなみ(宮南)、またはみやまえ(宮前)
90 しもじま(下嶋)
91 あいのかいち(相垣内)
92 ひがしまえだ(東前田)
93 うえじま(上嶋)
94 ほりのうえ(堀ノ上)
95 ひらばやし(平林)
96 かきのはら(柿原)
97 くちいけのたん(ロ池ノ谷)
98 ももきだん(桃木谷)
99 まきやま(真木山)
100 おくいけのたん(奥池ノ谷)
101 きたむしだん(北虫谷)
102 うえさか(上坂)
103 なかさか(中坂)
104 てんじんいなば(天神稲葉)
105 しもさか(下坂)
106 おくやま(奥山)
107 みずかみ(水上)
108 やち(屋地)
109 たなた(棚田)
110 かみかもがわ(上鴨川)
111 ひがしなわて(東畷)
112 そらでかいち(空出垣内)
113 くらまえ(蔵前)
114 にしなわて(西綴)
115 しもかもがわ(下鴨川)
116 むかいやま(向山)
117 むかいの(向野)
118 ひでのき(秀ノ木)
119 くわばら(桑原)
120 おくのたん(奥ノ谷)
121 たきがたん(滝ヶ谷)
122 にじゅうでん(二十田)
123 のだ(野田)
124 かわらだ(河原田)
125 くちにしまだん(口西間谷)
126 かざおり(風折)
127 なかにしまだん(中西間谷)
128 おくにしまたん(奥西間谷)
129 やせだ(痩田)
130 くちかま(口釜)
131 ながお(長尾)
132 すけがたんぐち(助ヶ谷口)
133 すけがたん(助ヶ谷)
134 おおみねぐち(大峰口)
135 おおみね(大峰)
136 ゆずりはぐち(譲葉口)
137 ゆずりは(譲葉)
138 まつがたん(松ヶ谷)
139 じようがたん(城ヶ谷)
山林
140 ひなた(日向)
141 おくじゃだん(奥蛇谷)
142 こうしろ(小後)
143 おおうしろ(大後)
144 さかのうしろ(坂ノ後)
145 さかのたん(坂ノ谷)
146 おくきつねだん(奥狐谷)
147 おくきたむしだん(奥北虫谷)
148 おくみずかみ(奥水上)
149 おおかま(大鎌)
150 おくおおみね(奥大峰)
151 おくじようがだん(奥城ヶ谷)
152 ながおみね(長尾峰)
153 にしまた(西亦)
154 みなみおくのたん(南奥ノ谷)
155 おくうまとめ(奥馬止)
156 ゆきどおり(行通)
157 なかのはってん(中ノ八田)
二、小字のはなし
1 奥福仙谷 2割谷 3奥与茂谷 4口与茂谷 これらの地は現在太陽の広場として、キャンプ場や太陽熱利用の入浴場になっており、また、現在造成中の芝生広場になっている。これらの小字名は地権者の名や屋号を命名したらしい。当区にはその名は見あたらないが、宮崎村住民の所有となっている。
6 大後山 7下後山 8 西後山 11 下小後山 13 中後山 14 上小後 25 後 142 小後 143 大後
白山神社神域の光明山の後方(北東)に位置している。福井県農協研修会館が、小後に建設されている。
12 唐戸渕 ここで国成川が急カーブしており、宮崎村の国成の方へまがり渕をなしている。川を渡ると宮崎村小曽原となる。
15坂ノ下 16 奥坂ノ谷 22 口坂ノ谷 23 北坂 24坂ノ腰 144 坂ノ後 145 坂ノ谷 この字は集落の北東に位置し、山の尾根を越えて宮崎村舟場、樫津に通ずる道路で、古老の話では三国港に揚げられた魚粕肥料、建築資料等を運ぶ唯一の運搬道で栄えていたため付近の字名に坂をつけたらしい。みどりの村の長期計画によると、馬で登る万里の長城を造るとか。
18 六呂谷 当区は昔から陶土が出、窯業が盛んだったので焼物をするろくろにちなんだ名ではなかろうかという。
