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「山干飯 小字のはなし」 18 上黒川(かみくろかわ)下黒川(しもくろかわ)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

上黒川(かみくろかわ)下黒川(しもくろかわ)

現在は上黒川、下黒川の二つに分れているが、昭和初期までは黒川区と称しており、区長総代をおき、二年交代で上黒川、下黒川で選出していた。土地台帳地番は上黒川、下黒川を一括し通し番号となっている。

上黒川には、春日神社、乗秀寺、下黒川には八幡神社、敬覚寺がある。乗秀寺、敬覚寺は共に西本願寺派で、敬覚寺は元和年間(一六一五~二四)寺号を許された。

明治六年十一月、敬覚寺に守真(しゅんしん)学校が開校されたが、それ以前に現在の下辻氏宅(小字大田)あたりに寺子屋があり、読み、書き、そろばんを習ったと言われている。

明治十九年に下由原に軍思小学校が、都辺、上杉本、曽原、粟野、小杉、牧、若須、中野、萩原、黒川の児童を対象に設けられた。

一、小字名

1 ゆきどおり(行通)

2 あざみたん(薊谷)

3 くちさんだ(口三田)

4 もろやま(モロ山)

5 なかやじろめ(中八代目)

6 おくさんでん(奥三田)

7 くちつきがさ(口月笠)

8 おくつきがさ(奥月笠)

9 ぐちやじろめ(口八代目)

10 おくやじろめ(奥八代目)

11 さかのした(坂ノ下)

12 くちまたん(ロ俣谷)

13 おくまたん(奥俣谷)

14 とりげたん(鳥毛谷)

15 すぎのたん(杉ノ谷)

16 ひのつめ(樋ノ詰)

17 うしろかど(後門)

18 たけのつめ(竹ノ詰)

19 おおみがいち(近江垣内)

20 あかさか(赤坂)

21 のどくぼ(喉窪)

22 じようがたん(城ヶ谷)

23 かまのふち(鎌之渕)

24 じんでん(甚田)

25 どうのたん(堂ノ谷)

26 つきだ(月田)

27 にしはざま(西狭間)

28 ひがしはざま(東狭間)

29 しもひがしで(下東出)

30 おくで(奥出)

31 おくしようぶつだん(奥正仏谷)

32 しようぶつだん(正仏谷)

33 ひがしじり(西尻)

35 しもにしで(下西出)

36 かみにしで(上西出)

37 だいざ(大田)

38 しもよしはら(下由原)

39 かみよしはら(上田原)

40 どうのした(堂ノ下)

41 はかんたん(墓ノ谷)

42 みようきんたん(妙金谷)

43 かんじょう(勘定)

44 さくらまち(桜町)

45 かまやたん(鎌屋谷)

46 しもかめたん(下竈谷)

以上下黒川

47 ひらばやし(平林)

48 こうぜん(光善)

49 こたん(小谷)

50 たかぎ(高木)

51 もりのした(森の下)

52 ゆどだん(湯戸谷)

53 てらんたん(寺之谷)

54 ほそだ(細田)

55 しいり(尻)

56 とくざね(得実)

57 おくだ(奥田)

58 おくやま(奥山)

59 たにのおく(谷之奥)

60 ひがしで(東出)

61 さんだんだ(三反田)

62 むかいいなば(向稲場)

63 なかはた(中畑)

64 ろくしかだん(ロクシカ谷)

65 みづきがはな(水木ヶ塙)

66 おおたに(大谷)

67 いものたん(芋之谷)

68 もりなが(森永)

69 くぼた(久保田)

70 ながお(長尾)

71 きただん(北谷)

72 とちのきだん(栃木谷)

73 むながたん(六名ヶ谷)

74 きたのまえ(北ノ前)

75 かどさき(門前)

76 とうげ(峠)

77 まつのきだん(松木谷)

78 かまがたん(鎌ヶ谷)

79 かみ(上)

80 じんでの(甚出野)

81 すがはな(菅塙)

82 まごやま(孫山)

83 いたのたん(板之谷)

84 かやお(萓尾)

85 こだけ(小嶽)

86 とりげ(鳥毛)

87 こだけうしろ(小嶽後)

88 いぬのたん(犬ノ谷)

89 うしぎ

90 さかのしり(坂之尻)

91 さかのわき(坂ノ脇)

92 つつみがたん(堤ヶ谷)

93 てらやしき(寺屋敷)

94 なしのきだん(梨木谷)

95 かのさ(鹿之佐)

以上上黒川

山林(下黒川)

96 ひがしあざみだん(東薊谷)

97 ひがしつきがさ(東月笠)

98 こやがだん(小屋ヶ谷)

99 ねごやたん(寝小屋谷)

100 ひがしとりがたん(東鳥ヶ谷)

101 おくで(奥出)

102 みようきんたん(妙金谷)

119 みなみよしはら(南由原)

120 あいのきだん(相ノ木谷)

121 にしじようがたん(西城ヶ谷)

122 にしゆきどおり(西行通)

山林(上黒川)

103 なかはた(中畑)

104 もりなが(森永)

105 きただん(北谷)

106 まつのきだん(松ノ木谷)

107 よこがだけ(横ヶ嶽)

108 とうげ(峠)

109 こだけうしろ(小獄後)

110 いぬのたん(犬ノ谷)

111 さかのわき(坂ノ脇)

112 とりげ(鳥毛)

113 みなみたんおく(南谷奥)

114 にしさかじり(西坂尻)

115 てらやしき(寺屋敷)

116 かのさ(鹿ノ佐)

117 おくのうえ(奥上)

118 こうぜん(光善)

二、小字のはなし(下黒川)

1 行通 安養寺に通じており黒川の一番北にある。

2 薊谷 薊谷の一部にかくれ畑と言う地名が残っており、その昔、年貢の取りたてがきびしかった頃、お上に内緒の畑を耕し飢えをしのいだと伝えられているが、一説では敵が攻めて来るのをこの地にかくれていてつかまえ、喉窪の地で喉をしめて殺したとも伝えられている。

15 杉ノ谷 杉ノ谷の一部に蛇谷(じゃだん)と言う地名がある。水が多くきれいで、昔、大蛇がいたと言われる。今はただの蛇が多く棲んでいる。

20 赤坂 赤土の土地で、昔は作物があまりとれなかったそうである。

21 喉窪 薊谷のところと関係が深い土地である。

22 城ヶ谷 昔、お城があったと伝えられている。近くの山に塩千杯、うるし千杯を埋め、白つづじを植えたと伝えられ、その山が前野氏所有の山で、先代が数人の人と探したが見当らなかったそうである。

2 5堂ノ谷 昔、お寺があったと伝えられている。数年前まで下黒川の火葬場であった。

41 墓ノ谷 村の墓原であったそうである。

32 正仏谷 敬覚寺のあるところで、その奥が奥正仏谷。

33 東尻 用水路の下に当る。現在生活改善センターがあるが、以前はここに米を集荷する村の倉庫があった。

34 西尻東尻の北西に位置する。

29 下東出 下西出に対する川むこう東側の山べたを言う。

86 鳥毛 112鳥毛 現在でも人家近くまでつぐみがとんでくる。

三、いいつたえ

◇妙金谷と鍛冶屋敷

文化十二年(一八一五)刊の越前名蹟考に、黒川村上下二ヶ村に分居、下黒川朶鍛冶屋敷とあるが、現在の下黒川にはその名はない。今の堂の下と言われるところを、昔の人は鍛冶屋垣内と言っていた。

語り伝えとして、小字妙金谷地籍は下黒川地籍のはずれで、現在の中村氏宅の上の山の方に位置し、その平地に昔鍛冶屋が四、五軒あり、栄えたという。明治以前この地のかじやは、白山でも古いのかじの集団であったようだ。

現在は畑になっており、柿の木が多く植えられている。(明治以後、そこより一谷離れた奥出地籍にのかじが二軒ばかりあったのを覚えている人がいる)

二、小字のはなし(上黒川)

47 平林 黒川の入口に位置し、山すその平な雑木林であったためこの名がついていた。今は田畑になっている。

52 湯戸谷 春日神社の西側に位置し、浅い谷であるが豊富な水が出るところからこの名がついたらしく、雪どけも早かった。

53 寺之谷 お宮さんの東の谷、もともと敬覚寺の山があったためにこの名がついた。

54 細田 今は的場(まとば)とよばれている。昔は弓のけいこをした所で、また、ここに牢屋があった。五輪の塔も出てきている。黒川では一番いい田があるところである。

55 尻(しいり) 道の下の方にあるからこのように言われ、今は宅地が一番多い。

56 得実 上黒川の乗秀寺の付近を言う。

57 奥田 在所の奥にある田。

58 奥山 在所の奥にある山。

5 9谷の奥 谷の奥にある。

60 東出 在所の東の方に出っぱっているところからこのように名づけられたらしい。

61 三反田 面積の広さから大きい田の総称で実際はもっと大きい。

62 向稲場 南向きの日当りの良いところで、段々に稲架が作られ、稲はもちろんのこと昔この地の特産であった麻、いぐさもかけ干されていた。

63 中畑 在所のまんなかにある畑。

65 水木ヶ塙 昔から水の豊富なところであった。

66 大谷 大きい谷であったが、今は森永ダムで水没

67 芋之谷 この谷も水没した。

68 森永 森として大きいこの谷を総称していい、谷の口の方にあり、この奥に芋之谷、大谷がある。70長尾山の尾が長いのでこの名がついた。

72 栃木谷 昔、栃の木がたくさんあったらしい。後にツグミ山があり、尾根より猟師が安養寺の譲葉よりこの谷へ水を汲みにおりた道があったが、今は入山する人もなく荒れてしまった。

74 北ノ前 北谷の前にある。

76 峠 松ノ木谷をへて安養寺、また日ノ向へ行く道に通じていた。黒川川の源流はこの峠から出ており、小杉で天王川に合流している。溜池がある。

77 松木谷 やせ地で松の木がたくさんあるところ。昔から黒川松といって、ヤニが出ないことから珍重がられ、今でも家屋の建築に使用され有名である。

安養寺譲葉-松ノ木谷-峠これは昔から、安養寺へ通ずる道であったが、急な道であったのでここに広域農道を通すためトンネルをほり、昭和六十一年五月十日貫通式が行なわれ、縁起のいい譲葉トンネルと名付けられた。

78 鎌ヶ谷 昔、谷に窯場があり、瓦や瓶がつくられ昔はこの窯を書いていたのではなかろうか)

また、小銭(一二〇〇年前のもの)が二、三〇枚出て来て今も保存されている。このことから職人がここに住んでいたものと推察される。

79 上 在所の上の方に位置している。

80 甚出野 田の中の出っぱった畑。今は耕地整理して大きいになっている。

81 菅塙 三つの川が合流している沼地で菅が多く茂り使いものにならなかった土地。

84 萱尾 萱が多く茂り、萱刈り場であった。

85 小嶽 鬼ヶ嶽、横ヶ嶽の続きにある山。

90 坂之尻 昔沓掛へぬける道で、沓かけ坂といった。近くに、9坂の脇の小字もある。

93 寺屋敷 三〇〇年前鹿佐寺という寺があったが、その後どこへ移ったかわからない。今、乗秀寺の山がある。

三、いいつたえ

◇黒川について

昔から、「嫁にやるなら黒川村へ、高は千石、寺二ヶ寺」と言われたほど昔は遊びがなかったので、寺詣りが唯一の娯楽であり、お米はたくさんとれるし、遊び場もあり、たいへん良いところと言われていた。

また、小曽原の金刀比羅さまへおまいりするとき、今庄方面から来る人もこの字を通って行かれたとのこと。

◇上黒川副碑の由来

これは昭和三年白山小学校前の台地に忠魂碑の副碑(戦死者の名前が書いてある)として建立されたものである。終戦後、小学校校庭の土手の中に埋められていたが、昭和四十二年県道路改良工事施工中、前野工務店(代表者前野栄松氏)が掘り出して、昭和四十五年五月に出身地上黒川のバス停前に、(地籍光善)建て直したものである。毎年旧盆には、黒川町乗秀寺の住職をお招きして供養されている。

◇一人で歩けぬ道

上黒川へ入る道は繁っていて、おそろしいところなので、ある人が夜同じ道を何回もそこで往きかえりして朝になったとか、また、多くの人があぶらげを取られたりするので、この道を通る時は一人では歩かなかった。

◇森永ダム

昔から上黒川は水のないところで、土地改良(昭和五十七年)と共に大谷、芋之谷、森永を埋めダムを作った。このあたり一帯を森永と呼んでいたので森永ダムと名付けられた。潅漑用に使用されている。

「山干飯 小字のはなし」 19 安養寺(あんようじ)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

安養寺(あんようじ)

鬼ヶ岳の西北の麓、天王川の一支流、国成川(くんなりがわ)の上流に位置する小盆地に安養寺がある。東は鬼ヶ岳下のトンネルをぬけて武生市大虫地区と、西は曽原、粟野、小杉、南は黒川、勝蓮花、小野、北は宮崎村、小曽原、樫津に隣接している。安養寺は、戸数は百五十戸近くあり、白山地区第一の大集落である。中央部には、浄土真宗本願寺派の専応寺(通称しもんてら)、その東方に真宗大谷派の養徳寺(通称かみんてら)、北部の光明山の麓には白山神社がある。その他、郵便局、農協の出張所及び倉庫、白山小学校第一分校、保育所、生活改善センター等も設けられている。また、集団栽培センター、白山精工(眼鏡関係)、坂下織物(西陣織)、白産木工、武生土コン、山内工業所、安養寺アセテート、佐野製材、加藤縫製工場等働く場所も多い。さらに村田製作所のある小曽原地区にも隣接しているため、経済的な潤いもあるのだろうか、地元に分家して残る青年も多く、戸数も若干ではあるが増加の傾向をたどっている。また、最近集落北部のなだらかな山地を利用して、「太陽の広場」や「開拓キャンプ村」が新設され、明るい話題を提供している。また、二十年計画とかで全部の完成までには、まだ程遠いが、その一部のソーラーシステム(太陽熱利用)の薬草風呂やゲートボール場などは、すでに区民の利用度も高く、いこいの場、社交の場としての役割を果している。

