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「山干飯 小字のはなし」 09 土山(つちやま)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

土山(つちやま)

古来より土山村と称したと思われる。泰澄大師が越前山干飯に来錫されて一村一宿坊を造られて宿坊に坊守をおき、村々の信仰の中心となされた。(白山神社に四十八坊ありというのは、山干飯四十八ヶ村に一坊をおいたことをいうのである。)

土山のお宮地は、土山十四字西山の二十九番地にあり、西山の中腹にあって古来よりの坊跡である。祭神は文珠菩薩木像同不動明王像十一面観世音像三尊像で、この仏像について、願成寺世代住職が修覆再興をした記録が仏像台座に書いてある。

願成寺の開創は応安五年、今より六百五十年前であるから、土山村開村以来の神宮本尊であり一村一坊の守護神であったと思われる。

土山の土地は、一帯が土のみで、石は無く、広域林道工事者も、土山の田地の改良工事(耕地整理)をした方々も、「私等三十年来工事の仕事をしているが、このような土ばかりの所ははじめてで、土山の名の通りですね。」と言われていた。山を三十米、 四十米も切り開き道路を造ったが、心土まで土であり、石は一個も出なかったと言うことだ。一千何百年来土山村と呼ばれていたのも、この理由からでなかろうか。

一、小字名

1 かみはたがだん(上畑ヶ谷)

2 はたがたん(畑ヶ谷)

3 ちがだいら(血ヶ平)

4 つじどおり(辻通)

5 てらだ(寺田)

6 てらのおもて(寺表)

7 はかんたん(墓ノ谷)

8 てらのおく(寺ノ奥)

9 だけ(嶽)

10 なかのたに(中ノ谷)

11 にしのたに(西ノ谷)

12 なかにし(中西)

13 だいもん(大門)

14 にしやま(西山)

15 むらのした(村下)

16 ひがしたん(東谷)

17 そんばたん(添場谷)

18 どうでん(土田)

19 さんごうだん(三合谷)

山林

20 きたはら(北原)

21 かみひがしたん(上東谷)

22 まくぼ(真久保)

23 のぼりばし(登橋)

24 ゆぐち(湯口)

25 はらいだん(払谷)

26 ごんご(言語)

27 あおいけ(青池)

28 としかげ(年蔭)

29 やなぎくぼ(柳久保)

二、小字のはなし

1 上畑ヶ谷 昔から畑地で山裾は傾斜地だが肥沃なので段切りをして、山桐、うるしの木、桑の木、三つ種、こうぞ等を植えた。

山桐は実から桐油を絞って行灯に用いたが暗いので、菜種油を二割程混合して使った。食用にならず、雨ガッパ、提灯、番傘等防水用に使用した。実は持主が二回拾った後は誰でも自由に拾ってもよかった。木が大きくなれば実も少なく、収穫もだんだん減ってくる。こうして役にたたなくなった木は下駄に使われた。重いが歩いても歯は減らず一般向きであった。

冬期は三つ椏、こうぞの皮はぎをした。桑の木は高くなるので梯子を架けて葉をつんだが、近年の刈り桑の木とはちがい小さな葉だった。桑の大樹は上等品の家具に造られ、舟ダンス、茶ダンス、箱火鉢、お椀の木地等になった。根は干して桑酒に入れた。鯖江の宿場に薬酒の酒造り屋があった。この土地は明治十年頃開田したが、用水が少ないため、山腹に横穴を掘ったところ、たくさんの湧水が出たので、近隣の村々より見学に来たそうである。

2 畑ヶ谷 九字の嶽より続いている地籍で、明治初年の頃、古老の話に「うららが田の草取りに行くと、上の高い田の土堤の眺めの良い所に肉獅子やカモシカがたくさんいて、日長の一日中草取唄をうたうのを聞いて見おろしていた・・・・」と。カモシカは毎日出てきたが、人にもおそれず害もなかったそうな。

3 血ヶ平 この地籍は菖蒲谷の一字血ヶ平の続きで、土山三字血ヶ平となっていて、四字辻通りに続いている。明治初年までは辻通りまで開田してあり、血ヶ平、畑ヶ谷の谷窪はしょぶしょぶの赤そぶの湧く湿地帯であった。

4 辻通り 願成寺元寺の屋敷前の道路で、糠浦へ通じ、現在の寺入口のT字路になっている。この道路の右の田は昔から風呂の下と呼ばれており、七堂伽藍のあった時の湯殿跡である。

寺の入口より五十米程上り、米ロと菖蒲谷に行く分れ道に、辻の地蔵堂があった。今は寺の石段の登り口に移されているが、地蔵堂には地蔵様一体とほかに立像二体があり、桃山時代かそれ以前の作といわれている。