19 狐谷 146 奥狐谷 現在のトンネルを境にして、安養寺側を言い、トンネルの開通していなかった頃は狐がたくさん出没したと言う。ここに大きな溜池があり、自動車に乗った人が運転をあやまり、車もろともこの溜に落ち、水死した事故があり、遺族の人がほとりに地蔵堂を建てた。しかし、道路改修でもとの位置より少し登ったカーブの処に移された。
20 芦原谷 葦が群生していた。今も一部にその名残りがある。
21 大水口 文字通り安養寺の大水口である。耕地整理前は炭酸水がでるといわれ、気味悪い位真青な水だった。
28 上大門 29 下大門 30 中大門 32 東坊奥 33 堂ノ後 34 坊ノ奥 35 宮ノ下 36 堂ノ山 41 神子田 89 宮南 昔、津島さまという役人が、村の東北の丘陵地に館を構え、付近一帯の村々を治めていた。地方巡回の暇をみて武道にはげみ、特に弓道に秀いで神域光明山より放った矢が遠く厨城(現在の越前町)まで届いたという。この辺一帯にその館跡や、おせん、馬場、大門の字名がある。また、白山神社の東方に華相院という地名があるが、ここは昔、真言宗だったが後に、浄土宗に変ったという華相院という大きな寺院があったところから名付けられたという。その下寺も字名に見る如く、「坊」として数寺あったらしい。大正十一年、光明山頂の経塚から壺や鏡、刀等(市文化財として味真野資料館に陳列)発掘されたが、鎌倉時代の寺とすれば上記字名の如く寺院を中心とした集落の繁栄の歴史がわかる。しかし、新田義貞が斯波高経の居城府中善光寺を攻略し、さらにその子義将の居城厨城を攻略の際、焼き亡ぼされたということだ。
38 郷城 垣内は安養寺でも宮崎村の小曽原よりになるが、陶土の豊富なところで昔から、土管屋、碗屋、瓦屋などがあった。村ばなに地蔵堂があるが、何時からあったのかわからないが、村人は常八の地蔵さんといっているので、当区の山下常八家と関係があるのかも。
39 蛇谷 狭田が蛇行している。
40 鳥越 安養寺から小曽原へ通ずる坂道(今は利用されていない)で鳥越坂とも言い、秋になるとつむぎ等が群をなして越えていった。
47 東日向 48西日向 140 日向 日向は小曽原との山の南面でひなただからだろうか、その裾にある田の東の方を東日向、西の方を西日向と言い、西日向は曽原の早干に接している。東日向の山ぞいにさんまいがあるが今は使われていない。
50 江向 山ぞいにある江すじのむかい側にあたる。曽原の上深田へ続く。
53 遊見田 春先など一帯の田の面にかげろうが見えた。大正末期、終戦後暖い湯が出るのではないかと何回かさく井もされた。現在の鴉ヶ平の朽木氏宅の豚舎の下の方にあたる。
54 中野 55下西野 56中西野 57上西野 58下大野 59大野 このあたり一帯は安養寺でも平地であり、もとは畑も多くあったが、耕地整理で田となった。しかし、現在は宅地化も進んでいる。
59 沢 現在の第一分校の南側を言い、耕地整理前は桑畑であった。この桑畑の端に大きな茶株があって、その下から清水がこんこんと湧き出ていてどんな日照りが続いてもかれることがなく、畑作業の一服時のオアシスだった。
60 中十六田 61下十六田 これらの田は、64 奥八田 65 口八田の田と背中あわせの位置にあり、これは単なる語呂あわせだろうが、”八田と八田とあわせて十六田”などと言いはやされた。位置を覚えるのにはいいかもしれない。
黒川へ通ずるくろさかの登り口の中十六田には大きな溜があった。
63 上蒐谷 66下蒐谷 67中蒐谷 蒐が群生していた地帯で鷺草も育っていた湿地帯。下黒川の行通・蘇谷へ通ずる。山道を右に入ると小杉の集落となる。このあたり一帯は深田が多く、田の中に埋められた丸太の上を歩いて農作業をするのだが、足をふみはずすと大変で、あがるのに一苦労だった。田圃の中に笠が落ちているのでひっぱったら肩までしずんだ人の顔があった。そんないい伝えもある位である。