昭和四十六年には耕地整理も完成し、農業の大型機械化、集団化も進んでいる。耕地整理以前は、天王川の最上流ということもあり、水不足で特に農業用水は集落の周辺に散在する大小八十余箇所の溜池で補っていた。そういう事から過去には水争いなどもあったようだが、現在では狐谷(きつねだん)、坂の谷(さかんたん)、池の谷(いけんたん)、馬留(うまっとめ)の四つの溜池が、水面の標高がほぼ同じなのを利用し、耕地整理と同時にパイプライ工事も行ない、圃場給水が行なわれるようになった。また、それは消火栓としても利用され、水不足からくる多くの難問を一度に解消した。

学校の変遷をみると、まず廃藩置県が断行されたその翌年の明治五年に、地区の子供達を対象とした「涵養小学校」が専応寺境内に開校された。明治三十六年には、それより百五十米程西側の三昧腰(さんまいごし)と呼ばれる地籍に新築移転した。明治四十三年には白山小学校第一分教場となり、現在の大野(おおの)地籍にある校舎は、昭和三十九年に新築されたもので、分校としては県内一、二の規模を誇っている。この分校には現在、安養寺をはじめ曽原、鴉ヶ平の四年生までの児童が通学している。社会福祉法人安養寺保育所の起源は、昭和三十五年にさかのぼる。働く婦人の要望と、専応寺住職の理解で、春、秋二回の農繁期に約一ヶ月づつ、御堂を解放しての季節託児所がその発端である。ちょうどその頃、白山村は武生市に合併し、市からの若干の援助を、子供のおやつや遊具にあてての苦しい出発であった。しかし、昭和三十九年に分校が新築移転したのを機に、二階建ての校舎を平屋に改築し、ここに移転して法人化した。しかし、二十年後の昭和五十九年には、建物の老朽化が著しいので、西出(にしで)地籍に鉄筋コンクリート平屋建ての新施設を建造し移転した。現在、生後六ヶ月から学齢児までの約六十名の子供を預り、九名の職員が懸命の保育にたずさわっている。白山地区唯一の保育所とあって、安養寺のみならず白山全域より入所希望者がある。

安養寺には浄土真宗のお寺が二ヶ寺あり、当区に住む人は必ずこの両寺のいずれかの門徒に所属しなければならないというしきたりがある。そのせいか信仰心に篤い人々が多く、仏事も一年を通じかなり多い。一月一日には、老若男女安養寺のほとんどすべての人が、この両寺の住職と年頭の挨拶をかわし、一年の出発としている。また、一月中に各垣内(かいち)ごとに、必ず和讃講(わさんこう)がつとまる。宿は各家を順番に回り、午前中は垣内の話題やよもやま話に花を咲かせ、主婦達の準備した精進料理で昼食をとる。午後は宿の所属するお寺の住職に来てもらって、全員で正信偈を拝読し、法話を聞く。近年夜は魚屋から料理をとり、垣内の盛大な新年会を行なっており、地域の親睦友交を図っている。二月には永代経がつとまり、三月には春の彼岸会が一週間続く。五月には地区の戦没者追弔会があり、七月には門信徒の家で河南十三日講がつとまる。八月には墓参りや盆会、永代経、九月には一週間秋の彼岸会、十月、十一月には両寺の報恩講が行なわれ、十二月には御正忌報恩講がつとまる。また、毎月の行事としても、親鸞聖人の御命日法要や仏教婦人会(毎月十日)、若者を中心としたお経の練習会などがある。毎月十一日には専応寺の庫裡にて「御相続」と呼ばれる念仏三昧のお講も営まれ、多くの篤信家が法悦にひたっている。

「安養寺」という地名の由来を訪ねてみると、地区の南方向出(むかいで)地籍にその起源があるようだ。この垣内に「御堂屋敷(おんどやしき)」という字名が今でも残っている。この地はいい伝えによると、福井の足羽山の北の麓にある安養寺(浄土宗の寺で、もと朝倉敏景が一乗谷に創建したが、天正三年現在地に移転した。)の老僧が、ここに草庵を建てて隠居していたようだ。それが朝倉氏滅亡の時その一族朝倉大進土佐坊がこの地に逃がれてきたので、草庵の老僧は福井へ戻ったという。地名はそんな所に由来しているのだろうが、この地は四方を山に囲まれた盆地であるため、隠棲するには格好の地であったのかもしれない。

安養寺の地区内を細かく分類すると、十二の垣内からなっている。上出(かみで=武生へのトンネルに近い所)、南空出(みなみそらで)、北空出(きたそらで)=養徳寺より東側一帯)、西出(にしで=専応寺を中心とした所で「村中」とも呼ぶ)、茶屋出(ちゃやで=白山神社の周辺)、西三昧腰(にしさんまいごし)、東三昧腰(ひがしさんまいごし=生活改善センター付近)、北向出(きたむかいで)、南向出(みなみむかいで=国成川を境にして南側一帯)、東郷城(ひがしごうじろ)、西郷城(にしごうじろ=小曽原よりの所)、大野(おおの=安養寺分校の周辺)の十二班で運営されている。昔は、上出、茶屋出、向出など盆地周辺の山裾に人家があったようだが、人口の増加につれて中央部へ進出したという。しかし、近年は郷城、大野垣内への進出が著しい。

一、小字名

1 おくふくせんだん(奥福仙谷)

2 わりだん(割谷)

3 おくよもだん(奥与茂谷)

4 くちよもだん(ロ与茂谷)

5 おしろさかした(後坂下)

6 おおしろやま(大後山)

7 しもうしろやま(下後山)

8 にしろしろやま(西後山)

9 くちふくせんだん(口福仙谷)

10 そとふくせんだん(外福仙谷)

11 しもこしろやま(下小後山)

12 からとぶち(唐戸渕)

13 なかこしろやま(中小後山)

14 かみこしろやま(上小後山)

15 さかのした(坂ノ下)

16 おくさかのたに(奥坂谷)

17 こがたに(小ヶ谷)

18 ろくろだん(六呂谷)

19 きつねだん(狐谷)

20 あしはらだん(芦原谷)

21 おおみなくち(大水口)

22 くちさかのたん(口坂ノ谷)

23 きたさか(北坂)

24 さかのこし(坂ノ腰)

25 うしろ(後)

26 だん(段)

27 あしおだ(足尾田)

28 かみだいもん(上大門)

29 しもだいもん(下大門)

30 なかだいもん(中大門)

31 かまぐち(鎌口)

32 ひがしぼうのく(東坊奥)

33 どうのうしろ(堂の後)

34 ぼうのおく(坊の奥)

35 みやのした(宮ノ下)

36 どうやま(堂山)

37 さくだ(作田)

38 ごうじろ(郷城)

39 じゃだん(蛇谷)

40 とりのこし=とりごえ(鳥越)

41 かみでん(神子田)

42 しもかしお(下樫尾)

43 なかかしお(中樫尾)

44 かみかしお(上樫尾)

45 むかいかしお(向樫尾)

46 ななおだん(七尾谷)

47 ひがしひなた(東日向)

48 にしひなた(西日向)

49 かみさんたんだ(上三反田)

50 えむかい(江向)

51 しもさんだんた(下三反田)

52 やなぎだ(柳田)

53 ゆげんだ(遊見田)

54 なかの(中野)

55 しもにしの(下西野)

56 なかにしの(中西野)

57 かみにしの(上西野)

58 しもおおの(下大野)

59 さわ(沢)

60 なかじゅうろくでん(中十六田)

61 しもじゅうろくでん(下十六田)

62 たけがたん(竹谷)

63 かみあざみだん(上蒐谷)

64 おくはってん(奥八田)

65 くちはってん(口八田)

66 しもあざみだん(下蒐谷)

67 なかあざみだん(中蒐谷)

68 げだん(揚谷)

69 いぬあな=いぬげ(犬穴)

70 やまいぬがあな(山犬ヶ穴)

71 うまっとめ=うまどめ(馬留)

72 とうろうでん(灯籠田)

73 うまどめぐち(馬留口)

74 やきやま(焼山)

75 かみじゅうろくでん(上十六田)

76 ふくろこだん(梟子谷)

77 ふくろこだんぐち(梟子谷口)

78 ずく(頭空)

79 おおの(大野)

80 けのした(崖ノ下)

81 はざま(狭間)

82 さるはし(猿林)

83 こしろした(小城下)

84 さんまいごし(三昧腰)

85 しもつるの(下鶴野)

86 かみつるの(上鶴野)

87 てらまえ(寺前)

88 むらなか(村中)

89 みやみなみ(宮南)、またはみやまえ(宮前)

90 しもじま(下嶋)

91 あいのかいち(相垣内)

92 ひがしまえだ(東前田)

93 うえじま(上嶋)

94 ほりのうえ(堀ノ上)

95 ひらばやし(平林)

96 かきのはら(柿原)

97 くちいけのたん(ロ池ノ谷)

98 ももきだん(桃木谷)

99 まきやま(真木山)

100 おくいけのたん(奥池ノ谷)

101 きたむしだん(北虫谷)

102 うえさか(上坂)

103 なかさか(中坂)

104 てんじんいなば(天神稲葉)

105 しもさか(下坂)

106 おくやま(奥山)

107 みずかみ(水上)

108 やち(屋地)

109 たなた(棚田)

110 かみかもがわ(上鴨川)

111 ひがしなわて(東畷)

112 そらでかいち(空出垣内)

113 くらまえ(蔵前)

114 にしなわて(西綴)

115 しもかもがわ(下鴨川)

116 むかいやま(向山)

117 むかいの(向野)

118 ひでのき(秀ノ木)

119 くわばら(桑原)

120 おくのたん(奥ノ谷)

121 たきがたん(滝ヶ谷)

122 にじゅうでん(二十田)

123 のだ(野田)

124 かわらだ(河原田)

125 くちにしまだん(口西間谷)

126 かざおり(風折)

127 なかにしまだん(中西間谷)

128 おくにしまたん(奥西間谷)

129 やせだ(痩田)

130 くちかま(口釜)

131 ながお(長尾)

132 すけがたんぐち(助ヶ谷口)

133 すけがたん(助ヶ谷)

134 おおみねぐち(大峰口)

135 おおみね(大峰)

136 ゆずりはぐち(譲葉口)

137 ゆずりは(譲葉)

138 まつがたん(松ヶ谷)

139 じようがたん(城ヶ谷)

山林

140 ひなた(日向)

141 おくじゃだん(奥蛇谷)

142 こうしろ(小後)

143 おおうしろ(大後)

144 さかのうしろ(坂ノ後)

145 さかのたん(坂ノ谷)

146 おくきつねだん(奥狐谷)

147 おくきたむしだん(奥北虫谷)

148 おくみずかみ(奥水上)

149 おおかま(大鎌)

150 おくおおみね(奥大峰)

151 おくじようがだん(奥城ヶ谷)

152 ながおみね(長尾峰)

153 にしまた(西亦)

154 みなみおくのたん(南奥ノ谷)

155 おくうまとめ(奥馬止)

156 ゆきどおり(行通)

157 なかのはってん(中ノ八田)

二、小字のはなし

1 奥福仙谷 2割谷 3奥与茂谷 4口与茂谷 これらの地は現在太陽の広場として、キャンプ場や太陽熱利用の入浴場になっており、また、現在造成中の芝生広場になっている。これらの小字名は地権者の名や屋号を命名したらしい。当区にはその名は見あたらないが、宮崎村住民の所有となっている。

6 大後山 7下後山 8 西後山 11 下小後山 13 中後山 14 上小後 25 後 142 小後 143 大後 
白山神社神域の光明山の後方(北東)に位置している。福井県農協研修会館が、小後に建設されている。

12 唐戸渕 ここで国成川が急カーブしており、宮崎村の国成の方へまがり渕をなしている。川を渡ると宮崎村小曽原となる。

15坂ノ下 16 奥坂ノ谷 22 口坂ノ谷 23 北坂 24坂ノ腰 144 坂ノ後 145 坂ノ谷 この字は集落の北東に位置し、山の尾根を越えて宮崎村舟場、樫津に通ずる道路で、古老の話では三国港に揚げられた魚粕肥料、建築資料等を運ぶ唯一の運搬道で栄えていたため付近の字名に坂をつけたらしい。みどりの村の長期計画によると、馬で登る万里の長城を造るとか。

18 六呂谷 当区は昔から陶土が出、窯業が盛んだったので焼物をするろくろにちなんだ名ではなかろうかという。

19 狐谷 146 奥狐谷 現在のトンネルを境にして、安養寺側を言い、トンネルの開通していなかった頃は狐がたくさん出没したと言う。ここに大きな溜池があり、自動車に乗った人が運転をあやまり、車もろともこの溜に落ち、水死した事故があり、遺族の人がほとりに地蔵堂を建てた。しかし、道路改修でもとの位置より少し登ったカーブの処に移された。

