以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。
丸岡(まるか) 沓掛(くつかけ) 日の向(ひのむかい)
吉野瀬川の上流にあり、西は米口、仏谷、東は勝蓮花、勾当原、北は上杉本、上黒川に境し、南に金華山があり、越えて中山に接している。
第二次世界大戦中及び戦後の食糧不足を補うため、約四町歩の開田と、約十町歩の畑地の造成、開拓者の入植により更に約十町歩の農地が開墾され、その大半はタバコが耕作されてきたが、今は全廃となりその面影はない。昭和四十七年よりの白山地区の県営農地開発事業により、約十五町歩の給水完備の近代的な農地が完成し、今後の営農に大きな期待がかけられている。
沓掛は安政元年(一八五四)一軒の茶屋が草分けとなり、明治、大正にわたり二十一戸の商家を中心とした一集落が丸岡の朶村(えだむら)として誕生した。一時は交通の要地として発展したが、交通機関の発達により今は十八戸で商家は一戸もない静かな集落となった。丸岡の一字名ではあるが、行政上沓掛町とし認められている。
氏神様として山王大権現日吉神社がある。言い伝えによると養老年間(七百年代)に江洲坂本の山王一大権現日吉神社より分霊され、金華山の頂上に祀られ近郷十三ヶ村の総社として信仰が深かった。その後慶長十二年(一六一二)に兵火により焼失したので、オカイナバ(金華山のふもと深山口)に移祀されたが、近くに火葬場があったので、神のお告げにより現在地に移されたといわれている。
祭神は大山咋の神であるが神像二体、仏像七体が祀られている。
丸岡、沓掛に面した北側の大半は黒川地籍で、小字として田、畑、宅地等に八十七字より九十二字までと、山林に百九字より百十六字まである。(小字名は黒川の部に記してあるので省略する。)上黒川より沓掛へ越すのには急な峠道で、その道を境に通称西は鹿の佐、東は坂見谷といわれている。特に鹿の佐は岩山多く、平地は強粘土質でたいへんな痩地である。
昔はこの地域は丸岡地籍であったが、江戸の末期黒川村は本保領(幕府直轄)、丸岡村は福井藩領であった。福井藩は六十八万石から二十五万石に減領されたので、年貢の取立ては本保領に比べ非常に高く取立てもきびしかった。やせ地のため収穫量全部納めても尚足りなく丸岡村としても困り果て黒川村へ無償でとってもらうこととし、再三交渉したが話はまとまらず、結局くじ引きに勝ったので酒五升をつけて黒川村へとってもらったものだといわれている。
戦後食糧増産のための開墾や土地改良事業等により平場で田畑約八町歩が造成された。鹿の佐を除く山々はゴルフ場建設の予定地になっている。
沓掛町のうち昭和初期までこの黒川地籍内に四戸あったが、現在は二戸となっている。
一、小字名
1 ひなた(日向)
2 たにやま(谷山)
3 かわだ(河田)
4 かやだん(荷谷)
5 りゅうがたん(滝ヶ谷)
6 ひのきだん(火ノ木谷)
7 つつみがたん(包ヶ谷)
8 うらだ(宇良田)
9 ひかげ(日蔭)
10 かみにしでん(上西田)
11 うえのやま(上野山)
12 にしこがたん(西小ヶ谷)
13 ひがしこがたん(東小ヶ谷)
14 みやま(深山)
15 なかみやま(中深山)
16 みずかみだん(水上谷)
17 くちみやま(ロ深山)
18 かみたなか(上田中)
19 にしのした(西ノ下)
20 しもにしでん(下西田)
21 さがらまち(佐柄町)
22 みやのまえ(宮ノ前)
23 かみさかめ(上境明)
24 ほうちん(宝珍)
25 しもたなか(下田中)
26 だいもん(大門)
27 げんとく(源徳)
28 にんじんもと(人参元)
29 とりのむかい(鳥ノ向)
30 もりのした(森ノ下)
31 みやのこし(宮ノ腰)
32 みやのした(宮ノ下)
33 むらしも(村下)