辻通のしも土山字大門との境の川に極楽橋がある。この橋台は大石三個で出来ており、左の石は平石一個、右の石は二個となっている。昔碑をこわして橋をつくったという記録がある。

5 寺田 願成寺元寺屋敷で七堂伽藍の跡を享和年間に開田した。三反歩位ある。御朱印地は年貢を納入せずとも良いので、願成寺には三石四斗七升の年貢諸役免除の殿様(松平家代々)の書付がある。

6 寺の表 願成寺の一部開田したところ。昔、飢饉の年に土山村の大門氏が開田した時、仕事に来た人に手間代として一日に米五合を支払った。約一反歩位あったらしい。仕事に来た人々も飢饉のため粗食で十分な力仕事は出来なかったようである。

7 墓の谷 昔から土山の墓地で、願成寺初代からの墓や、村の家々の墓もあり、願成寺開山第一世芳・祖厳禅師の無縫塔がある(卵塔とも言っている)村の総墓で宝篋印塔一基があり、ともに昭和四十九年十一月一日に武生市の文化財に指定された。南北朝時代の手法をよく残している。農道改修の際寺墓地石段三段を無くして前面を道としたため元の形はない。

8 寺の奥 元願成寺の奥の谷で、この上が九字嶽地籍となっている。

9 嶽 寺の奥の上台地である。昔は田地だったが、今は杉が植えてあるが、それ以前は山桑、油桐木、三ッ匣、こうぞ等も植えてあった。その上は大杉林で中腹に安戸の天城へ行く道があり、菖蒲谷の血ヶ平より続く道である。

ここにまつわる話に、「或る日村の鶏が時の声をあげて、コレコッコーと鳴いたら、嶽山が火事となり、たくさん切り倒してあった大木は黒こげになってしまった。」と。それよりめんどりが鳴くと不吉であると言い伝えられている。

10 中の谷 この谷は日当りが良くて不作で飢饉の年であっても種子もみはあったという。谷の中央に清水がわき、この池で田を養っている。

11 西の谷 村の西方の谷で、中の谷より西の谷へ通じる山道がある。山の窪地に二坪程の平地があり、そこはこけがはえていて日当りも良く、人目にもつかず休場として格好の地であったため、村人は仕事に行くように見せかけ、ここに集ったという。

12 中西 西の谷続きで、谷の下の方で山腹に横穴を掘り用水にしている。

13 大門 元願成寺の入口にこの名があり、土山村の屋敷地である。橋本氏の屋号呼名を大門と言うのも、寺の大門に宅地を定めたので呼名になった。

14 西山 昔から畑地で、日当りよく作物がよく育ち、村の季節の野菜の多くはここで作る。山桑、こうぞ、油桐を植えた時代もあり、戦時中は食料増産でさつま芋、麦をたくさん作り供出した。この地籍の右方に村のお宮さんの旧地跡があり、近年は杉を植林して、耕地は少くなってきた。初めてキャベツを作った時、炊いて食べたら昆布を炊いて食べたような味がしたと古老が言っていた。

15 村下 小谷十一字の内に続き、佐内屋敷跡があるが、畑となり近年は杉を植林してある。

16 東谷 村より東方にあって小谷六字後谷と七字東谷の上の谷である。多くは溜池を用水としている。高台の田は百年程前に開田したと思われる。

17 添場谷 昔から添場谷と呼ばれていた。そばを作った谷かも知らず、そばは蒔いて八十日か百日位たてば刈り取られる作物で、非常に作りやすく貯蔵も出来、粟、きびに次ぐ大切な食料であった。茎はよく乾燥して繭から糸を取る時のゆで汁、あく湯に使用(茎を燃して灰にし、ざるにとり湯をかけて一夜おき、その上ずみのあく水を使った)他の灰のあくより良く糸が引けた。

18 土田 糠谷に面した山で日当りが良い。山の中腹へ谷水を引き開田した。安戸、土山、小谷地区の山中の田は、日当りが良く、水の便があれば開田したと思われる。帯のように長い田がたくさんある。

19 三合谷 今は山林となった。

20 北原 土山村の北方の山地山林をいう。

21 上東谷 土山村の東方山地。

22 真久保旧古宮の地名があり、昔の秋葉山神社の跡である。

24 湯口 大昔湯が湧き出たところであろう。小谷村2字湯の口の近くである。河野村糠浦へ流れる糠川の源は、杉山、神土の山の中にあり、(安戸村天城の水も杉山谷へ流れている)菅の川水を合わせて糠の海に入る。この谷は切り立った岩石が多いが甲楽城断層の割目であろう。越前町の温泉の湧く血ヶ平の谷も岩山で両側が切りたっているがよく似ているように思う。地下に湯脈があり湧き出していた事があるのだろう。