20 芦原谷 葦が群生していた。今も一部にその名残りがある。

21 大水口 文字通り安養寺の大水口である。耕地整理前は炭酸水がでるといわれ、気味悪い位真青な水だった。

28 上大門 29 下大門 30 中大門 32 東坊奥 33 堂ノ後 34 坊ノ奥 35 宮ノ下 36 堂ノ山 41 神子田 89 宮南 昔、津島さまという役人が、村の東北の丘陵地に館を構え、付近一帯の村々を治めていた。地方巡回の暇をみて武道にはげみ、特に弓道に秀いで神域光明山より放った矢が遠く厨城(現在の越前町)まで届いたという。この辺一帯にその館跡や、おせん、馬場、大門の字名がある。また、白山神社の東方に華相院という地名があるが、ここは昔、真言宗だったが後に、浄土宗に変ったという華相院という大きな寺院があったところから名付けられたという。その下寺も字名に見る如く、「坊」として数寺あったらしい。大正十一年、光明山頂の経塚から壺や鏡、刀等(市文化財として味真野資料館に陳列)発掘されたが、鎌倉時代の寺とすれば上記字名の如く寺院を中心とした集落の繁栄の歴史がわかる。しかし、新田義貞が斯波高経の居城府中善光寺を攻略し、さらにその子義将の居城厨城を攻略の際、焼き亡ぼされたということだ。

38 郷城 垣内は安養寺でも宮崎村の小曽原よりになるが、陶土の豊富なところで昔から、土管屋、碗屋、瓦屋などがあった。村ばなに地蔵堂があるが、何時からあったのかわからないが、村人は常八の地蔵さんといっているので、当区の山下常八家と関係があるのかも。

39 蛇谷 狭田が蛇行している。

40 鳥越 安養寺から小曽原へ通ずる坂道(今は利用されていない)で鳥越坂とも言い、秋になるとつむぎ等が群をなして越えていった。

47 東日向 48西日向 140 日向 日向は小曽原との山の南面でひなただからだろうか、その裾にある田の東の方を東日向、西の方を西日向と言い、西日向は曽原の早干に接している。東日向の山ぞいにさんまいがあるが今は使われていない。

50 江向 山ぞいにある江すじのむかい側にあたる。曽原の上深田へ続く。

53 遊見田 春先など一帯の田の面にかげろうが見えた。大正末期、終戦後暖い湯が出るのではないかと何回かさく井もされた。現在の鴉ヶ平の朽木氏宅の豚舎の下の方にあたる。

54 中野 55下西野 56中西野 57上西野 58下大野 59大野 このあたり一帯は安養寺でも平地であり、もとは畑も多くあったが、耕地整理で田となった。しかし、現在は宅地化も進んでいる。

59 沢 現在の第一分校の南側を言い、耕地整理前は桑畑であった。この桑畑の端に大きな茶株があって、その下から清水がこんこんと湧き出ていてどんな日照りが続いてもかれることがなく、畑作業の一服時のオアシスだった。

60 中十六田 61下十六田 これらの田は、64 奥八田 65 口八田の田と背中あわせの位置にあり、これは単なる語呂あわせだろうが、”八田と八田とあわせて十六田”などと言いはやされた。位置を覚えるのにはいいかもしれない。

黒川へ通ずるくろさかの登り口の中十六田には大きな溜があった。

63 上蒐谷 66下蒐谷 67中蒐谷 蒐が群生していた地帯で鷺草も育っていた湿地帯。下黒川の行通・蘇谷へ通ずる。山道を右に入ると小杉の集落となる。このあたり一帯は深田が多く、田の中に埋められた丸太の上を歩いて農作業をするのだが、足をふみはずすと大変で、あがるのに一苦労だった。田圃の中に笠が落ちているのでひっぱったら肩までしずんだ人の顔があった。そんないい伝えもある位である。

71 馬留 73馬留口 165奥馬留 その附近から道が急で悪かったので馬を留めておいた。

7 8頭空 高台で前方には野が広がっていた。

81 崖ノ下 現在の白山精工の前あたりで崖になっており、昔は杉ノ木がはえていて薄暗かったので、馬の屍体や、お産の汚物なども棄てられた。別名馬落しとも言われていた。

82 猿林 今は耕地整理で明るくなったが、奥馬留の山に接したこの地は、昔はうっそうとした所もあって猿がよく出たものである。国成川も昔は猿林川と言ったが、河川改修をした際どういうわけか国成川となった。宮崎村の国成で天王川と合流するからだろうか。

84 三昧腰 墓らがあり、昔は火葬せずここに埋葬したという。さんまいのそばの煮か。

寺前 村中の前方、専応寺の前だったからだろう。

88 村中 村の中心で専応寺がある。

97 口池ノ谷 100奥池ノ谷 奥池ノ谷に溜がある。上坂中坂下坂この字は集落東方に位置し、トンネル(明治三十年に開通した)のなかった頃は、二百五十米程の山をつづら折りに登り、大虫へ、府中へと通ずる大街道であった。古老の言によれば、旧俵(四斗六升)の米を背負って町へ出たという。明治初年頃の道路補修のための部落人夫出場出面表も残っている。前記の北坂以上に利用された。今、トンネルロに安置されている地蔵堂も、もとは上坂街道の脇にあり、武生方面へ用事に行く部落民の守り地蔵であったが、道路が改修されたのを機に、小曽原の住人で牛方としてよくこの道路を利用していた「しもいんきよ」家の人が現在地に移築した。

104 天神稲場 集落の東方に位置し、昔は稲架場に利用されていた。また、天神様の小さな堂があったらしいが、今はない。

107 水上 148 奥水上 安養寺ではここからでる水が一番太い。鬼ヶ岳の方を見ると、陶石をとったあとがみえる所である。

110 上鴨川 115 下鴨川 川の淀みに鴨がたくさん住んでいたということだ。

124 河原田 一帯が河原であったから耕地整理の時、二米程の磐下は互礫の層が続いていた。神代杉もたくさん出てきた。

126 風折 安養寺を南北に通ずる台風の通過道に当り、ジェーン台風襲来の際、七、八尺の大木がねじ折れた。

129 瘦田 砂地で秋落地帯。

136 譲葉口 137譲葉 ここを経て上黒川の松ノ木谷へ通ずる。この道に大体そって白山が一周できる農免道路が近く完成する。

139 城ヶ谷 151奥城ヶ谷 集落の東南に位置し、標高四百三十米程の頂上には、NHK中継所があり、白山、坂口、武生、宮崎、織田、鯖江が見え、空気の澄んだ日は遠く福井方面の山々も望まれる。山の裏側は勝蓮花、小野地籍に続いている。山の中腹は棚になっており、大きな石がころがっていて、砦跡を思わせる。頂上は展望がきくので見張所であったのではないかと思われる。棚を横たいに東へ行くと谷川があり、古老の言では流し場と言っている。近くの谷に屍谷の地名も残っている。

141 奥蛇谷 光明山北側の山麓で、中世の窯跡があり、須恵器窯が三基あったが採土により破壊され今はない。

谷一つへだてて宮崎村小曽原の金刀比羅山がある。金刀比羅山の南西の麓にある曽原でも窯跡のあったことが確認されている。古くからこのあたり一帯は、土と共に住む人々とあった地域のようである。

三、いいつたえ

◇くろさか

安養寺から十六田と灯籠田の間の道を黒川の行通へ出るのに通る坂道で、現在は再度の改修で道が高くなったが、昔は安養寺側の道は低く急な坂で、両側の山の木がおいかぶさり、昼なお暗いといった感じだったので、くらい坂の暗坂(くろさか)とよばれたのだろうと言う。この坂のあがりとに、昔から地蔵さんがあった。近年、西田家の地蔵さんといっしょにもとの位置より上ったところに安置され、御堂も大きく新築された。

(坂の中程にあるコンクリートの地蔵堂は事故でなくなった人の家族がその供養に建てられたものである。)

◇大野の地蔵さん

昔から大野に地蔵さんがあったが、今は道路の改修で位置が変った。原かんじゃ家の左手にある古い地蔵さんがそれである。また、その近くの曽原方面と黒川方面へ分れる三角点のそばにある地蔵堂は、弘法さんの地蔵さんとよばれ、弘法さんを祀ってある。この地蔵堂は、平林勘六でやの先々代の人が家で祀っていたのを、四十年程前、お堂を建てここに安置したという。ここは少し坂になっていて、ある家の人が干せた稲を大八車に積んで子供に先びきさせて下りにかかったところ、子供がころびその上を車がすべりおちたが、体にわだちの跡がついただけでけががなかったという事だ。これも弘法さんのおかげと地元の信仰を集めている。

◇弘法大師

安養寺の中央部を東西に横切る一本の川があり、名前も国成川とか鴨川とか色々あるようであるがさして名前を呼ぶ程の川でもない。

その川が流れる西出垣内に、「揚げ石」という屋号の家(山崎家)があり、ちょっとした話がある。「昔、用水に大きな石があってどうしても水が入らない田があった。そこでこの家の先祖がこの石を掘り揚げて田に水が入るようにした。それからこの辺の人々はその家を「揚げ石さん」と呼ぶようになっと言う。

この揚げ石さんの屋敷に弘法大師の話がある。「もし婆さんや、そこになっている柿を一つわしにくれんかのう。」

「はいはいお坊様欲しけりゃいくらでもあげますが、あいにくこの柿は渋柿でござんすんにや。」「いやなんでもよい。一つわしにもらえんかのう。」

「はいはい渋柿でもよけりゃ。」

そこで婆さんはその坊さんに渋柿を一つむいでやりました。そうしたらその坊さん、その渋柿をとてもうまそうに食べだした。

「あーうまい柿ぢゃった。それじゃ婆さんや、お礼と言っちゃなんだが、これからこの屋敷にはえる柿はみな甘柿にしてやるでのう。」と言って、前にあるお寺の方へ歩いて行った。

それからというものは、渋柿が甘柿になり、現在でもこの屋敷にある柿の木はみな甘柿で渋柿の木を植えても甘柿がなるそうな。また、こんな話も残っている。お寺の門前で一休みを終えた坊さんが、「ドッコイショ」とそばにあった石に手をかけて立ちあがったら、その石にピタリと手の跡がついたという。その手の跡のある石は今でもそのお寺(専応寺)の庭に三尊石の一つとなって残っている。

その不思議なことをやってのけた坊さんを人々は弘法大師だったのだと信じ、今に伝えられている。

◇安養寺屋

小杉の前善太夫家の弟の善太郎が、明治のはじめ織田でかんじやの修業をし、小杉の実家近くの小屋ではじめたが、火災にあったので、安養寺の大水ロに居を移し開業していた。そこも五、六年で武生の上市へ出、安養寺屋と名のった。鉈造りを得意とし弟子も数多く養成し、財もなしたが、三代目が廃業した。その流れをくむ人が現在も武生には四、五軒あり、府中の打刃物を語る上で欠かせぬ名だという。三代目の弟が、やはり安養寺屋を名乗り、大野の下庄村で造りをしているという。

◇新婚さんと火消し

四月十日の春祭りになると、前年の春祭以後一年間に花嫁を迎えた家に地区の消防団と自警隊が出むき、その家にむかってポンプで放水する。これが地区の消防団の出初め式ともなっている。

いつ頃からはじまった行事かわからないが、安養寺の集落の殆んどをやきつくした安政六年(一八六〇)以後、そのいましめのためはじめられたと伝えられている。新婚さん宅を選んだのは、花嫁さんが根がつくよう、また、あつい仲をひやす為といったジョークも含まれているとか。消火の面からみると、水利を確認するためでもある。

(かいち、(垣内)とは住宅のまとまった区域の事を言う。)

「山干飯 小字のはなし」 17 小野(この)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

小野(この)

古書「足羽社記」には当地に継体天皇の皇女小野雅郎女が居住されたので小野と呼ぶようになったのではと記されている。しかし、旧幕時代松平藩に所属した慶長時代の文書には木野村と記帳されている。

この地にある神明神社、曹洞宗の地蔵院については白山村誌に記載されているが、そのほか岩山金比羅宮が神明神社境内正面左の小高いところに祀られている。昔は集落北側平等地籍の山上に祀られ、七月十日祭礼、その他若連中(今の青年団)等によりにぎやかに催され崇敬されていたが、明治の中期現在地に遷宮、祭礼はその日に継続されている。

この集落は吉野瀬川の下流に位置し周辺が高く、あたかもすり鉢の底にあるような形状にあり、周辺は山地で小盆地の耕地等も介在し面積は世帯数に比較し広大である。

このため昔は同じ吉野瀬川下流の平坦部の千福、高瀬、太田、北府等より年貢を徴し、共有入会山として薪刈、炭焼を認め、在住民も同じく生活の資とし耕地収入の不足を補った。

しかし、この制度は山地が荒廃するため、大正時代より分割、個人所有するようにとの勧奨により、昭和の初期入会権を有する平坦部、隣地の勝蓮花等に割き、残りを集落個人に測量分割配分した。この配分した耕地、山林に旧来の私有地最寄の耕地山林の字名を使用したが号数は別に定めた。旧来の私有山林は、昔入会山で肥沃な谷間の雑木を薪や木炭を焼き、その跡地へ杉や桧を植樹したため小面積の小字が多数ある。

一、小字名

1 おおはた(大畑)

2 なべどう(鍋堂)

3 とうげ(峠)

4 どうた(堂田)

5 ふたまた(二俣)

6 ひげ(比下)

7 しもだいだ(下鯛田)

8 なかだいだ(中鯛田)

9 だいだ(鯛田)

10 ひころく(彦六)

11 あかやま(赤山)

12 はんだ(半田)

13 のぞえ(野添)

14 うしづき(牛月)