71 馬留 73馬留口 165奥馬留 その附近から道が急で悪かったので馬を留めておいた。
7 8頭空 高台で前方には野が広がっていた。
81 崖ノ下 現在の白山精工の前あたりで崖になっており、昔は杉ノ木がはえていて薄暗かったので、馬の屍体や、お産の汚物なども棄てられた。別名馬落しとも言われていた。
82 猿林 今は耕地整理で明るくなったが、奥馬留の山に接したこの地は、昔はうっそうとした所もあって猿がよく出たものである。国成川も昔は猿林川と言ったが、河川改修をした際どういうわけか国成川となった。宮崎村の国成で天王川と合流するからだろうか。
84 三昧腰 墓らがあり、昔は火葬せずここに埋葬したという。さんまいのそばの煮か。
寺前 村中の前方、専応寺の前だったからだろう。
88 村中 村の中心で専応寺がある。
97 口池ノ谷 100奥池ノ谷 奥池ノ谷に溜がある。上坂中坂下坂この字は集落東方に位置し、トンネル(明治三十年に開通した)のなかった頃は、二百五十米程の山をつづら折りに登り、大虫へ、府中へと通ずる大街道であった。古老の言によれば、旧俵(四斗六升)の米を背負って町へ出たという。明治初年頃の道路補修のための部落人夫出場出面表も残っている。前記の北坂以上に利用された。今、トンネルロに安置されている地蔵堂も、もとは上坂街道の脇にあり、武生方面へ用事に行く部落民の守り地蔵であったが、道路が改修されたのを機に、小曽原の住人で牛方としてよくこの道路を利用していた「しもいんきよ」家の人が現在地に移築した。
104 天神稲場 集落の東方に位置し、昔は稲架場に利用されていた。また、天神様の小さな堂があったらしいが、今はない。
107 水上 148 奥水上 安養寺ではここからでる水が一番太い。鬼ヶ岳の方を見ると、陶石をとったあとがみえる所である。
110 上鴨川 115 下鴨川 川の淀みに鴨がたくさん住んでいたということだ。
124 河原田 一帯が河原であったから耕地整理の時、二米程の磐下は互礫の層が続いていた。神代杉もたくさん出てきた。
126 風折 安養寺を南北に通ずる台風の通過道に当り、ジェーン台風襲来の際、七、八尺の大木がねじ折れた。
129 瘦田 砂地で秋落地帯。
136 譲葉口 137譲葉 ここを経て上黒川の松ノ木谷へ通ずる。この道に大体そって白山が一周できる農免道路が近く完成する。
139 城ヶ谷 151奥城ヶ谷 集落の東南に位置し、標高四百三十米程の頂上には、NHK中継所があり、白山、坂口、武生、宮崎、織田、鯖江が見え、空気の澄んだ日は遠く福井方面の山々も望まれる。山の裏側は勝蓮花、小野地籍に続いている。山の中腹は棚になっており、大きな石がころがっていて、砦跡を思わせる。頂上は展望がきくので見張所であったのではないかと思われる。棚を横たいに東へ行くと谷川があり、古老の言では流し場と言っている。近くの谷に屍谷の地名も残っている。
141 奥蛇谷 光明山北側の山麓で、中世の窯跡があり、須恵器窯が三基あったが採土により破壊され今はない。
谷一つへだてて宮崎村小曽原の金刀比羅山がある。金刀比羅山の南西の麓にある曽原でも窯跡のあったことが確認されている。古くからこのあたり一帯は、土と共に住む人々とあった地域のようである。
三、いいつたえ
◇くろさか
安養寺から十六田と灯籠田の間の道を黒川の行通へ出るのに通る坂道で、現在は再度の改修で道が高くなったが、昔は安養寺側の道は低く急な坂で、両側の山の木がおいかぶさり、昼なお暗いといった感じだったので、くらい坂の暗坂(くろさか)とよばれたのだろうと言う。この坂のあがりとに、昔から地蔵さんがあった。近年、西田家の地蔵さんといっしょにもとの位置より上ったところに安置され、御堂も大きく新築された。