三、いいつたえ

◇神明

土山、小谷村に神明講があり、毎月、月初めに廻り番に当番を定めて夕方集まる。(原則として男子)集まった者は手を洗い清め、神前にぬかずき般若心経を唱える。そのあと持ちよったお酒と当番にあたった家の手づくりの料理で食事をし一夜を楽しんでいる。昔は、五品位の副食を用意し(ごはんはめいめいが重箱につめて持ち寄った。)残ったものは重箱につめて持ち帰ったが、今は簡単なものになった。

「山干飯 小字のはなし」 08 堀(ほり)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

堀(ほり)

堀という名の由来は明らかではないが、集落背後の丘上に、城中、城場という字名が残っているところから城があったのではないかといわれている。城中の四方に堀切りの跡があり、そのため下の方一面は窪地になっており、水溜りが多かったため、堀と名付けられたと言われている。(堀の跡とも言われている。)

集落は城中と御清水ヶ谷の一部を宅地としていたが、現在はこの元の村より西の方へとのびてゆき、勘定場、城戸ノロ、上中江、暮坪と家数が増えていった。

城のあったといわれる場所より東の方へ下ると谷があり、そこに飲料水が出ている。城は二階堂城の支城であり、城主は堀村の開祖であったと伝えられているところから、古来より栄えた村ではないかと思われる。

武生‐米ノ線を結ぶ街道は、昔は村の真向いの経ノ尾の麓を通っていたが、明治二十九年の道路改修によって県道が村の前を通るようになったため、今は廃道となっている。

堀には三柱神社があったが、大正九年(一九二〇)に山千飯の総社である二階堂の白山神社に合祀された。

村の中央に京都本隆寺の末寺である法華宗真門流妙証寺がある。この寺の開基は足利時代の中期といわれている。昭和三十七年に十七世が入寂されて以来無住となっているが、壇家がよく管理し行事を守っている。

明治八年には御清水ヶ谷の畑地に十五ヶ村共同で温故小学校が新築され、以来三十五年に二階堂に新校舎が出来るまで開校されていた。昭和になってもその畑から石墨などが出て来たという。

明治三十四年には、堀郵便局が置かれ、以来民家の一部を局舎にあてていたが、昭和初期に現在の上村下に初めて白山郵便局として独立の局舎が新設された。

県道が改修されてから、地区の重要な建物が建てられ、色々な商家も増えて行き種類も十一あり、栄えて行く集落といえよう。

大正に入って安戸から出て来た木股氏が、上中江に居を構えて風呂屋をはじめた。経ノ尾の麓から良い水が湧き出て、皮膚病や神経痛に効くと評判になり、米を持って泊り込む湯治客も多かったという。近くの人は大人は二銭、子供は一銭で入浴に行ったといわれる。後に床屋も開業し、散髪をしたお客さんは、無料で入浴したという。風呂屋は十二年頃に廃業し床屋だけとなった。

最近まで富山の薬屋さんの定宿となっていた。現在でもその付近は良い水が豊富に出るので飲料水として多くの人が利用している。

朶村に小谷があった。織田信長の兵火に焼かれた堀城の人達が小谷に逃れた。しかし、平穏になってから三郎兵衛という人を残して再び堀に帰ったといわれ、そのため堀の朶村になったという。現在は土山に近いため土山の朶村となっている。

一、小字名

1 おくおおいわ(奥大岩)

2 たかいら(高平)

3 おくみなみだん(奥南谷)

4 なかみなみだん(中南谷)

5 なかおおいわ(中大岩)

6 くちみなみだん(口南谷)

7 くちおおいわ(ロ大岩)

8 きどのくち(城戸ノロ)

9 かみくれつぼ(上暮坪)

10 なかくれつぼ(中暮坪)

11 しもくれつぼ(下暮坪)

12 かんじょうば(勘定場)

13 かみなかえ(上中江)

14 ゆぶりだん(湯降谷)

15 しもなかえ(下中江)

16 しもむらじた(下村下)

17 かみむらじた(上村下)

18 しろのなか(城ノ中)

19 おしょうずがだん(御清水ヶ谷)

20 おおいなば(大稲場)

21 げたがたん(下田ヶ谷)

山林

22 とうげ(峠)

23 りょうたん(両谷)

24 きどのおく(城戸ノ奥)

25 むねのり(宗則)

26 しろば(城場)

27 きょうのお(経ノ尾)

28 きょうがみさき(経ヶ岬)