15 おくつつみがたん(奥堤ヶ谷)

16 つつみがだん(堤ヶ谷)

17 いまでん(今田)

18 さがって(三月出)

19 ひがしやま(東山)

20 なかいなば(中稲場)

21 わりだん(割谷)

22 みじかだん(短谷)

23 ひよじ(日与地)

24 おおさか(大阪)

25 くまだ(熊谷)

26 ながたん(長谷)

27 くぼた(久保田)

28 げんだ(源田)

29 しりの(尻野)

30 かみがたん(神ヶ谷)

31 うつり(宇津利)

32 しみず(清水)

33 こだん(小谷)

34 ふくろく(福録)

35 ろばたけ(嫡畑)

36 どうのおく(堂奥)

37 ふたせがわ(二瀬川)

38 ひだりざか(左坂)

39 みようがだん(茗荷谷)

40 にたんだ(二反田)

41 げた(下田)

42 うめがだいら(梅ヶ平)

43 かしまわり(柏廻)

44 とうのうえ(塔ノ上)

45 びしゃみだに(比沙門谷)

46 びしゅみだんぐち(比沙門谷口)

47 かみごろう(上五良)

48 かやだん(可屋谷)

49 かみかはら(上河原)

50 みずかみ(水上)

51 なかみち(中道)

52 きただ(北田)

53 おばか(尾墓)

54 だいら(平等)

55 まえざか(前坂)

56 しもかわら(下河原)

57 しもごろう(下五良)

58 くちなし(口ナシ)

59 たかとうろ(高灯籠)

60 いちまいだ(一枚田)

61 てらだん(寺谷)

62 てらだんぐち(寺谷口)

63 もちこし(特越)

64 おおくぼ(大久保)

65 みずしり(水尻)

66 さかのたに(坂ノ谷)

山林

67 ひがしさかたん(東坂谷)

68 たいこいわ(太鼓岩)

69 みなみおおくぼ(南大久保)

70 たかお(高尾)

71 れいしと(石戸)

72 ひがんで(彼岸出)

73 おおくちなし(大口ナシ)

74 おしたに(押谷)

75 いわやま(岩山)

76 そなだれ(一伏三起)

77 ぼんのやま(盆野山)

78 そうろく(雙六)

79 よこがけ(横掛)

80 かしのきだん(柏木谷)

81 おやま(尾山)

82 ちょうし(銚子)

83 ちしゃがみね(知者ヶ峰)

84 かみびしゃみだん(上比沙門谷)

85 かみおおわた(上大畠)

86 しもびしゃみだん(下比沙門谷)

87 しんで(神出)

88 こうずがだいら(緒子平)

89 ふくろくくぼ(福録久保)

90 ごろく(五六)

91 じんでざか(神出坂)

92 ちのたに(一ノ谷)

93 くちかやだん(ロ加屋谷)

94 なかかやだん(中加屋谷)

95 おくかやだん(奥加屋谷)

96 せいりきやま(勢力山)

97 とちだん(栃谷)

98 みなみかみがだん(南神ヶ谷)

99 かじまだん(梶間谷)

100 ひだりのだん(左之谷)

101 くちうつりだん(口移り谷)

102 しもわるだん(下割生谷)

103 ずずがだん(象頭ヶ谷)

104 きだだん(木田谷)

105 かさくら(笠倉)

106 みまた(三俣)

107 かみつつみがたん(上堤ヶ谷)

108 おかめ(大亀)

109 わきのやま(脇之山)

110 きただん(木田谷)

111 ずずがだん(象頭ヶ谷)

112 ふかわん(不可腕)

113 なかのたん(中ノ谷)

114 わりだんぐち(割谷口)

115 みなみだん(南谷)

116 こうじがたん(糀ヶ谷)

117 とちだんじり(栃谷尻)

118す げんたん(菅谷)

119 おおかげたん(大陰谷)

120 かわじんで(河神出)

121 やはち(矢八)

122 たきだん(滝谷)

123 びりだんじり(秘理谷尻)

124 えのきだん(榎谷)

125 ほそくぼじり(細久保尻)

126 おくみようがだん(奥茗荷谷)

127 ひがしど(東戸)

128 いしど(石戸)

129 にしのてら(西野寺)

130 かめゆ(亀湯)

131 ししやま(獅々山)

132 おしたん(押谷)

133 ささおんの(笹尾野)

134 とちだん(栃谷)

135 ひだりだん(左り谷)

136 うつりだん(移り谷)

137 うるしばし(漆橋)

138 わりのだん(割野谷)

139 ぞうずがたん(象頭谷)

140 きただに(木田谷)

141 こやがたん(小屋谷)

142 おおがめ(大亀)

143 いまでん(今田)

144 つつみがたん(堤ヶ谷)

145 だいだ(鯛田)

146 かさくら(笠倉)

147 ふたまた(二俣)

148 あげだん(上谷)

149 おおくぼ(大久保)

150 たかお(高尾)

151 そなだれ(一伏三起)

二、小字のはなし

勝蓮花(以下<勝>と略記する)

1 滝之谷 2 滝の前は滝の周辺にある。

3 <勝>八反田 8 下八反田 44 二反田小野(以下<小>と略記する) 40 二反田は田の面積からつけられた。

11 〈勝>中道 51〈小〉中道は当時、集落中央道路周辺に宅地や田があったことからつけられた。

12 <勝>高灯籠 59<小>高灯籠は往時寺があったと言われる寺谷近くに灯籠があったと言われている。

13 <勝>三月出 13 <小>三月出は谷間の小盆地で陽当りが良く雪どけが早いので、旧三月早々にも耕せる田畑である。

14 <勝>堤ヶ谷 16 <小>堤ヶ谷 4 堤ヶ谷は同所1〈小〉堤ヶ谷に溜池が二箇ある地。

23 <小>日与地 雪どけが早いからこのように言われた。

23  <勝> 堂奥 36 〈小〉堂奥は小野神明神社の奥にあるところから名付けられた。

17 <勝>峠 3 <小>峠は小野から梅峰(現在のヒバリケ丘)へ越す峠付近であるところからつけられた。

45 比沙門谷 現在神明神社脇神として祀られている比沙門様が昔この地に祀られていたと言われている。この山地の奥口に、84 下比沙門谷 46 比沙門谷口 86 下比沙門谷があり、この比沙門様を集落に移す時運ばれた道筋に、91<小>神出坂 87 <小>神出 64 <勝>神出 65<勝>神出坂がある。

62 <勝>源相西野 63 源相東野 昔、この地に坂口地区勾当原町に所在する浄土真宗の還相寺があった。今もこの盆地の北側に鍾桜堂と呼ばれる丘がある。

49 <小>上河原 56下河原は吉野瀬川の川辺にある。

50 <小>水上 小野集落の上手にあり、小野川が上流からこの土地に流れている。

52 <小>北田 集落の北側に位置する宅地、水田を言う。

54 <小>平等 小野としては比較的広く平坦な畑地である。

61 <小>寺谷 129 西野寺 昔、大きな寺院があって近くに大鼓を備えつけた御堂があったと言われている。

68 <小>太鼓岩 57 <勝>太鼓岩等もある。

76 〈小〉一伏三起 151 一伏三起 現在は使用されていないが、近くに火葬場があり、その下に武生へ通ずる道路があった。そこは杉や竹が茂り夜間の通行を避けたものだが、帰りが遅くなった時などこわごわ通り、時々お化けに出会って、立ったり伏せたりほうほうの体で帰ったという話。また、送り狼に出会い褌を解き狼を近付けないようにして、立ったり伏せたりしてようやく帰ったという話もある。

こんな魔よけにと、一字一石経王塔(願主が拝礼しながら、小さく平たい石一つ一つに、ありがたい経文を一字ずつ書き建てたことから、こんな字名がつけられたのではなかろうか)を建てた。

また、こんな話もある。一伏三起の一角にお題目を刻んだ経岩があり、その奥の細い谷を経石谷と通称呼んでいるが、この経岩の由来について次のような言い伝えがある。

吉瀬川がこの箇所で大きくカーブしているため大雨などで川が氾濫して、通行不可能になることがしばしばあったが、あるとき高僧が対岸の岩に向いお題目を書くと、たちまち川向うの岩にお題目が刻まれたと言う。いわゆる投げ文字である。その後はこの地の水害はなくなったと伝えられている。

この岩が現在の県道に突出ていたため、道路改修の際取り除こうとしたところ、作業員がめまいをおこし作業が出来なくなり、やむなく設計を変更して川の方に石垣を築き道幅を広げた事実がある。

81 〈小〉柏木谷 今も柏の木が多数野生している。

83 <小>智者ヶ峰 集落西北側の奥地で、小野では海抜の高い山地で、昔仙人が住んでいたと言われている。

20 <小>中稲場 丘陵平地で陽当りが良く、昭和三十年頃までは、稲架(はさ)が多数作られたのでこのように名づけられたと思われる。

74 〈勝〉梶間谷と135 <小>左り谷との尾根を通称仏の尾と呼んでいる。これは坂口地区の上中津原町少林寺という寺があるが、小野町の壇家がこの尾根を越して、この寺に詣でたためこの名がついた。

三、いいつたえ◇仏の尾伝説

昔、明暦の頃であった。丹生郡白山村の小野区のお宮の社壇が、夜になるとぴかぴか光り、青い凄みを放ったので、夜はもちろん昼でさえそこを通る人がないようになった。

ある夜のことである。村の庄屋の枕元に仏様が現われて、おごそかに「今多くの人々を騒がせているあの怪しいものを拾ってきて、上中津原の徳泉寺へ納めてほしい。」とお告げがあった。同夜一方の中津原の徳泉寺へもお告げがあった。迎えに行ってくれとのことであったので、早速迎えに行くと、向うから総代が送ってくるのと、白山村と坂口村の境の大阪山で出合った。今もそのところを仏の尾と呼んでいる。

怪しい光を放ったのは、昔、白山村の勝蓮花に合戦があった時、加賀の一人の武士も加わっていたが、華々しく戦って身に十ヵ所以上の傷を負うたので、敵の刃にかかって死ぬより、自分で死のうと小野のお宮に入って社壇にお守仏としていた御名号をかけて自刃した。光を放っていたのは、その名号が下に落ちていたからであった。御名号を開いて見ると、「帰命尽十方無碍光如来」と書いてあった。この名号は御本尊として保存されてある。

「山干飯 小字のはなし」 16 勝蓮花(しょうれんげ)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

勝蓮花(しょうれんげ)

旧南条郡坂口村に源を発する吉野瀬川の下流に位置し、支流の丸岡川もこの地で合流する。

この集落には伊弉冊尊を祀る白山神社があり、昭和十年曹洞宗寺院竹林庵が創建され、殆んどの人がこの台地に居住していた。その後時代の変遷、交通の便等から逐次北側県道武生米ノ線勝蓮花甲楽城線沿いに移転し、旧集落台地には現在白山神社だけとなっている。

明治十七年溫故小学校小野分校が通学区域(小野、勝蓮花、沓掛)の中央である当地へ移され、勝蓮花小学校として開校された。その後白山尋常高等小学校第二分教場として、昭和四十二年三月まで存続した。慶長時代の書には小蓮花とも書かれている。昭和二十一年第二次世界大戦直後北側台地の源相野地籍に帰農開拓団が入植したが、食糧事情の好転、その他に伴い逐次離散し現在住宅は無い。

一、小字名

1 たきのたん(滝之谷)

2 たきのまえ(滝の前)

3 はったんだ(八反田)

4 おおはた(大畑)

5 はたばな(畑端)

6 さいとうの(済藤野)

7 かみさいとうの(上済藤野)

8 しもはっだんだ(下八反田)

9 むらした(村下)

10 ぐだに(具谷)

11 なかみち(中道)

12 たかとうろう(高灯籠)

13 さんがつで(三月出)

14 つつみがたん(堤ヶ谷)

15 うしづき(牛月)

16 ひげ(比ヶ)

17 とうげ(峠)

18 どうだ(堂田)

19 しもだいだ(下鯛田)

20 ひころく(彦六)

21 たいだ(鯛田)

22 ふたせがわ(二瀬川)

23 どうのく(堂奥)

24 おばた(小畑)

25 しおから(塩辛)

26 びりだん(秘理谷)

27 うつりごや(移り小屋)

28 えのきとうげ(榎木峠)

29 さいとうの(済藤野)

30 しもさいとうの(下済藤野)

31 わたりせ(渡り瀬)

32 ののした(野ノ下)

33 ぬかぐちやま(糠口山)

34 にしげただに(西下田谷)

35 ひがしげただに(東下田谷)

耕地

36 ぐだにぐち(具谷口)

37 しみず(清水)

38 しりの(尻野)

39 おおさかぐち(大阪口)

40 のぞえ(野添)

41 みちのした(道之下)

42 なかのたに(中野谷)

43 ほそだん(細谷)

44 にたんだ(二反田)

45 げただん(下田谷)

46 かみほそだに(上細谷)

47 みずおし(水押)

48 またに(真谷)

49 たきだに(滝谷)

50 みようがだん(茗荷谷)

51 ようすい(用水)

52 しおから(塩辛)

53 むかいやま(向山)

山林

54 はながたん(花ヶ谷)

55 よしのお(吉野尾)

56 よしたん(吉谷)

57 たいこいわ(太鼓岩)

58 びりたん(秘理谷)

59 うつりごや(移り小屋)

60 わりおだん(割尾谷)

61 えのきとうげ(榎木峠)

62 げんそうにしの(源相西野)

63 げんそうひがしの(源相東野)

64 じんで(神出)

