以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。
二階堂(にかいどう)
天王川上流部の山千飯盆地一帯を見渡す西部山麓に位置する、近世の山千飯郷の中心的集落として発達した。
当区の小泉家は二階堂吉信の末裔と伝えられ、代☆吉の字を冠し吉右ェ門と称していた。二階堂という地名についても二階堂吉信という武将がこの地を治めていたところからこの名がついたといわれている。
小泉家は代々二階堂の庄屋を務め、造り酒屋であったが、その後花筵等の伝習所をつくり、地域の産業の振興に努めた。また、小泉家には真宗道場もあり、総社白山神社の神職なども務めた家で、総社白山神社古文書をはじめ多くの古文書がある。
明治二十九年頃先代小泉教太郎県会議員が武生1米ノ線の県道改修に奔走し、現在の武生米ノ線が出来た。
堀町に公立温故小学校が明治初期に建てられたが、白山地区の学校を合併するにあたり、二階堂の白山神社境内に白山尋常高等小学校として、明治三十五年頃に設置され、隣村の坂口村、城崎村の高等科の生徒もこの学校に通って来た。
明治四三年(一九一〇)現在の都辺地区に白山尋常高等小学校が移転し二階堂の学校は廃校になった。二階堂町の東方山千飯道の北側の丘に古墳があると伝えられており、その近くの山麓から昭和三十五年頃、和同元年(七〇八)に初鋳された和同開珎をはじめとする皇朝銭が出土した。
遺跡のうちこれらの銭貨を意図的に埋納したと判断される例は全国的には各地に発見するものの、福井県下では確実な例は極めて乏しく、今のところこの下の宮遺跡だけである。
この遺跡から和同開珎、万年通宝、神功開宝の三種、計二十五枚という県内最多の皇朝銭が発見された。これらを内蔵する須恵器の一つは平瓶という埋納器としては比較的まれな器種である。
偶然の結果出土したこの遺物は発見者山下禎一氏によって永らく保管されていたが、現在は福井県立博物館に寄託してある。
白山神社は山千飯盆地を見渡す丘にあって、山千飯四十八ヶ村の総社であった。
祭神は伊諾冊尊で、「白山神社縁起」によれば、百済王の娘自在女が尼となり海を渡り、干飯崎(現越前町米ノ浦)に上陸して二階堂の地に至り悪病を祈禱によって平癒させたため、その守り神を当地の産土神としたのが白山妙理大権現と伝えられている。
中世近世には白山大権現と称した。養老元年(七一七)泰澄の創建と伝えられ、七堂伽藍の大坊で社領七五町を有し、殿社が多数あったという。江戸時代まで本地伝として阿弥陀如来を安置し、元和二年(一六六一)以来、鯖江誠照寺末の真宗光坊が神職を兼帯していたが、文政四年(一八二一)神主小泉家と真宗道場とに分離した。(小泉家蔵白山神社文書)
祭日は旧歴四月初午日、六月十四日、八月初午日、十一月初午日である。
祭礼の御輿行列は榊を先頭に、猿田彦-白山宮大旗-祇園大旗-村々氏子旗-悪魔払-獅子神楽-若者御馳走-御膳米口庄屋-御輿-神主の順で、御輿かつぎは昔から米ノ浦の若衆で、額に一本角御獅子頭は千合谷の若者と定められていた。
その御輿も今は修繕不能ないたみようで御輿堂に保管されており、現在は氏子の方々から特殊寄付を募って小さな御輿をつくり、幼児、小学生がかつぎ、氏子若衆、氏子総代一名、各集落からの宮当番一名が子供御輿について氏子の家を廻っている。
現在は白山神社の祭礼は十月十日に決められている。御輿堂も古く、いたみもひどくなったので、昭和六十年に下の広場に新しく建てられ保管されている。
大正九年(一九二〇)に菖蒲谷の白山神社、杉本の大将軍将社、都辺の春日神社、萩原の八幡神社、堀の三柱神社、土山の神明神社、小谷の秋葉神社が合祀した。現在総社白山神社の氏子は、二階堂、堀、菖蒲谷、萩原の四集落が氏子で合計七〇戸位で維持している。
一、小字名
1 おくじゅうだん(奥十谷)
2 かみじゅうだん(上十谷)