二、小字のはなし

1 大岩 その名の通り、谷の奥の所に大きな岩があり、以前はその岩まで田であった。全面に苔が生えており、いつも水がしたたり落ち、巨岩の相を持っていたが、今は森林に囲まれてその俤はない。

2 高平 南谷の奥地で、普通ならば狭くなるのだが幅の広い地域があるので、高平と名付けられたのだろうか。

4 南谷 山千飯四十八ヶ郷の総社であった白山神社を起点として考えると、南にあるので南谷となったのか、中野村の北谷と思い合せるとこの考えもなりたつのである。

8 城戸ノロ 伝説としては何もないが、二階堂、及び堀に城のあったことを考えると此処に城戸のあったことは当然と思われる。しかし、それがいずれの城のものであるかはわからないが、二階堂城が本城で、堀城が支城であったと伝えられるところから、二階堂城のものかとも考えられる。一部は宅地にもなっている。

9 暮坪 遠く口分田の昔に拓かれていた田には、暮と呼ばれている地名もあるらしいが、暮坪はその頃、田であったかどうかは疑わしい。しかし四方が道路で囲まれ、二筋の作道で上、中、下に区分されており、高低が少なく、しかも最近の耕地整理に多くの神代杉が掘り起されたことを思うと、相当早く開墾されたものと思われる。

12 勘定場 堀城の勘定奉行所があったのかも知れない。又、その建物の敷地であったとも考えられる。

13 上中江 この字の中に桜町という田もある。かっては、桜の木でもあったのだろうか。上、中、下に分かれたこの田からも、耕地整理に神代杉が多く掘り出された。

14 湯降谷村の真向いので、畑になっているが、飲み水が湧き出ている。昔は湯であったと伝えられている。

16 下村下 元の村の下にあるのでそうよんだと思われる。この地は粘土質のため、明治三十二年頃に、瓦工場が建てられた。経営者は代ったが、昭和三十年頃までつづけられた。

18 城の中 通称、城中(じょうなか)といわれている。宅地の一部と、後の畑地で、頂上は広い台地となっており、城塞があったのではなかろうかと思われる。

19 御清水ヶ谷 宅地の一部と後の畑地となっている。この地の一画に温故小学校が建てられた。明治八年から三十三年まで開かれていた。

かって城の飲料水に使用されたのも、この谷の水であったかと思われる。耕地整理が出来るまでは、四町程の田を養なっていたが、今は水量も減り少なくなっている。

25 宗則 城ノ中から尾根伝いに行くと、宗則の頂上に出る。一面平地になっており、ここに堀城の本城があり、城主は、宗則成ノ守といったという。城ノ中の畑地と共に、独立した丘陵で眺望も良く、海岸の方も、府中の方も一望の内にあって、城のあったのも成程と肯けるのである。

この城も織田信長の兵火に焼かれたといわれ、この字名も城主の名前が付けられたと伝えられている。

27 経ノ尾 堀の正面の山で、通称向山とよんでいる。その頂上に村人の安泰を願って、法華経経文を書いた一字一石が埋められているといわれ、そのため経ノ尾と名付けられたという。又、その頂上に大きな松があり、村人は経の松と呼んだ。かなり遠くから眺められ、枝ぶりも良く、山の象徴として仰いだが、十年程前から枯れ初め、今は姿を見ることは出来ない。

白山地区に給水される水道の上水槽がこの経ノ尾の北端に作られるといわれている。

28 経ヶ岬 経ノ尾の東南につき出ているため、そうよばれたらしい。米口地域の猫谷と地続きである。

「山干飯 小字のはなし」 07 菖蒲谷(しょうぶだに)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

上菖蒲谷(しょうぶだに)

昔は岡と呼ばれる真向いの小高い場所に集落があったらしい。谷合いへ降りたのは何時の頃かわからないが、明治末頃は十四、五戸程であったという。

美しい大字名は、その昔菖蒲の花が咲いていたのかもしれない。川上に位置するため、美しい澄んだ水が絶えず流れ、南に面した暖い集落である。

県道が改修されてから、白山地区の中心地となったため、家数が二十五戸になった。隣接する堀とともに山村でありながら戸数が増えていった。

菖蒲谷は昔から、医者を開業していた人が多かった。明治の末、今の歯科医の篠山先生の父親に当る範先生という方が、内科医を開業された。漢方薬や、富山の置薬に頼っていた村人は大喜びであった。しかし、この人は若くして亡くなられ、その後、この場所で、佐々木先生、丹尾先生、似生先生、谷口先生、野尻先生と次々と開業され、診療に当って来られた。