65 しんでさか(神出坂)

66 ますだん(増谷)

67 げただん(下田谷)

68 いちのたに(一野谷)

69 ほそくぼ(細窪)

70 おくかやだん(奥加屋谷)

71 なかかやだん(中加屋谷)

72 かやだん(加屋谷)

73 かみがたん(神ヶ谷)

74 かじまたん(梶間谷)

字名については、その所在が隣の小野集落のものと入り交り小野と同一名のものが多い。これは明治初年土地台帳整備の際、当時の所有者本位に大字名を定めたものと思われる。そのため由来等は小野と合記する。

「山干飯 小字のはなし」 15 丸岡(まるか) 沓掛(くつかけ) 日の向(ひのむかい)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

丸岡(まるか) 沓掛(くつかけ) 日の向(ひのむかい)

吉野瀬川の上流にあり、西は米口、仏谷、東は勝蓮花、勾当原、北は上杉本、上黒川に境し、南に金華山があり、越えて中山に接している。

第二次世界大戦中及び戦後の食糧不足を補うため、約四町歩の開田と、約十町歩の畑地の造成、開拓者の入植により更に約十町歩の農地が開墾され、その大半はタバコが耕作されてきたが、今は全廃となりその面影はない。昭和四十七年よりの白山地区の県営農地開発事業により、約十五町歩の給水完備の近代的な農地が完成し、今後の営農に大きな期待がかけられている。

沓掛は安政元年(一八五四)一軒の茶屋が草分けとなり、明治、大正にわたり二十一戸の商家を中心とした一集落が丸岡の朶村(えだむら)として誕生した。一時は交通の要地として発展したが、交通機関の発達により今は十八戸で商家は一戸もない静かな集落となった。丸岡の一字名ではあるが、行政上沓掛町とし認められている。

氏神様として山王大権現日吉神社がある。言い伝えによると養老年間(七百年代)に江洲坂本の山王一大権現日吉神社より分霊され、金華山の頂上に祀られ近郷十三ヶ村の総社として信仰が深かった。その後慶長十二年(一六一二)に兵火により焼失したので、オカイナバ(金華山のふもと深山口)に移祀されたが、近くに火葬場があったので、神のお告げにより現在地に移されたといわれている。

祭神は大山咋の神であるが神像二体、仏像七体が祀られている。

丸岡、沓掛に面した北側の大半は黒川地籍で、小字として田、畑、宅地等に八十七字より九十二字までと、山林に百九字より百十六字まである。(小字名は黒川の部に記してあるので省略する。)上黒川より沓掛へ越すのには急な峠道で、その道を境に通称西は鹿の佐、東は坂見谷といわれている。特に鹿の佐は岩山多く、平地は強粘土質でたいへんな痩地である。

昔はこの地域は丸岡地籍であったが、江戸の末期黒川村は本保領(幕府直轄)、丸岡村は福井藩領であった。福井藩は六十八万石から二十五万石に減領されたので、年貢の取立ては本保領に比べ非常に高く取立てもきびしかった。やせ地のため収穫量全部納めても尚足りなく丸岡村としても困り果て黒川村へ無償でとってもらうこととし、再三交渉したが話はまとまらず、結局くじ引きに勝ったので酒五升をつけて黒川村へとってもらったものだといわれている。

戦後食糧増産のための開墾や土地改良事業等により平場で田畑約八町歩が造成された。鹿の佐を除く山々はゴルフ場建設の予定地になっている。

沓掛町のうち昭和初期までこの黒川地籍内に四戸あったが、現在は二戸となっている。

一、小字名

1 ひなた(日向)

2 たにやま(谷山)

3 かわだ(河田)

4 かやだん(荷谷)

5 りゅうがたん(滝ヶ谷)

6 ひのきだん(火ノ木谷)

7 つつみがたん(包ヶ谷)

8 うらだ(宇良田)

9 ひかげ(日蔭)

10 かみにしでん(上西田)

11 うえのやま(上野山)

12 にしこがたん(西小ヶ谷)

13 ひがしこがたん(東小ヶ谷)

14 みやま(深山)

15 なかみやま(中深山)

16 みずかみだん(水上谷)

17 くちみやま(ロ深山)

18 かみたなか(上田中)

19 にしのした(西ノ下)

20 しもにしでん(下西田)

21 さがらまち(佐柄町)

22 みやのまえ(宮ノ前)

23 かみさかめ(上境明)

24 ほうちん(宝珍)

25 しもたなか(下田中)

26 だいもん(大門)

27 げんとく(源徳)

28 にんじんもと(人参元)

29 とりのむかい(鳥ノ向)

30 もりのした(森ノ下)

31 みやのこし(宮ノ腰)

32 みやのした(宮ノ下)

33 むらしも(村下)

34 こまるか(小丸岡)

35 なかなべと(中鍋戸)

36 きたかいち(北界地)

37 しもさかめ(下境明)

38 かみなべと(上鍋戸)

39 むかいやま(向山)

40 ばんにや(番屋)

41 しもなべと(下鍋戸)

42 くりばやし(栗林)

43 いかだま(井賀玉)

44 しょうずがしり(清水ヶ尻)

45 まるやま(丸山)

46 かみどうだ(上堂田)

47 しもどうだ(下堂田)

48 くじゅうだ(九十田)

49 おおしも(大下)

50 くつかけ(靴掛)

51 とびのき(飛ノ木)

52 ひちべざか(七部坂)

53 おくとりごえ(奥鳥越)

54 すがたん(杉ヶ谷)

55 かまがたん(鎌ヶ谷)

56 きつねづか(狐塚)

57 はちがしり(八ヶ尻)

58 あらたん(荒谷)

59 くちあらたん(荒谷)

60 いけのだいら(池ノ平)

61 くらがり(暗り)

62 ひがしますたん(東増谷)

63 にしますたん(西増谷)

64 しほから(志保唐)

65 こたき(小滝)

66 おくやま(奥山)

山林

67 かみひなた(上日向)

68 ながお(長尾)

69 たかば(高場)

70 ながたん(長谷)

71 くさおとし(草落)

72 すがやま(杉ヶ山)

73 てんじょう(天井)

74 こだなし(小田梨)

75 さんざがいち(三佐ヶ市)

76 とっときだいら(鳥置ヶ平)

77 ひらばやし(平林)

78 ばばやま(番馬山)

79 まつを(松尾)

80 ふかたん(深谷)

81 ひめむかい(目向)=(日ノ向)

82 さかみだん(坂見谷)

83 いぬのたん(犬ノ谷)

84 くりばやし(栗林)

85 きたやま(北山)

二、小字のはなし

1 日向 昔の見張所の一つで、東は武生方面から、西は山千飯一帯にわたってよく見える地である。この地の番人はいつも白い手拭いをかぶり、後で結んでいた。その結んだ手拭いの両端が兎の耳のようにつんと立っていたので、人々は「耳々白」と呼んだ。

それが明治の世となり、土地台帳が改められた。この時、元の台帳に極く粗雑な字で「耳々白」とあったのを見誤って、「目々白」となり、「日目向」となり、あるいは「目日向」「日ノ向」ともなり、終戦後開拓地として入植者が入居してから、この人達によって日野山が真向いに見えることから、「日ノ向」の名が一番適称であるとして、一般通称名になった。しかし、土地台帳は「目日向」となっているので登記には「日向」では通らない。

2 谷山 坂口の中山へ行く道にあり、大溜がある。

4 荷谷 谷山と地つづき。

7 包ヶ谷 溜池がある。

9 日蔭 日当りの悪い山蔭の由。

11 上野山 高い所でここにお寺があったといわれている。現在、清水山にある専伝寺といわれ、今でも池があり、一昨年までそばに周囲が六尺程もあ大きな五葉松があった。お寺の松ではないかという。しかしその松は、昭和六十年に枯れてしまった。

丸岡には、今でも清水町清水山の壇家が十五戸程ありお参りを続けている。

12 西小ヶ谷 西の方にある小さい田。

13 東小ヶ谷 東の方にある小さい。

14 深山 山の奥にある田。

15 中深山 深山の少し手前にある田。

16 水上谷 どんなに強い日照りでも、水はかれたことはない。

17 口深山 深山の登り口。

21 佐柄町 昔は、佐柄町、フロノ下、宝珍、ゴマン堂、そして仏谷の観音堂の下まで軒を揃えた町であったという。丸岡のもっとも栄えた時代といわれる。後に領主とともに町民もろとも、坂井郡の丸岡に移転したのだという。

フロノ下あたりを田にするため整地したところ、墓石のかけら、大きな五輪塔の一部など出土した。お寺もあったらしい。五輪塔の一部は、現在鈴木凡磨氏の旧宅地跡に残されている。現代の大型機械で掘り起したならば、相当な埋没品が掘り出されるのではないかと思われる。

22 宮ノ下 宮ノ前、宮ノ腰、これらの名称は、当町日吉神社(山王大権現)が鎮座されてから付けら.れた名称と思われる。

23 上境目 米口地籍の境目との地つづき。

34 小丸岡 明治以前に、中西藤左ェ門家から分家した人が草分で、それ以後小丸岡と名付けられた。丸岡の出村となっている。

35 中鍋戸 36 上鍋戸 41 下鍋戸、これらの小字は、米口の鍋戸の地つづきで、瓦土を取った跡があったらしい。

37 下境目 この一画に通称「綾織」という所がある。こゝで綾錦を織って時の代官に献上したという。

39 向山 村の向いの山。

40 番屋 往来する旅人を止めて、調べた所で番小屋があったところ。

42 栗林 栗の木の林であった。狐が出て来て人をだましたので、村人は地蔵を建てて封じ込めてしまった。人々は「はざまの地蔵」とよんでいる。

43 井賀玉 雨が降ると水がつき、溜った水は水はきが悪いため、井がタマルが井賀玉になったとか。白山地区でも一番悪い土地といわれたという。近川を広くして水はきを良くしたので、安心して作ることが出来るようになった。

44 清水ヶ尻 美しい水が出る所で、どんなにお天気がつづいても水がかれず、皆がくみに行った。今でも用水として使用している家もある。

45 丸山 山が丸いので丸山となる。

48 九十田 小さな田がたくさんあった。

49 大下 丸岡は昔から霜の害が多かったので、柿など実の止りが悪かった。それが大下には成った。村の者は霜町(しもんちょう)ともいった。

50 靴掛(沓掛) 丸岡の出村である。米ノ浦方面と、黒川の方から出て武生へ出る街道すじにあり三叉路になっている。そのため早くから栄えた。かっては医者もあり、色々な商家もあった。高佐で造った塩をこの地に売りに来たが、牛に二俵、馬子が一俵かついで来たという。ちょうど靴掛まで来るとわらじがやぶれ、馬の沓もすり切れてしまうのでここで新しいのと替えたという。古いわらじを木の枝にかけたので沓掛となったそうだ。現在ある清水家は、安政元年より店をかまえた。一年間に三千足のわらじが売れたという。往き来する旅人が一服する所となり、茶屋さんと呼ばれ、煮しめやあべ川もちなどよく売れたそうである。

56 狐塚 いつも狐がいたので、つけられた。嫁さんの姿で出たそうだ。今でも朝早く通ると見かけることがある。

58 荒谷 水が少なくい米が取れなかったのでこの名が付けられた。作り手がなかったそうである。

64 志保 現在、武生市のゴミ焼却炉のある所で、坂口へ抜ける道がある。志保唐と同じ地つづきで、坂口村の勾当ヶ原に塩辛があり、勝蓮花にも塩柄がある。浜の方から塩を売りに来た街道であっためそのような名が付けられたと思われる。

66 小滝 丸岡と勝蓮花との中程にあり、小さい滝で昔その水上で人を斬った刃を洗ったので、この滝の水を飲むと腹が痛くなるとている。

68 長尾 昔の氏神様の社の跡。

69 高場 福井丸岡城の出城があって物見台があっのではないだろうか。

71 草落(深山) この上は金華山になり、このお山に神様がおられたそうな。そのお使いが上ったり下りたりした。その道は険しく岩石であった。今でも七、八尺程の巾の道があり、美しい水が流れている。水の中の岩に馬のひづめの跡と杖の跡が残っている。

73 天井 高いためそうよばれた。

74 小田梨 小さい田が多く、昔は梨の木でもあったのだろうか。

76 鳥置平(トットキ平) 殿様の狩が行なわれた所だといわれている。

80 深谷(池ノ平) 鎌倉時代の武将が鴨狩りをした所といわれ、今でも溜池やお堀の跡などあるという。

82 坂見谷 昔ここに、子供づれの狼がいたそうな。丸岡に体の大きな関取がいて、その狼の子を捕えて松の木につないで置いたという。心配そうにしている親狼を見て、かわいそうに思った旅人が縄を切ってやり助けたそうである。それからというものは、旅人が何処へ行っても無事に家へ着くまでは、安全を確かめ家まで送ったという。

旅人は、お前が送ってくれるのは有難いけど、他の人々がお前の姿をこわいというから、もう送ってくれるなといった。それからは、二度と狼の姿は見られなくなったという。

その後、関取が山へ薪を取りに行き、背負って帰ろうとしたところ、狼に喉をかまれて死んでいたという。

83 犬谷 きつねやてんなどの獣を追って犬が来るのでそういわれているらしい。

89 牛杉(黒川地籍) この地は日ノ向入口の西にある小さい谷間で、八畝歩程の小面積である。昔この地に杉の大木があり、牛馬の荷役の往来中ここで休けいし、その折牛馬をこの杉の木につないだ所なのでこの地名にしたといわれている。