(坂の中程にあるコンクリートの地蔵堂は事故でなくなった人の家族がその供養に建てられたものである。)
◇大野の地蔵さん
昔から大野に地蔵さんがあったが、今は道路の改修で位置が変った。原かんじゃ家の左手にある古い地蔵さんがそれである。また、その近くの曽原方面と黒川方面へ分れる三角点のそばにある地蔵堂は、弘法さんの地蔵さんとよばれ、弘法さんを祀ってある。この地蔵堂は、平林勘六でやの先々代の人が家で祀っていたのを、四十年程前、お堂を建てここに安置したという。ここは少し坂になっていて、ある家の人が干せた稲を大八車に積んで子供に先びきさせて下りにかかったところ、子供がころびその上を車がすべりおちたが、体にわだちの跡がついただけでけががなかったという事だ。これも弘法さんのおかげと地元の信仰を集めている。
◇弘法大師
安養寺の中央部を東西に横切る一本の川があり、名前も国成川とか鴨川とか色々あるようであるがさして名前を呼ぶ程の川でもない。
その川が流れる西出垣内に、「揚げ石」という屋号の家(山崎家)があり、ちょっとした話がある。「昔、用水に大きな石があってどうしても水が入らない田があった。そこでこの家の先祖がこの石を掘り揚げて田に水が入るようにした。それからこの辺の人々はその家を「揚げ石さん」と呼ぶようになっと言う。
この揚げ石さんの屋敷に弘法大師の話がある。「もし婆さんや、そこになっている柿を一つわしにくれんかのう。」
「はいはいお坊様欲しけりゃいくらでもあげますが、あいにくこの柿は渋柿でござんすんにや。」「いやなんでもよい。一つわしにもらえんかのう。」
「はいはい渋柿でもよけりゃ。」
そこで婆さんはその坊さんに渋柿を一つむいでやりました。そうしたらその坊さん、その渋柿をとてもうまそうに食べだした。
「あーうまい柿ぢゃった。それじゃ婆さんや、お礼と言っちゃなんだが、これからこの屋敷にはえる柿はみな甘柿にしてやるでのう。」と言って、前にあるお寺の方へ歩いて行った。
それからというものは、渋柿が甘柿になり、現在でもこの屋敷にある柿の木はみな甘柿で渋柿の木を植えても甘柿がなるそうな。また、こんな話も残っている。お寺の門前で一休みを終えた坊さんが、「ドッコイショ」とそばにあった石に手をかけて立ちあがったら、その石にピタリと手の跡がついたという。その手の跡のある石は今でもそのお寺(専応寺)の庭に三尊石の一つとなって残っている。
その不思議なことをやってのけた坊さんを人々は弘法大師だったのだと信じ、今に伝えられている。
◇安養寺屋
小杉の前善太夫家の弟の善太郎が、明治のはじめ織田でかんじやの修業をし、小杉の実家近くの小屋ではじめたが、火災にあったので、安養寺の大水ロに居を移し開業していた。そこも五、六年で武生の上市へ出、安養寺屋と名のった。鉈造りを得意とし弟子も数多く養成し、財もなしたが、三代目が廃業した。その流れをくむ人が現在も武生には四、五軒あり、府中の打刃物を語る上で欠かせぬ名だという。三代目の弟が、やはり安養寺屋を名乗り、大野の下庄村で造りをしているという。
◇新婚さんと火消し
四月十日の春祭りになると、前年の春祭以後一年間に花嫁を迎えた家に地区の消防団と自警隊が出むき、その家にむかってポンプで放水する。これが地区の消防団の出初め式ともなっている。
いつ頃からはじまった行事かわからないが、安養寺の集落の殆んどをやきつくした安政六年(一八六〇)以後、そのいましめのためはじめられたと伝えられている。新婚さん宅を選んだのは、花嫁さんが根がつくよう、また、あつい仲をひやす為といったジョークも含まれているとか。消火の面からみると、水利を確認するためでもある。
(かいち、(垣内)とは住宅のまとまった区域の事を言う。)