34 こまるか(小丸岡)
35 なかなべと(中鍋戸)
36 きたかいち(北界地)
37 しもさかめ(下境明)
38 かみなべと(上鍋戸)
39 むかいやま(向山)
40 ばんにや(番屋)
41 しもなべと(下鍋戸)
42 くりばやし(栗林)
43 いかだま(井賀玉)
44 しょうずがしり(清水ヶ尻)
45 まるやま(丸山)
46 かみどうだ(上堂田)
47 しもどうだ(下堂田)
48 くじゅうだ(九十田)
49 おおしも(大下)
50 くつかけ(靴掛)
51 とびのき(飛ノ木)
52 ひちべざか(七部坂)
53 おくとりごえ(奥鳥越)
54 すがたん(杉ヶ谷)
55 かまがたん(鎌ヶ谷)
56 きつねづか(狐塚)
57 はちがしり(八ヶ尻)
58 あらたん(荒谷)
59 くちあらたん(荒谷)
60 いけのだいら(池ノ平)
61 くらがり(暗り)
62 ひがしますたん(東増谷)
63 にしますたん(西増谷)
64 しほから(志保唐)
65 こたき(小滝)
66 おくやま(奥山)
山林
67 かみひなた(上日向)
68 ながお(長尾)
69 たかば(高場)
70 ながたん(長谷)
71 くさおとし(草落)
72 すがやま(杉ヶ山)
73 てんじょう(天井)
74 こだなし(小田梨)
75 さんざがいち(三佐ヶ市)
76 とっときだいら(鳥置ヶ平)
77 ひらばやし(平林)
78 ばばやま(番馬山)
79 まつを(松尾)
80 ふかたん(深谷)
81 ひめむかい(目向)=(日ノ向)
82 さかみだん(坂見谷)
83 いぬのたん(犬ノ谷)
84 くりばやし(栗林)
85 きたやま(北山)
二、小字のはなし
1 日向 昔の見張所の一つで、東は武生方面から、西は山千飯一帯にわたってよく見える地である。この地の番人はいつも白い手拭いをかぶり、後で結んでいた。その結んだ手拭いの両端が兎の耳のようにつんと立っていたので、人々は「耳々白」と呼んだ。
それが明治の世となり、土地台帳が改められた。この時、元の台帳に極く粗雑な字で「耳々白」とあったのを見誤って、「目々白」となり、「日目向」となり、あるいは「目日向」「日ノ向」ともなり、終戦後開拓地として入植者が入居してから、この人達によって日野山が真向いに見えることから、「日ノ向」の名が一番適称であるとして、一般通称名になった。しかし、土地台帳は「目日向」となっているので登記には「日向」では通らない。
2 谷山 坂口の中山へ行く道にあり、大溜がある。
4 荷谷 谷山と地つづき。
7 包ヶ谷 溜池がある。
9 日蔭 日当りの悪い山蔭の由。
11 上野山 高い所でここにお寺があったといわれている。現在、清水山にある専伝寺といわれ、今でも池があり、一昨年までそばに周囲が六尺程もあ大きな五葉松があった。お寺の松ではないかという。しかしその松は、昭和六十年に枯れてしまった。
丸岡には、今でも清水町清水山の壇家が十五戸程ありお参りを続けている。
12 西小ヶ谷 西の方にある小さい田。
13 東小ヶ谷 東の方にある小さい。
14 深山 山の奥にある田。
15 中深山 深山の少し手前にある田。
16 水上谷 どんなに強い日照りでも、水はかれたことはない。
17 口深山 深山の登り口。
21 佐柄町 昔は、佐柄町、フロノ下、宝珍、ゴマン堂、そして仏谷の観音堂の下まで軒を揃えた町であったという。丸岡のもっとも栄えた時代といわれる。後に領主とともに町民もろとも、坂井郡の丸岡に移転したのだという。
フロノ下あたりを田にするため整地したところ、墓石のかけら、大きな五輪塔の一部など出土した。お寺もあったらしい。五輪塔の一部は、現在鈴木凡磨氏の旧宅地跡に残されている。現代の大型機械で掘り起したならば、相当な埋没品が掘り出されるのではないかと思われる。