115 寺屋敷(黒川地籍) いつの時代か不明であるが、この地にカンザン寺という天台宗の寺があったといわれている。その寺跡と思われるところから墓石や木片が出土している。また、この辺一帯は強粘土質で、明治中期より昭和の初期まで約五十年にわたり瓦の製造場があった所である。

万能華親王に関する地名

●丸岡の地名 マンノウカ親王が居られたので、マンノウカが訛ってマルオカとなったという。

●火ともし山 ここは見張所のあった所で、敵襲の際には柴を焚いてのろしを上げ、味方にしらせた所である。

●小屋見台 ここは浜へ通ずる道がよく見えるので、ここにも見張所があった。

●二畑 春秋二季にわたって穀物を作って、親王に献じた農場。

●林檎谷(谷山) 日当りの良い地なので林檎や果樹を植えた地。

●包み谷 穀物を隠し貯蔵した所。

●ひのき谷 峠から穀物の隠し場、即ち包み谷が見えるのでひの木を植した谷。

●高場 日当りのよい地で収穫した作物の乾燥場。

●鎌ヶ谷 親王が隠れ家を敵に襲われた時、火を焚く事が出来ないので、此地に釜を移して炊事をした場所。

三、いいつたえ

◇金華月山

奈良朝末期、光仁天皇の王子万能華親王が兵乱を避けて、従者と共に北陸の地に逃れ、隠れ家を丸岡の南、中山へ越す峠の堂津端と言う地に定め、追手や土賊の襲撃に備えて所々に見張りを設けて、身の安全を図った。この高い山が「君を隠し」た山などで、その後この山をなまって金華月と呼ぶようになったという。

◇古寺跡

昔、当地に延仁寺、カンサン寺、ほかにもう一か寺の三ヶ寺があった。

延仁寺は、万能華親王が父君の菩提を弔う為に建てられたもので、今の長谷の地にその跡があり、時時墓石が掘り出される。あとの二ヶ寺は延仁寺の下寺であったらしく残りの寺跡はわからない。

宗派は天台宗であったが、後に親鸞の子善鸞が福井へ来られた際に子弟となって真宗に変った。その後当寺は福井藩主に嫌われたので、本保領である清水山へ寺を移し、専伝寺と改称した。それで当区延仁寺壇家は清水山専伝寺壇徒となった。

◇神社山麓に移さる

越前の国主柴田勝家が地方巡視の時、乗馬で八町を通りかかった。その時何の障害もないのに落馬したので、不思議に思って従者に尋ねた。従者はおそるおそる「これより、おそらくはるか南にそびえ金華月山の山頂にある神様のお告げに『その神様山麓にお降し申せ』ということと拝察されます」と申し上げた。

勝家はその後、金華月山に神社のあることがわかったので村人に命じて山麓に降し、移させたという。

日の向開拓地

昭和二十年、十二名の引揚者や戦災者が、丸岡の山林8日ノ向2坂見谷にまたがる十五町歩を占める台地に入植開拓した。

この台地は県道武生街道に沿う北側約五〇米ほどの高い河岩段丘で、鬼が岳山系の南麓標高一五五メートルの高地である。

このへん一帯は酸性度の高い赤土粘土質で極めて痩地であるため熊笹の繁る雑木林であった。そのため農耕で生計をたてるにはたいへんな苦労があった。そのためか離農者が相次ぎ、今は四軒になり酷農と畑作を営んでいる。

「山干飯 小字のはなし」 14 仏谷(ほとけだん)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

仏谷(ほとけだん)

糠口村の東南にあって、中山方面へ通ずる入口の西山麓にあった。丸岡の出村で明治以後武生街道が完備したため、県道沿いに転出し米口と合併した。現在お観音さんと呼ばれている杉林の丘に、昔白山神社があったが米口に移された。その西山麓には寺屋敷その他屋号に類する地名が残っていて、その跡からいろいろの器物の破片が出て来る。

京田寺という寺があって、付近に大きな石があり、その上で仏像を彫られたと伝えられている。その石は最近まで田の近くにあった。

奈良朝時代、泰澄大師がこの地に巡錫せられ甲楽城浦に行かれた時、浜辺に光っている材木をみつけられ、たぶん波にうちあげられたのであろうと思われた大師はこれを拾って持って帰られ、仏谷の日影という所の台石の上で木の仏像即ち観音様三体をお刻みになった。その一体を白山神社の御神体として祀り、一体は武生の帆山寺の御本尊となり、もう一体は奈良のある寺院に奉納されたとのことである。以来昭和の初期まで帆山寺の開山忌には毎年仏谷区の藤本氏が招待されたという。

一、小字名

1 よねぶつ(米仏)

2 みやのまえ(宮の前)

3 ふたくち(二タロ)

4 きょうでん(京田)

5 くちにしたん(口西谷)

6 おくにしたん(奥西谷)

7 ひかげ(日影)

8 ひのきだん(桧木谷)

山林

9 うえやま(上の山)

10 ひがしひかげ(東日影)

11 にしたん(西谷)

二、小字のはなし

1 米仏 米口と仏谷の合致している所。

2 宮の前 仏谷に白山神社があった。その前の辺りをいう。

3 二タロ 谷山の奥から流れる水を、米口と丸岡に分ける分岐点である所から二タロという。

4 京田 京田寺という寺があった。(時代不明)今も寺跡が平地になっている。

7 日影 南の方に山があり影になる。

8 桧谷 桧がたくさん生えていた。

三、いいつたえ

◇仏谷の狐

仏谷に白山神社があった頃の事である。当時は賭事が盛んであったので、神社のお堂の中ではその夜も相変らず村の人達が集まって、賭事に熱中していた。その最中、不意に入口の戸のクルリ(落し錠)をコトコトンといじくる音がした。皆はハッとして慌てて蝋燭の火を消し身を縮めていた。警察の手入れかと思ったのである。又、コトンコトンといじくる。暫くしてどうも様子が変なので一人が立上ってソッと戸を開けて見たところ、大きな狐があわてて逃げて行った。 昼間皆で追いかけた狐がしかえしにきたのだとわかって、皆は安心して又賭事に精出したそうな。

「山干飯 小字のはなし」 13 米口(こめぐち)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

米口(こめぐち)

昔は糠ロ村と呼んでいた。これは明治の頃までは現在のお宮の東方の谷間から峠を越え菅に出て糠浦に通ずる本街道の分れ道であったからである。

明治以降、丸岡の出村であった仏谷と合併して米ロと改称された。(一説によると、寛政八年一七九六〉八月十五日米口と改称されたとある。)

この村の草分けは平家の落武者斉藤という武士が、虚無僧となってここに土着し、後に谷野彦左ヱ門と名乗った人であるといわれている。この村の谷野家は皆この末孫であるとのこと。また、小原四郎左ヱ門がこの村の草分けとも言われている。今日の小原家は皆この末裔との事だが弘化四年の大火で村が全焼したので、古文書その他重要なものはなく、それ以前の事はあまり解らない。

当区の神社酒列神社は、大正三年頃仏谷の白山神社と合併されたので、今の社殿には両神社の御神体が安置されてある。酒列神社の御祭神は少彦名命で、御神体は薬師如来である。この如来は、昔この神社の前にある寺屋敷(今は荒地)に普門庵という真言宗の草庵があって、その草庵を徳川四代将軍の時、武生龍門寺四世春郷和尚が改築し、今の浄信寺を建立して薬師如来を安置した。後、神社に奉安本尊とした。御本殿は昭和二十年に学校の奉安殿を米口区が買受けたものである。

巡査駐在所は明治時代からあり現在の鎌田氏土蔵西横の空地に建っていたが、昭和二年堀区へ移された。そして、昭和四十八年再び米口区に移転された。

昭和三十七年村田製作所が誘致され、昭和五十五年には、金華山グリーンランドが開設されて、当区も次第に発展して来た。

一、小字名

1 しもわき(下脇)

2 なべと(鍋土)

3 ねこだん(猫谷)

4 ゆのくち(湯の口)

5 さかいめ(境目)

6 つじ(辻)

7 よねぶつ(米仏)

8 かみだいじんぐう(上大上宮)

9 きたんじり(北の尻)

10 くぼた(久保田)

11 むかいやま(向山)

12 じゅうひちまい(拾七枚)

13 ほそばたけ(細畑)

14 えぞえ(江ゾエ)

15 なわて(畷)

16 にして(西出)

17 しょうずがたん(御清水谷)

18 はざま(硲)

19 とちのき(栃ノ木)

20 むらのした(村の下)

21 むらのうち(村の内)

22 とうげ(峠)

23 くちこもちがたん(ロ子持谷)

24 こもちがたん(子持谷)

25 くちおくんたん(口奥谷)

26 おくんたん(奥谷)

27 いつきだん(齋キ谷)

28 おくおくんたん(奥々ノ谷)

29 たかはた(高畑)

30 やすみば(休場)

31 あてら(阿寺)

32 いっぽんぎ(一本木)

33 ながくぼ(長久保)

34 さんごうだん(三合谷)

35 にしたん(西谷)

36 なかのを(中ノ尾)

37 はらがたん(ハラケ谷)

38 はたけがしり(畑ヶ尻)

39 かみよごでん(上ョゴ殿)

40 なかよごでん(中ヨゴ殿)

41 しもよごでん(下ヨゴ殿)

42 いしなばたけ(石ナ畑)

43 やりこ(ヤリコ)

44 さいまだ(サイマ田)

45 むかいごんど(向今堂)

46 はしごだ(梯子田)

47 おもでん(重モ殿)

48 かみおもでん(上重殿)

49 こだんだ(小谷田)

50 たきのした(滝ノ下)

51 かつら(勝等)

52 にほんまつ(二本松)

山林

53 しもむかいやま(下向山)

54 むねのり(宗則)

55 みづかみ(水上)

56 ぜんまがたん(善間ヶ谷)

57 たかづこう(高頭甲)

58 せんまつやま(千松山)

59 くにさか(国坂)

60 あなばたけ(穴畑)

二、小字のはなし

2 鍋土 東の方は丸岡の鍋戸と隣接して居り、西の方は瓦士として昭和の初め頃まで出土されていた。昔は鍋土(なべつち)としても使われていたと想像される。

3 湯の口 水が不足した時、下橋の下をせき止めて水を取り入れた所。(俗に湯を上げるといった。)

4 猫谷 向山から丸岡寄りで山から畑にかけての一帯を猫谷と呼ぶが、畑の方は現在耕地整理されて田になっている。

いつの頃か、又猫と云われる三匹の老猫がいた。米口の又右ヱ門、菖蒲谷の又左ェ門、上杉本の又兵衛にその猫がいて、毎晩集まって踊っていた。

最初のうちは家の者達も気付かなかったが、朝になると手拭いが濡れているので、不思議に思っていた。ある晩、猫が手拭いをくわえて外へ出るので、家の人が後をつけて行った所、田んぼ道を通り抜け向山の谷へ入って行った。そこにはもう他の二匹の猫達が居て、「えらい遅かったな。」と云った。「家のもんらが寝るのが遅いさけ、なかなか出られなんだんや。さあ踊ろ、踊ろ」と手拭いをかぶった三匹の猫が、「ニャーンとューリャ、俺らは又猫ニャーンとニャンと。」と、手振り足振り面白く浮かれ踊り出した。家の人はびっくり仰天、腰を抜かしてしまった。

猫はその時以来行方不明となったが、その後そこら辺りを猫谷と呼ぶようになった。

5 境目 仏谷と沓掛の境目にあり、冬になると吹雪や雪だまりで遭難する人が多く、命からがら村端の家に救助を求めた。命のさかいめという事から名づけられたという。

6 辻 その一区画だけ区画整理されて整然としていたので辻といった。

7 米仏 米口と仏谷の合致した所であまり古い呼び名ではないらしい。

8 上大上宮 米口区の南、上方に位置しお宮や墓所がある。昔は三昧があり埋葬もした。又出産の際の汚物を捨てる大きな穴もあった。上方の三昧の近くに寺があったが、神社の上にあったので下の方へ移動した。今でも竹林の中に寺の庭園らしい跡が残っている。

9 北の尻 村の北、川下にあり村のおむつ洗い場があった。

12 拾七枚 十七枚の田が続いていた。

13 細畑 山裾に細長く続いた畑で現在は工場敷地になっている。

14 江ゾエ 向山の川に沿った田。

15 畷 堀と米口の旧道沿いで畷になっていた。清水谷山裾にあり、きれいな水が出て食水にも使われている。

18 硲 両側に高い土手があって、その間に挟まれて谷のようになっていた田。

19 栃の木 県道の出来る前は山に続いていて栃の木が生えていたと見られる。

21 村の内 そらでと呼ばれ、大上宮に続いており、昔は家が集中していたが、大正から昭和にかけて県道沿いに転出したり、都会に出たりして村を去る家もかなりあって、山の方から次第に減り、今はそれらの屋敷跡は林や畑と化している。

24 子持谷 奥谷から西の方へ入込んだ小さな谷で、入口の方から見ると山に見える。一反五畝程の田で昔の隠し田と言われている。貧困で生れた子供を間引きする時代には、それだけの隠田があれば子供を持つ事も出来るということから名付けられたという。

27 齋谷 いつきの木が生えていた。嶺続きには最近まで大きないつきの木があって赤い実がたくさんついていた。

29 高畑村 一番の高地にある田で現在は荒地になっている。

30 休み場 昔の糠街道で、米口から菅へ通ずる山道の登り詰めた所にあり、往来の人達の休み場であった。近年、金華山グリーンランドが近くに出来て、休み場の一劃は道路に削り取られたが、地蔵堂は今も残っており道標も書かれてある。この街道は西街道の脇道で、昔府中から海岸(糠浦)へ通ずる抜荷の脇道となっていた。脇道をしようとするには二つの理由が考えられる。その一つは商人達が少しでも利益を多くしようと、問屋口銭の徴収を避けて脇往還を駄送したこと、もう一つは、この商人達に協力し、現金収入を得るため馬持ちの百姓が荷物を積載するというわけだった。