この地で亡くなられた谷口先生以外の方々は村を去られた。その間無医村であったこともあり、地区民としては大きな不安であった。病人は、武生や宮崎村、また糠浦まで診てもらいに行ったが、戦争中であったため、車もなく、リヤカーや戸板にのせれて行った人もある。現在は地元出身である高橋先生が開業されて、地区民はこれ以上のよろこびはないと安堵している。

土山の願成寺の文書によると、菖蒲谷、土山、安戸に山争いがあり、天正十九年三月十四日山境の取り決めが行われたとある。

一、山の大場については大嶺、南平の横道を境にする事。

一、山に入ることの出来る者は菖蒲谷、土山、安戸で切り出しが出来る。

一、三ヶ村のうち菖蒲谷は持ち山が多いので、土山、安戸の者が山を利用した請料として毎年米五斗を菖蒲谷に納める事。となっている。

一、小字名

1 ちがだいら(血ヶ平)

2 こだに(小谷)

3 いなば(土地稲場)

4 はかんたに(墓ヶ谷)

5 むらのおく(村ノ奥)

6 おおひら(大平)

7 たかひら(高平)

8 みなみだん(南谷)

9 しもみなみ(下南)

10 このうえ(家ノ上)

11 おか(岡)

12 たけのこし(竹ノ腰)

13 ひのきだん(桧谷)

14 うやま(宇山)

15 はしがたに(橋ヶ谷)

16 ばんば(馬場)

17 みやのまえ(宮ノ前)

18 しもばんば(下馬場)

19 ののこし(野ノ腰)

20 よこまくら(横枕)

21 ごたんだ(五反田)

22 むかいかわ(向河原)

山林

23 たけのこし(上野ノ腰)

24 とうげ(峠)

25 かみちがだいら(上血ヶ平)

26 かみおおひら(上大平)

27 かみむねあげ(上宗上)

28 かみはしがたん(上橋ヶ谷)

29 かみみなみだん(上南谷)

30 かみたかひら(上高平)

31 おおいわ(大岩)

32 かきだいら(柿平)

33 ろくがたん(録ヶ谷)

二、小字のはなし

1 血ヶ平 山林上血ヶ平の下手の谷であり、土山の③血ヶ平の地続きでかっては田であったらしいが、今は山林になっているのか、田としてこの字名を知る人もない。

2 小谷 菖蒲谷から土山を経て糠に至る県道沿いの小さな谷

3 土地稲場 集落の奥の南向きの小高い所にあり、日当り良く昔は稲架の場であった。

4 墓ヶ谷 以前にこのあたりの田を整地したら、五輪の塔の頭が出て来たので、昔は墓場だったのかと思われる。

5 村の奥 集落を通り越して村の奥にある。

6 大平 山林上大平の下にある。

7 高平 山林上高平の下にある。

8 南谷 堀地籍の南谷の地続きであり、上手にあたる。

9 下南谷 総社白山神社を中心として南方に当る谷なのでそう呼ばれたものと思われる。

10 家の上 集落の奥の上方にある。

11 岡 ここに集落の氏神である白山神社がある。菖蒲谷の村も、もとはここにあったという。集落の南方の小高い丘陵地で日当りが良く、かっては秋になるとここに稲架が立ち並んだそうだ。夕方遅くまで稲刈りをして疲れた体で稲を背負って、この岡に登るのはとても辛かったそうで、稲を架け終えて家に帰る頃には真暗になり、手さぐり足さぐりで帰ったと言う。

12 竹の腰 この奥の谷は竹藪であったそうだ。

13 桧谷 大きな桧でもあったのか。

14 宇山 村の上で畠がたくさんあり、昔はここにも家が建っていたそうだ。

16 馬場 18下馬場 その昔七十五町歩、七堂加藍の建物を誇った山千飯四十八ヶ村の総社白山神社の直線に当り、おそらく馬場として使用されたのであろう。通称仮屋ともいわれており、白山神社の三十三年毎のお渡りの祭礼の前夜、神社をお出ましになった神様を一夜仮の小屋を作って安置したので仮屋と言う名が出来たそうだ。