22 宮ノ下 宮ノ前、宮ノ腰、これらの名称は、当町日吉神社(山王大権現)が鎮座されてから付けら.れた名称と思われる。
23 上境目 米口地籍の境目との地つづき。
34 小丸岡 明治以前に、中西藤左ェ門家から分家した人が草分で、それ以後小丸岡と名付けられた。丸岡の出村となっている。
35 中鍋戸 36 上鍋戸 41 下鍋戸、これらの小字は、米口の鍋戸の地つづきで、瓦土を取った跡があったらしい。
37 下境目 この一画に通称「綾織」という所がある。こゝで綾錦を織って時の代官に献上したという。
39 向山 村の向いの山。
40 番屋 往来する旅人を止めて、調べた所で番小屋があったところ。
42 栗林 栗の木の林であった。狐が出て来て人をだましたので、村人は地蔵を建てて封じ込めてしまった。人々は「はざまの地蔵」とよんでいる。
43 井賀玉 雨が降ると水がつき、溜った水は水はきが悪いため、井がタマルが井賀玉になったとか。白山地区でも一番悪い土地といわれたという。近川を広くして水はきを良くしたので、安心して作ることが出来るようになった。
44 清水ヶ尻 美しい水が出る所で、どんなにお天気がつづいても水がかれず、皆がくみに行った。今でも用水として使用している家もある。
45 丸山 山が丸いので丸山となる。
48 九十田 小さな田がたくさんあった。
49 大下 丸岡は昔から霜の害が多かったので、柿など実の止りが悪かった。それが大下には成った。村の者は霜町(しもんちょう)ともいった。
50 靴掛(沓掛) 丸岡の出村である。米ノ浦方面と、黒川の方から出て武生へ出る街道すじにあり三叉路になっている。そのため早くから栄えた。かっては医者もあり、色々な商家もあった。高佐で造った塩をこの地に売りに来たが、牛に二俵、馬子が一俵かついで来たという。ちょうど靴掛まで来るとわらじがやぶれ、馬の沓もすり切れてしまうのでここで新しいのと替えたという。古いわらじを木の枝にかけたので沓掛となったそうだ。現在ある清水家は、安政元年より店をかまえた。一年間に三千足のわらじが売れたという。往き来する旅人が一服する所となり、茶屋さんと呼ばれ、煮しめやあべ川もちなどよく売れたそうである。
56 狐塚 いつも狐がいたので、つけられた。嫁さんの姿で出たそうだ。今でも朝早く通ると見かけることがある。
58 荒谷 水が少なくい米が取れなかったのでこの名が付けられた。作り手がなかったそうである。
64 志保 現在、武生市のゴミ焼却炉のある所で、坂口へ抜ける道がある。志保唐と同じ地つづきで、坂口村の勾当ヶ原に塩辛があり、勝蓮花にも塩柄がある。浜の方から塩を売りに来た街道であっためそのような名が付けられたと思われる。
66 小滝 丸岡と勝蓮花との中程にあり、小さい滝で昔その水上で人を斬った刃を洗ったので、この滝の水を飲むと腹が痛くなるとている。
68 長尾 昔の氏神様の社の跡。
69 高場 福井丸岡城の出城があって物見台があっのではないだろうか。
71 草落(深山) この上は金華山になり、このお山に神様がおられたそうな。そのお使いが上ったり下りたりした。その道は険しく岩石であった。今でも七、八尺程の巾の道があり、美しい水が流れている。水の中の岩に馬のひづめの跡と杖の跡が残っている。
73 天井 高いためそうよばれた。
74 小田梨 小さい田が多く、昔は梨の木でもあったのだろうか。
76 鳥置平(トットキ平) 殿様の狩が行なわれた所だといわれている。
80 深谷(池ノ平) 鎌倉時代の武将が鴨狩りをした所といわれ、今でも溜池やお堀の跡などあるという。
82 坂見谷 昔ここに、子供づれの狼がいたそうな。丸岡に体の大きな関取がいて、その狼の子を捕えて松の木につないで置いたという。心配そうにしている親狼を見て、かわいそうに思った旅人が縄を切ってやり助けたそうである。それからというものは、旅人が何処へ行っても無事に家へ着くまでは、安全を確かめ家まで送ったという。