31 阿寺 昔の北陸街道の近くにあり庵寺があったのではないかと思われる。

38 長久保 昔は田で窪地に長く伸びていた。

34 三合谷 土地がやせていて米が少ししか取れなかったので名付けられたという。

38 畑ヶ尻 昔桑畑でその下方の畑をさしている。現在は杉林であるが、「カザエモン」というあまり上質ではないが桑の木が所々に残っている。

42 石ナ畑 石の多い田であった。昭和の初期まで田であったが現在は杉林になっている。

54 宗則 堀地籍の宗則と地続きになっている。戦国時代の落武者、黒田七郎左ェ門宗則が城を構えたが後に焼き落された。

55 水上 川の上流に沿った所で山間には畑もあったが今は山林になっている。

56 善間ヶ谷 土質が特に肥沃で植林しても成長が早く良い谷であるという所から名付けられた。

57 高頭甲 周囲の山より一段抜き出て高いのでこのようにいう。

59 国坂 昔の北陸街道の周辺にある。

60 穴畑 そこだけ特に落ち込んで低い畑であった。

三、いいつたえ

◇偽代官

安政の頃、米ロ村へ偽代官がやって来て、村人達が取押えたという話。

当時、米口村は若狭藩領となっていた。

夏も終り秋の気配が濃くなった頃、若狭藩の代官と名乗る、年の頃なら三十五歳から四十歳位の男が、大、小の刀をさし馬に乗ってやって来た。

庄屋はお代官様の突然の来訪に慌てふためいて、下へも置かぬ心遣いをしていた。代官は「今年の年貢高を調べに来た。あり態に申し述べるように。不作の状況などもあり態に云いなさい。御奉行様に献上物があったら預かって行く。」と、いかにも献上物をすると年貢をまけて貰えるような口振りであった。庄屋は之は長百姓とも相談して考えねばならぬと思っていた。

その時、小野村から注進が来た。それは「どうも偽代官らしいから気をつけた方が良い」という知らせであった。

その時の庄屋は小原弥三右ェ門といゝ、分別のある人であった。そこで酒や御馳走を出しておおいにもてなした。代官はすっかり御機嫌であった。そして夜も遅く、寝る事になった。座敷にふとんを敷き蚊帳を吊った。代官は「何故蚊帳を吊るのか。」と聞くので、「この辺りは山家なのでまだ蚊が居りましてよくおやすみになれんといけませんので。」と答えた。

代官が寝入った頃、庄屋はそっと座敷に忍び込んだ。寝ていると思った代官が「どうしたのか」と云った。「もうそろそろ夜が明けますので雨戸をくらせて頂きます。」と、云いながら素早く代官の傍の刀を取って外へ飛び出した。慌てて後を追いかけた偽代官を、手配してあった在所(部落)の者達が手に手にこん棒を持って真夜中の大格闘を演じ、取押える事が出来た。庄屋は「刀を取上げるのに苦労した。」と、話して居た。

◇米口の常当番

これは明治の頃から今も続いている行事の一つである。墨で常当番と書かれた木の下げ札が隣から廻ってくると、お薬師さんと呼ばれている酒列神社へお詣りするのである。二十四、五軒あるので、月に一回は当番が廻ってくる事になっている。

この村は昔、賭事が大変盛んで、賭事をしないのはお薬師さんだけだといわれる程であった。「いや、お宮さんで開くからお薬師さんも仲間だ。」と、冗談を云う者もいたとか。

一晩のうちに家が動いたといわれる程で、財産を傾け土地を手離す者も多かった。その為に相当の土地が他部落へ移っている。ある時、負け続けて金に窮したあげく皆で相談して、お宮さんのお金を一時拝借する事にした。そしておみくじでお伺いした所が、どうしても御返事が出て来ないのである。之は神様が怒られたのに違いないと考えて、それから皆で毎日お詣りしたら、やっとおみくじがいたゞけたという事である。

それから常当番を作って毎日一軒づつ参詣する事になったのだと伝えられている。

◇糠口の大火

弘化四年(西暦一八四七年)旧暦の七月六日、糖口村のある家から出火し、集落の殆んどが全焼するという大火があった。当時、糠口村の家数は約三〇戸近くあり、今の空手地域に家が集中していた。その時焼け残ったのは、土蔵や小屋一、二戸だけだったと伝えられている。

以来、百四十年余り経過したが、今なお八月六日には、神社で焼祭りの行事が行なわれている。被災後、家を新築する時には吊かもいはいよう(ぜいたく)普請として、固く禁じられたと伝えられている。

「山干飯 小字のはなし」 12 菅(すげ)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

菅(すげ)

糠川の一支流の谷あいにある。かっては河野海岸と府中を結ぶ幹線道路であった西街道(河野‐中山‐湯谷‐当ヶ峰‐広瀬‐府中)の脇道(糠‐菅‐糠口(現在の米口) ‐沓掛‐勝蓮花‐広瀬‐府中)が通り、中山方面、甲楽城方面、安戸、土山方面へ行く道もここで交叉し、往還が多く栄えていた。明治二十九年に敦賀、森田間に汽車が開通し、海路より陸路を利用されるようになってから、西街道を通る荷駄も減少し、西街道の裏道とし、また抜荷道として菅を通過する人も少くなった。明治三十五年に糠口より、菖蒲谷、土山をへて糠へ行く道路ができた事によって菅は山あいに孤立し、急速にさびれ現在は廃村に近い。土山から上る道は急坂だが、糖方面からは車の登る道がつけられ、離村した人々の田畑は糠の人々が求め耕作されている。

当区には天台真成宗円住寺と八幡神社がある。神社には阿弥陀如来の立像、薬師如来、不動明王の三体が安置されている。祭壇の前の精巧な吊灯篭一対石灯篭、石手洗いも備えられ、境内には縦の大木がそびえている。

菅で一軒だけとなった柳下氏(五十四才)の話によると、「明治四十二年に八幡神社の社格の問題(昔は社格により税金の負担が違った)で税金に堪えられないとする者と、我慢して社格を維持しようと云う者の対立があり、その結果維持主張派は負け、御神体を売った。そして、そのご神体もどこへ売ったかもわからなかったが、今、此の事実を知りたくて口伝えに売先の部落名の頭文字に赤がつくと云う事を聞き、それを手掛りに県内の赤と云う字のつく町村を全部尋ね歩いた。そしてとうとう丹生郡越廼村赤坂という所を尋ねた時、私の顔を見るなり、菅から来られたのかと云う古老に出逢った。そして菅の八幡神社の御神体の売買の話を聞かせてもらった。その時の事は、堀の黒田家が神官をしておられた時の事で、今では確かな実情は判らない。

赤坂の老人の話では、赤坂でも買い受けるための金が無く、山林を売却したとの事である。そして今のように海岸線に道がなかったので、山道を御神体を背負って赤坂へお迎えしたとの事である。まだまだこの話には語り尽せないほどの事があるとのこと。しかし、只一つの現実として、赤坂の老人の話では、神様の売買以来、菅、赤坂両部落共滅亡の一途をたどっているという事を老人は話の締めくくりに云われたのが胸に痛くひびいた。これが本当の神罰であると思う」と。

寺の境内の植込みの中に、梅の大きな枯株がある。これは、天台宗真盛派真盛上人(本山滋賀坂本西教寺開山)がこの村に巡錫された時、記念としてお手植されたもので、昭和の初期迄、花も咲いたとの事である。

内陣は金箔塗りで、御本尊は弥陀三尊が安置され、祭壇には高さ三十糎位の金箔菩薩像三十三体が安置されていた。昭和二十七年頃迄は尼僧が在住し、近くの集落の子供達はねはん団子をもらいに行ったものであるが、現在は無住である。これらの仏像は盗難を恐れ、昭和五十二年に全部、味真野の越前の里に預けられたが、街道沿いに栄えていた昔の村の姿をしのばせるものである。

又、菅は美人の産地で、昔の人は”日陰美人”と言う人もあった。

一、小字名

1 かみかみだら(上神多良)

2 なかかみだら(中神多良)

3 きたがたん(北ヶ谷)

4 しもかみだら(下神多良)

5 ちわりだ(千割田)

6 しもきただん(下北谷)

7 かみきただん(上北谷)

8 くぼた(久保田)

9 むらかみ(村の上)

10 あちら(阿知良)

11 いけのくぼ(池ノ窪)

12 まつがたん(松ヶ谷)

13 むらのした(村の下)

14 むらなか(村中)

15 みやだん(宮谷)

16 うらみち(裏道)

17 しちとだ(七斗田)

18 ふるみや(古宮)

19 どうのおく(堂ノ奥)

20 ひがしだん(東谷)

21 ひがしのおく(東ノ奥)

山林

22 ひがしやま(東山)

23 おくらみち(奥浦道)

24 しもあちら(下阿知良)

25 はやのこし(早ノ越)

二、小字のはなし

3 北ヶ谷 6 下北谷 7 上北谷 現在の集落は下北谷に接しているが、もとの集落よりみて北の方に位置していた。北ヶ谷の方より米口の地籍の梯子田、国坂をへて中山へ行く道があった。

8 久保田 14村中 現在の集落のあるところで、お宮もお寺もここにある。(久保田地籍)

9 村の上 現在の集落の上、安戸の上ヶ平と接す。

11 池の窪 溜池がある。尾根境で安戸の五合に接する。

13 村下 集落より糖へ下る道にそった所。

15 宮谷 18 古宮 このあたりに昔は集落があり、お宮もこの地にあったと伝えられている。

19 堂ノ奥 古宮の奥。

16 裏道 宮谷の南で、今はあれてしまったが昔はここより甲楽城、糖へ行く道が通じていた。糠から府中へ行くのに安戸まわりの道はなく、菅をへていくのが一番近道だった。

22 東山 安戸の大江との境目あたりに地蔵さんがある。ここは糠口(現在の米口)から糠の浦へ行く道と、旧坂口村の中山と土山を結ぶ道がこゝで交し四ッ辻となっていたところである。

23 奥浦道 裏道の西側の山林で、村下よりこゝを西南の方向に糠ノ浦へ出る道があった。現在の道よりや糠よりの方だった。糠と境。

25 早ノ越 こゝをおりると安戸区の菅坂-浦河内-沓掛-三滝をへて土山に至る。急な坂道だった。

三、いいつたえ

◇天狗堂のはなし 菅と河野村との境の高い山に(標高二八九五)天狗堂とよばれるお堂があった。何という山か名は知らないが、地元では水天宮とよんでいた。今そのお堂は朽ち果て柱が一本残っているだけであるが、浜の漁師達は沖へでた時、この山を目じるしにしていたという。お堂の建っていた所は河野地籍との境界である。

「山干飯 小字のはなし」 11 安戸(やすと)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

安戸(やすと)

糠川の上流の谷合に位置し、急な崖状態の地に中央の道路を挟んで集落が点在している。昔は天城山と土山の中間にあった。交通が不便なため、現在の所へ移って来たと伝えられている。昔の居住地は今は水田に変っている。かっては三十六戸あったが、今は十四戸しかない。

明治四十四年白山冬期分校が安戸、土山、菅の三年生までを対象に設けられた。昭和十一年に独立校舎が建てられたが、昭和四十五年廃校となり、取壊され、今はバス停になっている。

一、小字名

1 じようがだいら(城ヶ平)

2 しょうずがだいら(清水ヶ平)

3 だいぶつ(大仏)

4 すわやしき(諏訪屋敷)

5 ごだいんやしき(五大院屋敷)

6 おおいわくぼ(大岩窪)

7 くわばらやしき(桑原屋敷)

8 しょづがした(小豆ヶ下)

9 つばきだに(椿谷)

10 ドゥドゥ

11 くちなし(口梨)

12 こうち(河内)

13 としかげ(年陰)

14 じんどぐち(神土ロ)

15 とがお(栂尾)

16 おくとがお(奥栂尾)

17 いわた(岩田)

18 がまだ(蒲田)

19 ノタノ谷

20 あなのくち(穴ノ口)

21 こやがたん(小屋ヶ谷)

22 おおたん(大谷)

23 かみおおたん(上大谷)

24 ろくがたん(六ヶ谷)

25 いっさか(一坂)

26 なしのき(梨ノ木)

27 くぼた(窪田)

28 ちゃのきだん(茶ノ木谷)

29 ちゃのきはら(茶ノ木原)

30 かべがたん(壁ヶ谷)

31 かきだいら(柿平)

32 おく(奥)

33 どうやしき(堂屋敷)

34 ゴンゴ

35 みずのみ(水吞)

36 えのうえ(江ノ上)

37 ちわりだ(千割田)

38 あみあけ(網明)

39 みねのたん(峰ノ谷)

40 みずかみ(水上)

41 かめがちょう(亀ヶ町)

42 あにこもり(兄子森)

43 どうのした(堂ノ下)

44 みたき(111)

45 くつかけ(沓掛)

46 ろくろだん(六呂谷)

47 むかいやま(向山)

48 なかのやまはぎ(中ノ山梨)

49 うらこうち(浦河内)

50 すげんさか(菅坂)

51 おおえ(大江)

山林

52 じょうがみね(城ヶ峰)=くわばら(桑原)

53 みこしだん(見越谷)=つばきだん(椿谷)