17 宮の前 二階堂より中野に通じる県道沿いの左側の山に総社白山神社の下の宮があったそうである。

21 五反田 都辺の地続きでここに菖蒲谷の田が五反あったのだろうか。

22 向河原 二階堂より中野に通じる県道近くにあり、千合谷の解雷ヶ清水を原流とする天王川の菖蒲谷より見て向側となる。

24 峠 菖蒲谷より土山に通じる県道近くにある。

35 上血ヶ平 この山に昔は火打石の原石が出たが、各村から来て取り尽され、今はほら穴のみ残っている。

26 大平 大きな斜面だからか。

30 上高平 南谷の奥に当り広い斜面が高い所にあるからこの名が出来たのか。

31 大岩 堀の大岩の地続きで山の中腹に大きな岩がはり出して居る。今は杉の木が大きくなって見る事が出来ない。

32 柿ヶ平 安戸の柿ヶ平の地続きである。

33 緑ヶ谷 戦前は参剝山(二ヶ村以上共有の山)この山は菖蒲谷、土山、安戸の共有で菖蒲谷は一番奥の山。

三、いいつたえ

◇嶽の一本松

大きな枝ぶりの良い松で、嶽は土山地籍だが、菖蒲谷より安戸の天井へ行く山の高い所にあり、山の行き帰りの目安として菖蒲谷の人に親しまれていた。また、この松にかかるお日様を見て時間を計ったともいう。今は枯れてない。

◇寺

場所は定かではないが、江戸末期まで天台宗の寺院があったそうだ。御本尊は現在菖蒲谷の白山神社に安置されてあるそうで、この仏像は名のある人の作と言われているが、文化三年の供養の時、傷みが激しいので修理に出した所、その修理の仕方が悪かったので文化財には認められなかったと言う。

◇古墳

昭和四十九年天城への登山道路を作る時、この白山神社の境内から鎌倉末期のものと思われる骨壺が出土している。骨壺の周囲は玉石で囲まれ、更に刻み石で囲んであって直経三十糎程の物が三個あった。その一個の中には骨らしきものが入っていた。この神社の境内にはまだ残された古墳があるのではないかと言われている。

◇お医者じようせん

通称じょうせんと言う地名がある。坂田氏宅の上の台地で、ここに昔じょうせんさんと言うお医者さんがあったそうである。また、このお医者さんは坂田氏一族であったとも言われている。

◇筆塚

中村氏と言う学者がおり、近くの子弟を集めて学問を教えたと言う。その徳を偲んで子弟達で筆塚を建て後世に伝えた。

◇田争い

六ヶ谷の山林の下の谷は、安戸の六ヶ谷と呼ぶ田になっている。この田で昔菖蒲谷と安戸が争ったそうである。この谷は菖蒲谷が苦労して切り開いた大切な田であった。どうしたいきさつか安戸がこの田を我が田だと言い出し、お互いにゆずらず話し合いがつかない。皆で相談の上、では領主様に願い出て決めてもらおうと言うことになった。

両方の庄屋が幾日もかかって領主様の所へ行き、お互いの言い分を申し上げたそうな。領主様はどちらとも言わず、

「お前たち田植えはすんだのか。」

「はい、全部終りました。」

「菖蒲谷は何を植えたか。」

「はい、早稲を植えました。」

「安戸は。」

「はい、赤い穂の出るもちを植えました。」

とそれぞれ答えた。

「では穂の出る秋まで待とう。」

と言うことになった。

そして、いよいよ秋になり、待ちに待った穂が出たが、それは一面赤い穂のもちだったので、菖蒲谷の負けとなったそうである。菖蒲谷はたしかに早稲を植えたのになぜ赤い穂が出たのかと言えば、安戸のある家にとてもてなわん婆さんが居て、菖蒲谷が田植えしたその夜一晩の間に全部植え替えてしまったのであった。

大切な田を取られた菖蒲谷は、「おのれこの恨みは孫子の代まで忘れんぞ」と口惜し涙をのんだそうである。それ以来菖蒲谷と安戸は一組の縁組も無かったと言う。 しかし、最近では昔の争いはどこへやら、今ではその田んぼも植林されたり、減反のため昔の田の面影はない。

「山干飯 小字のはなし」 06 千合谷(せんごうだに)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

上千合谷(せんごうだに)

天王川の最上流部の谷合いにあり、千合谷の名の通り、谷の数が多いところからその名が由来しているといわれている。西方の山を越すと米ノ浦に達する。

集落の北西方には、二階堂町白山神社の奥の院といわれる白山神社があり、西方の御山には解雷ヶ清水(けらがしょううず)がある。

この解雷ヶ清水には、古く朝鮮、百済国の王女自在女(さいめ)が国難を避けて、干飯浦(米ノ浦)に上陸し、さらに奥地へ山を分け入り、千合谷へ向った。途中従者は水を求めたが、周りに見つからなかったので、王女は脚元の岩を杖で突いたところ、美しい冷水が渾々と湧き出し、従者の咽の渇きをいやすことが出来たという言い伝えが今も残っている。以来、由緒深い霊地として社を建て、不動明王を祀り、昔から毎年七月七日にはお祭りを行っている。村人はそれぞれ花を一輪づつ器に入れて手にしながらおまいりをしたものであった。また、雨乞いの神でもあり、天王川の水源地として、今でもこの水が渇れることはなく、一分と手がつけられないくらい冷たく清らかな水が流れている。