旅人は、お前が送ってくれるのは有難いけど、他の人々がお前の姿をこわいというから、もう送ってくれるなといった。それからは、二度と狼の姿は見られなくなったという。
その後、関取が山へ薪を取りに行き、背負って帰ろうとしたところ、狼に喉をかまれて死んでいたという。
83 犬谷 きつねやてんなどの獣を追って犬が来るのでそういわれているらしい。
89 牛杉(黒川地籍) この地は日ノ向入口の西にある小さい谷間で、八畝歩程の小面積である。昔この地に杉の大木があり、牛馬の荷役の往来中ここで休けいし、その折牛馬をこの杉の木につないだ所なのでこの地名にしたといわれている。
115 寺屋敷(黒川地籍) いつの時代か不明であるが、この地にカンザン寺という天台宗の寺があったといわれている。その寺跡と思われるところから墓石や木片が出土している。また、この辺一帯は強粘土質で、明治中期より昭和の初期まで約五十年にわたり瓦の製造場があった所である。
万能華親王に関する地名
●丸岡の地名 マンノウカ親王が居られたので、マンノウカが訛ってマルオカとなったという。
●火ともし山 ここは見張所のあった所で、敵襲の際には柴を焚いてのろしを上げ、味方にしらせた所である。
●小屋見台 ここは浜へ通ずる道がよく見えるので、ここにも見張所があった。
●二畑 春秋二季にわたって穀物を作って、親王に献じた農場。
●林檎谷(谷山) 日当りの良い地なので林檎や果樹を植えた地。
●包み谷 穀物を隠し貯蔵した所。
●ひのき谷 峠から穀物の隠し場、即ち包み谷が見えるのでひの木を植した谷。
●高場 日当りのよい地で収穫した作物の乾燥場。
●鎌ヶ谷 親王が隠れ家を敵に襲われた時、火を焚く事が出来ないので、此地に釜を移して炊事をした場所。
三、いいつたえ
◇金華月山
奈良朝末期、光仁天皇の王子万能華親王が兵乱を避けて、従者と共に北陸の地に逃れ、隠れ家を丸岡の南、中山へ越す峠の堂津端と言う地に定め、追手や土賊の襲撃に備えて所々に見張りを設けて、身の安全を図った。この高い山が「君を隠し」た山などで、その後この山をなまって金華月と呼ぶようになったという。
◇古寺跡
昔、当地に延仁寺、カンサン寺、ほかにもう一か寺の三ヶ寺があった。
延仁寺は、万能華親王が父君の菩提を弔う為に建てられたもので、今の長谷の地にその跡があり、時時墓石が掘り出される。あとの二ヶ寺は延仁寺の下寺であったらしく残りの寺跡はわからない。
宗派は天台宗であったが、後に親鸞の子善鸞が福井へ来られた際に子弟となって真宗に変った。その後当寺は福井藩主に嫌われたので、本保領である清水山へ寺を移し、専伝寺と改称した。それで当区延仁寺壇家は清水山専伝寺壇徒となった。
◇神社山麓に移さる
越前の国主柴田勝家が地方巡視の時、乗馬で八町を通りかかった。その時何の障害もないのに落馬したので、不思議に思って従者に尋ねた。従者はおそるおそる「これより、おそらくはるか南にそびえ金華月山の山頂にある神様のお告げに『その神様山麓にお降し申せ』ということと拝察されます」と申し上げた。
勝家はその後、金華月山に神社のあることがわかったので村人に命じて山麓に降し、移させたという。
日の向開拓地
昭和二十年、十二名の引揚者や戦災者が、丸岡の山林8日ノ向2坂見谷にまたがる十五町歩を占める台地に入植開拓した。
この台地は県道武生街道に沿う北側約五〇米ほどの高い河岩段丘で、鬼が岳山系の南麓標高一五五メートルの高地である。
このへん一帯は酸性度の高い赤土粘土質で極めて痩地であるため熊笹の繁る雑木林であった。そのため農耕で生計をたてるにはたいへんな苦労があった。そのためか離農者が相次ぎ、今は四軒になり酷農と畑作を営んでいる。