54 つぼね(坪根)

55 たかば(高場)

56 だけだ(嶽田)=あみあけ(網明)

57 がだん(峨谷)=おおね(大根)

58 ちゃのき(茶ノ木)=ちゃのきはら(茶ノ木原)

59 あにこのもり(兄子森)

60 むかいやま(向山)=むらむかい(村向)

61 ごんご(五合)=うらこうち(浦河内)

62 じょうがだいら(上ヶ平)

63 のぼりばし(登橋)

二、小字のはなし
1 城ヶ平 今から約八百年程前、安徳天皇の時代の頃、天城山で源平の戦いに破れた平家の残党が立てこもり、そのあたりで生活をしたと伝えられている。かなり広い平坦地である。

2 清水ヶ平 山頂に近い場所で、そこに良質の清水が湧き出ている。当時そこに住みついた人達は、飲み水や、田畑の引水として重宝していたらしい。又、隣接地の杉山地区の住民は食水として利用していた。

3 大仏 北条高時が、鎌倉で新田義貞に討たれようとした時、この地に逃げ延び助けられた。

5 五大院屋敷 この近くには現在も石碑が残っており、先祖の供養の場となっている。

戦国時代に落武者たちが建てたものだと云われている。そのまわりには今でも白いわらびが生え、村人達は、それは武将の髭だといっている。

6 大岩窪 ここに大岩があったのでその名が付いたらしい。

7 桑原屋敷 天城山に立こもった平家の残党が居をかまえたと思われる。その下方に滝がある。馬に乗った武士達が滝を駆け上った折に付けたと言う蹄の跡がある。そこが城ヶ峰の入口である。

9 椿谷 そのあたりに白椿の大木があり、四方にその華麗さを誇っていた。河野の浦、糠の浦、敦賀の浦の漁師達が、沖の海で漁をする時には、航海の目印が安戸の天城山の白椿であったと言う。大漁の時は白椿のお蔭だと天城山を仰いで感謝したと伝えられている。

14 神土口 安戸から別れて神土へ入る口である。

17 岩田 田の中に大きな岩があった。現在は取り去られて、その姿はない。

19 ノタノ谷 天城山から続いているため。

20 穴の口 穴の中で敵が来るのを番をしていたと言われている。

22 大谷その名の通り大きな谷である。

25 一坂 六ヶ谷へ行く道にあり、赤土で三百米程の大きな坂である。

26 梨ノ木 大きな梨ノ木があったと言う。

28 茶ノ木谷 いずれもたくさんの茶の木があったと言うことである。

31 柿平 昔、安戸の水野氏が、三郎柿の木を土手にあちこちに植え、村人達はもらって食べたと言う。現在もその木は残っている。

33 堂屋敷 天城山に立てこもった平家の落武者達は、水が豊富にあり耕地があるので、其の地で暮らしていた。子孫が多くなるにつれ、食糧が次第に必要となったので、山の谷間を次々と田園に開いて行った。次の世代には、堂家敷やゴンゴに人家が増えて行った。又、菖蒲谷へ移り住んだ人もあった。現在でも、菖蒲谷の人達は安戸村に山を持ち、毎年安戸村へ仕事に通っている。

35 水呑 清水が出て、百姓の人達が喉をうるおした。千割田約一町歩の田園に、百二十枚の枚数があり、それ故、その名が付けられたものと思われる。

39 峰ノ谷 高い処にある谷。

40 水上 その名の通り、水の出る上の方を言う。

41 亀ヶ町この地は丁度亀の甲らの様な形をしているのでその名が付けられた。

この地に人が住み付いたのは、天明の時代だと言う。家屋は四十戸程あったらしい。人々は水の出る所を求めて、次々と山を切り開き、田を造って行った。

42 兄子森 兄子森に安戸村の氏神様があり、兄子神社と言う。兄子神社に祀られている御本尊は、金箔に塗られた立派な阿弥陀如来立像である。

安戸村の住民は、自分の兄であり自分の子であと言う意味合いで、兄子と付けて神社を建立し、お祀りしている。兄子の森のお堂は、兄子神社の境内に移してある。

この式内社(奈良時代からあった古い神社のこと)という説もあるが不確実な点もある。

44 三ノ滝 糠の浦より山千飯へ足を運ぶ時、まづ一の滝が目につく。長さ三十間程で菅口にある。二の滝が浦口にあり、高さ三十間程である。三の滝は兄子森の近くを流れる所にある。現在バス停のある所で、かって冬期分校のあった所でもある。高さ五十間程で、通称この三つを合わせて三の滝と呼んでいる。

49 浦河内(浦口ともいう)糠川の上流で、水源を杉山とした川が、安戸で半転、南流をはじめる所で、パッと谷間が広くなる所から浦河内といわれたのだろう。昔は糠浦へ行く道もあり、糠の浦の入口の意で浦口ともいわれたと思われる。

50 菅坂 菅村に登る所の坂である。

61 五合 冷水が出て毎年悪作である為、その名が付けられた。

三、いいつたえ

◇雨乞い

今より二百年前の天明三年に、大飢饉があった。その為に、多くの山を拓いて田を作ったが、久しく雨が降らず、水不足の為大いに困った。

安戸村に、一人の老婆が我が田に水を入れようとして、昼夜水番をして水を取った。怒った村人達は、水不足はこの老婆が独り占めにするからだ。そんなに水が欲しければ、毎日水を取るのが良いと、大勢でその老婆を村の上流、三十六、九番地の前の川底へ、生きたまま、人柱として埋めたそうだ。

ところが、一天俄かに掻き曇り、雨が降り出し、ついに大雨となり、一度に水不足が解消された。村人達は老婆のおかげと、その後供養を続けたのである。

それ以来、水不足の時には老婆の供養にと神主に来てもらい、婆上げの行事を行ない、雨乞いを行ったのである。

しかしながら、その大雨が一方では災いして糠川が氾濫し、村の上の家二、三軒が水に流された。その為、糠の村人達は大いに怒り安戸村へ抗議を申し込み、二度とこの様な事はしてくれるなと、大争いをしたと言う。

◇つり鍾

昔、宇都宮美継氏の家の上に、寺ヶ谷という所があり、お寺が建っていた。ある時、山津波があり、お寺やつり鍾が流された。流される途中つり鍾だけは、小俣久一氏宅の倉屋敷の下の方に止まり、土に深く埋もれたままになっているという。

◇大きな古ごけ

安戸に冬期分校があった頃、そこに昔大きい古ごけがあった。そのこけが、昨日も、今日もと毎日出てくるので、ある人が昼そこへ行って、「お前は何が一番きらいか。」と聞いたら、そのこけは、「私はおつゆが一番きらいだ。」といったので、その人はおつゆを大きい古ごけにぶっかけたら死んでしまったといわれている。今でも大きい古ごけのあったところには、大きい古ごけの株がある。

◇白蛇

安戸にむかし川崎という家があったが、全部病気で死んでしまい、人も寄らず、葬式もせずほったらかしにしておいた。その家が空家になると、そこへ白蛇が現われ、柱に苦しい態で巻きついていたという。下の三滝という所にお墓がある。大水がついてもその墓は流れないといわれている。

◇糠川

糠の魚、生魚は鮮度を落しては価格も半減するところから、ボテさんにより、舟が湊につくのを待って急送された。塩をふりかけておくと、武生へ着く頃には、魚も結構よい塩加減に塩味がきき、鮮度もおちなかった。

「山干飯 小字のはなし」 10 小谷(こだに)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

小谷(こだに)

小谷村は、昔、道路を境に土山村と相対しており、右が土山、左を小谷と昔の旧道にて形付けられていた。

現在の両村の中央が県道に変り、家の移転などで昔の形は残っていない。小谷村は小谷として地番号も元のままで戸数は十戸である。

この地に屋号を小谷さんと言われる家があるが、この家は昔、堀村に城をかまえていた黒田七郎左ェ門宗則という城主が居たが、織田信長の城攻めで落城し、ここ小谷に逃れた。後争いが静まったため、先祖の黒田三郎兵衛のみを残し、再び堀村にもどったということだ。(山寺谷の下に小谷清水と名付けた池があったので、ここに居をかまえたものと思われる。)現在も黒田三郎兵衛氏の屋号呼名を小谷(こだんさん)と呼んでいる。糠に通ずる道端にあったため、昔は旅人の休場になっていた。

松前船が糠浦の沖に停泊し、昆布、肥料、干だら、塩ざけなど北海産物を武生に送る荷が着くたびに、村々より人夫が集まり、広瀬の問屋まで背負って運んだ。賃金は木札の鑑札で、広瀬の問屋で運賃の精算をした。一日に二往復したと聞く。この荷運びも県道が明治十九年に開通し、また、北陸線の開通により便利になった。

一、小字名

1 とうげ(峠ゲ)

2 さがりで(下り出)

3 ながたん(永谷)

4 ぜんまがたん(善間ヶ谷)

5 あかさか(赤坂)

6 うしろがたん(後谷)

7 ひがしたん(東谷)

8 ちぎんだ(契田)

9 のせ(野瀬)

10 やまでら(山寺)

11 むらのうち(村の内)

12 にんにやま(右山)

13 うしろやま(後山)

14 そばたん(添場谷)

15 どうかべ(堂壁)

16 くつかけ(沓掛)

17 はらいだに(払谷)

18 どうでん(土田)

19 さんごうだん(三合谷)

20 かげひら(蔭平)

21 のぼりばし(登橋)

22 ゆのくち(湯ノロ)

23 かもとりだ(鴨坂田)

24 むろいわ(室岩)

25 おおえ(大江)

26 じうがたいら(上ヶ平)

山林

27 かみどうでん(上土田)

28 かみくつかけ(上沓掛)

29 かみにんやま(上右山)

30 かみあかさか(上赤坂)

31 かみうしろだん(上後谷)

二、小字のはなし

1 峠 ①そら峠、米口村との分水嶺となる峠で、これより小谷村の方の水は糠川へ流れ、米口の方の水は吉野瀬川へ流れそら峠とよんでいる。②下峠菖蒲谷と土山村の峠を下峠とよんでいる。

2 下り出 峠より下りてきたところ

3 永谷 土山小谷よりそら峠に行く谷で一番奥深く長い谷である。

4 善間ヶ谷 谷は浅いが湧水が太くて大事な用水である。

5 赤坂 赤坂は文字通り赤色の土が出る。土山からお宮の下の坂道を登った所に、赤坂のおん堂さんと呼ばれた地蔵堂があり、正面に聖観音様と、二体の地蔵様が祀ってあった。

昔、親子四人の乞食が来て家々を廻り食べ物を乞うたが、飢饉の年でだれも食べ物をやらなかったため親子四人とも死んでしまった。七左ェ門はこの親子の供養のため、安永四年石地蔵をつくった。今は寺の地蔵堂に観音様とともに一体は安置されており、もう一体の地蔵尊は長助に帰りたいとの行者様のおつげがあったので、長助がお世話をしている。毎年七月二十四日講中により夕方か御詠歌をあげて供養をしている。

6 後谷 赤坂の後の谷である。

7 東谷 村の東方にあり、土山十六字東谷地籍の続きである。

8 契田 金華山遊園地へ行く広域林道の入口。

9 野瀬 昔からの屋敷跡で、タッチョウ長者屋敷跡がある。今は段々畑となり柿の木、杉を植林してある。

10 山寺 古寺跡か、谷の出口は五輪塔が三つ四つあったが今は土中にうずまっている。寺の過去帳に山寺甚六名とある。

11 村の内 小谷村の宅地である。明治中期の実話に、この村に欲のない女乞食がいて、お宮をねぐらにして毎日家々を廻り食べものを乞うていた。一日腹がはれば明日の事は何も考えず、村の皆んなにかわいがられていた。ある年弥右ェ門に来て食を乞うだが、どうしたことか門口でうずくまったままこと切れた。村人たちが集って葬式、野辺送りをしたが、その時村の若者のひとりが乞食の足の裏に、越前の国小谷村、村乞食の名を墨で黒々と書いた。
 二、三年たって大阪から一人の紳士が尋ねて来て、「我が家に赤子が今年生まれたところが、足裏に名前が書いてあった。行者が見て言うには死亡した所の土をもらって洗えば消えると聞き、お宮の土をいただきに来た」と言って土を持って帰られた。 大阪の豪商の家に生まれ変ったのだそうな。

12 右山 村より右の方の山畑地である。

13 後山 昔、小谷村の鎮守秋葉神社の社があった。 明治三十六年土山村神明神社と合祀されて現在地 土山の三十字上赤坂の地に新社殿を建てた。

後山の鎮守堂は大昔、土山の二十三字真久保の古宮地にあったのかもしれない。古来鎮守字堂の下にあったので、堂下という名になった。

14 添場谷 この谷の開田は谷水を高台に引く時に通 水のトンネル(横穴)を掘り水を引き、初めに六十刈(一反)を開田、後に八十刈を開き溜池を造用水とした。

15 堂壁 糠蒲への旧道で十六字 沓掛に続く糠川に そった旧道である。 30 上赤坂 土山、小谷村の神社がある。 明治三十六年秋葉山神社、神明神社を合祀した。この時神社の登る中間に山の神のお堂があったのを現在地に社殿を新築して(神社の左の土地)うつした。昭和二十八年頃までは、十二月八日の山祭りには山仕事にたずさわる人々(木びき、炭焼等)は御神酒やぼたもちを持ってお詣りをした。神前に献灯し、三宝を神前に並べ、その上に酒をそそぎ拝礼して帰った。九日は一日休養した。女の人はお詣りすることは禁じられていた。

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