3 なかじゅうだん(中十谷)
4 しもじゅうだん(下十谷)
5 じゅうだんまえ(十谷前)
6 はやしがたん(林ヶ谷)
7 ろんみようじだん(運明寺谷)
8 かみいなり(上稲荷)
9 うめきだん(梅木谷)
10 なかいなり(中稲荷)
11 しもいなり(下稲荷)
12 にしのたに(西の谷)
13 ぢぞうまえ(地蔵前)
14 おくしみだん(奥志美谷)
15 しみだん(志美谷)
16 はくさん(白山)
17 みやのした(宮の下)
18 がんざき(願崎)
19 つくだ(佃)
20 またん(間谷)
21 きつねくぼ(狐窪)
22 うえの(上野)
23 いなば(稲場)
24 だいみようじん(大明神)
25 じゅうだん(十谷)
36 なかめぐり(中巡)
27 おおいわ(大岩)
28 うえみや(上宮)
29 しものみや(下の宮)
30 じょうざん(城山)
31 うしがたん(牛ヶ谷)
32 かみうめきだん(上梅木谷)
33 おくんみようじだん(奥運明寺谷)
二、小字のはなし
1 奥十谷 二階堂地区では、一番大きく又長い谷で、一番奥にあるので付けられたのではないかといわれる。上、中、下、そして十谷前と、奥の方から五つの呼名で分けられている。昭和四十七年の耕地整理で、三米巾の農道が出来、自動車で中十谷まで行くことが出来、農作業が便利になった。昭和五十七年には林道がつけられ、山の麓まで自動車で行けるようになった。
6 林が谷 7運明寺谷 共に現在は森林になっている。
8 上稲荷 この小字より下の方に、昔、稲荷さんをお祀りしたお堂の跡が残っている。それより上の方にあるため、そうよばれたらしい。
9梅木谷 二階堂から若須へ通じる昔の山道があり、昔の人は荷物を背負って、二階堂を通って米ノ浦へ行ったという。現在も山道は残っている。若須にも同じ字名があるが、いわれは知られていない。
10 中稲荷 稲荷堂を中心に、そのあたりを付けられたと思われる。
11 下稲荷 稲荷堂から下の方を呼んだものと思われる。
12 西の谷 白山神社から西の方にあるためか、堀の南谷、中野の北谷と思いあわせるとうなづける。
13 地蔵前 大正の初期迄、お地蔵さんがお祀りしてあったため、そうよばれたらしい。現在は、白山神社の拝殿にお祀りしてある。七月二十四日、十月二十四日の年に二回各家々から、赤飯、おすし、おはぎ等を作りお供えする。又、妊娠している婦人の家では、赤白のお餅を作りお供えし、各家に分けられる。お詣りした人達にも配られ、残ったお供物は家族でいただき、皆で安産を祈願する。昔は男の人達もお詣りし、のぼりもたて、盛大だったようだが、現在は一家の主婦一人と、子供達だけで、店で買って来た菓子、くだものをお供えするようになり、昔のような手作りのお供えは少なくなった。
16 白山総社 白山神社伊佐那冊尊をお祀りしてある所である。白山大権現と称し、山千飯四十八ヶ村の総社で、神領七十五町歩を有し別当寺院もあった。養老元年(七一七)越の大徳、泰澄の開基と伝えられている。
17 宮の下 白山神社より下一辺を宮の下と呼んでいた。
18 願崎 白山神社の近くで、昔、神の遙拝所であった。
22 上野 白山神社より向側の、小高い丘に上野城跡があった場所といわれている。上野城とは美濃守土岐頼芸が一時居城したといわれている。
23 稲場 昔の人が稲を乾す場所として「はさ」をた稲を乾した所から稲場とよんだものと思われる。
27 大岩 谷の奥に大きな岩があり堀の大岩と地続きである。
三、いいつたえ
◇鍋が人をつかむはなし
二階堂の狐窪を通って中野の田楽坂へ出る道がある。昔この狐窪あたりに大きな柿の木があって枝が道の上にのびて薄気味が悪く、また、近くに二階堂の火葬場もあるため、夜ここを通ると、木の枝から鍋が下ってきて人をつかむといふ事から、今でもこの道を一人では通らなくなった。