山干飯隧道が出来るまでは、米ノ浦から魚を売りに出るボテ振りさん達は、峠を越えると必ずこの水で魚を冷やし、府中の方まで売りに行ったという。冷たいため魚の鮮度を保つことが出来たらしい。

五十年頃までは、千合谷の人達はこの水で顔を洗い、野菜や食器も洗った。しかしこの頃では家屋の改造にともない、水洗トイレが普及され、汚水が流されるようになったので、そうしたことも昔話になってしまった。

今日まで、一回も火事を出したことがなく、これもお不動様のおかげと村人はいいつたえている。祭りの前日は、子供達が社周辺の草刈りや清掃を担当していたが、いつの頃からかその行事もなくなった。昭和五十五年には、茱原田、八斗田、馬戸(このあたりを通称ショケダンという)に潅漑用ダムが完成し、白山地区の田畑をうるおし、また、昭和五十八年には、水源地の工事が開始され、六十五年には工事完成で、白山地区の飲用水として需用が満されることになっている。これを機会に拝殿の改築が行われ、昭和六十一年七月、千合谷町あげての落成式典がとり行われた。

戸数は、明治六年頃には三十五戸あったが、昭和の現在は二十三戸に減少している。昔は炭焼きで生計をたてていたが、当時炭焼きは雨が降ると仕事にならず、男はお互いの炭焼き小屋をたづね合って、山や田畑をかけてチョボ(バクチ)をしていた。女は宝引きが楽しみの一つであった。

一、小字名

1 とうげ(峠)

2 くちとうげ(口峠)

3 くらかけぐち(鞍(鞍)掛口)

4 なかのはた(中ノ畑)

5 とりごえ(鳥越)

6 くちりょうだん(口無谷)

7 おやま(御山)

8 おやまぐち(御山口)

9 かくれだん(隠レ谷)

10 ささだん(笹谷)

11 くちろだん(口広谷)

12 おくくちろだん(奥口広谷)

13 さるだん(猿谷)

14 なべど(鍋土)

15 なかがくぼ(中ヶ窪)

16 ひながたん(雛ヶ谷)

17 だい(平ラ)

18 だいらぐち(平ラロ)

19 たかお(高尾)

20 でのたんぐち(出ノ谷口)

21 ばんどめ(番留=番乙女)

22 むかいやま(向山)

23 どうのくち(堂ノロ)

24 どうのく(堂ノ奥)

25 むらなか(村中)

26 どうりんだ(堂(道)林田)

27 とのやま=どうのやま(戸ノ山=堂ノ山)

28 てらだ(寺田)

29 くろのうえ(畦ノ上)

30 のどたん(喉吞)

31 くぼた(久保田)

32 いちのたん(一ノ谷)

33 おくいちのたん(奥一ノ谷)

34 ちわらだ=ちわりだ(茅原田)

35 はっとだ(八斗田)

36 ひやがたん(部屋ヶ谷)

37 あいど(相戸

38 にのたん(二ノ谷)

39 にのたんぐち(二ノ谷口)

40 すわのぢ(諏訪(防)路)

41 う(ん)まど(馬戸)

42 るびがだいらぐち=ももがだいらぐち(胡桃ヶ平口)=(桃ヶ平ロ)

43 こまがたん(駒ヶ谷)

山林

44 にがき(苦木)

45 かまがたん(釜ヶ谷)

46 きようしたん(キョウシ谷)

47 きたどうのく(北堂奥)

48 かみくちろだん(上口広谷)

49 りゆうがみね(竜ヶ峰)

50 なかお(中尾)

51 ちようし(チョウシ)

52 おくにがき(奥苦木)

53 みなみにのたん(南二ノ谷)

54 ひがしいちのたん(東一ノ谷)

55 おくちょうし(奥チョウシ)

56 がくぼ(ユジが窪)

57 にがき(苦木)

58 おおひらくぼ(大平窪)

59 おおくぼくち(大窪口)

60 いちのくぼ(一ノ窪)

61 びわたに(批把谷)

二、小字のはなし
1 峠 山越えをし、六呂師を経て、米ノ浦に出る昔の街道。

2 口峠 峠道へ上る入口。

3 鞍掛口 百済の国の王女が、国難を逃れる為、船で出国し、米ノ浦に流れ着き、六呂師から竜ヶ峰を越えて村里へ向ったが、道が険しくて馬で進むことが出来ず、鞍をこのあたりの木にかけたという。

4 中ノ畑 山の中腹にある畑で、昔は油木が植えてあって、その実を拾ってかますにつめ油を取る工場のある甲楽城まで売りに行った。大へん良い収入になったという。

5 鳥越え 高い山と山の間にある低い山で鳥達の渡り場であったとか。

7 御山 解雷ヶ清水のある山で、神様のお水の山と尊んで呼んだのだろう。

9 隠れ谷 小さくて入口の解りにくい谷で年貢隠しの田があったといわれている。

11 口広谷 入口が広くなった谷。山の頂上に、五間四方位の土台石のようなものがある。何か建物の跡でなかったかと思われる。又、池の跡もある。

13 猿谷 若須岳の降り口に当り、獣達の通り道であったのか。

21 番留め 昔、二階堂に荷物を調べて、金を取る番所があったので、それをさけて山伝いに出る道を、他地区の人達に教えてあげる為と、住民のために作った仮の番所のあった所。

22 向山 村の向うの山。

23 堂ノ口 村の氏神様のお堂のある所。

24 堂ノ奥 氏神様の奥の土地。

32 一ノ谷 総ヶ谷の一番入口の谷。

3 4茅原田 谷底にある田で、昔は茅原であったのか。

35 八斗田 昔、年貢が八斗であったのだろう。

37 相戸 日当りの良い田で、飢饉の時でも良く米が取れたそうな。

40 諏訪ノ路 安戸地籍の諏訪屋敷と、天井山を通じて何か連がりがあるように思うが、何も残っていない。

49 竜ヶ峰 昔、大きな竜が住んでいたといわれる。

三、いいつたえ

◇這い獅子

二階堂白山神社宝物の、一本角の獅子頭は這い獅子といわれている。昔から十月四日の例祭には、千合谷の若衆がこの頭をつけて舞うことに決っている。他の在所の人がかぶると、手足がしびれ、こわばって動くことが出来なかったといわれている。

ササズリ、チャリ、オタフク等も千合谷の若衆が代々受継いで来たが、それも六、七十年前までの話で、今は誰も使える人はない。

山干飯地区に祇園ばやしという獅子舞があったが、千合谷が発祥の地だといわれている。

◇池の窪

竜ヶ峰の頂上近くの、池の窪という所に小さな池がある。その池はいつも水が白く濁っている。その昔、百済の国の王女が大勢の家来と山越えをする時、この池の水で米を研いだそうで、今でも白く濁っているといわれ、そこから流れる鞍掛川の水も白く濁って流れている。

◇茶屋ケ谷

昔、千合谷と二階堂の間で争いごとがあり、仲が悪かったらしい。そのため、千合谷の人達は、武生や、白山の中心へ出るのに二階堂を通るのがいやであったのか、それとも通してくれなかったのか、一の谷から茶屋谷をぬけて菖蒲谷へ出たという。又、二階堂に役人の番所があったため、ここを通行するたびに高額の通行料金が取られるというので、料金のがれのために番留から一の谷、茶屋ヶ谷をぬけて菖蒲谷へ出たという。今でもその道はあるが荒れ果てている。

◇白椿

昔、百済(くだら)の国の王女が、国難をのがれて大勢の家来を連れ、黄金千両、朱千叭(かます)を舟に積み、米ノ浦の干飯崎へ上陸したという。六呂師から千合谷へ山越し、二階堂に来る途中の山の中の白椿の木の下に、黄金や朱を埋めたそうである。

場所は二の谷の奥で、今でもそのままだといわれるが、夢の中では、ありありとその場所が現れるが、翌日行って見てもどうしても見分けることが出来なかった。宝物は今もそのまゝ有るといわれている。

◇うたじし

 昔の人は、山の中や、畑で仕事をする時は、たいてい大きな声で唄っていたそうである。すると何時の間にか、うたじしが出て来て、畑の向うの山陰にすわって首をかしげて、じーっと聞きほれていたそうである。気が付いても知らん顔していると、何時までもいるので、「何じゃ、われ又来たんか」と声をかけると、こそこそと山の中へ隠れるが、又出て餌も取りに行かんとすわっていたという。

◇しか

昔、千合谷にも、鹿がいたそうで、射止めてかついで帰った人もあるし、時には角を拾って来た人もあるそうだ。

◇与門ごろ

昔、千合谷と二階堂が話し合いをして村境を決めることになった。

その日になると、二階堂の代表の人は、朝早く起きて来て、どんどん山の中に入って行った。千合谷は村が谷間のため、夜明けがおそいので遅れてしまった。代表の与門さんは、後から追いかけたが、二階堂の人は若くて足が速いため、追いつくことが出来ず、とうとう、堂の奥の奥まで来てしまった。そのうち与門さんは、木の根に足を取られて、「スッテン」と転んでしまった。腹を立てた与門さんは、「勝手にさらせ」と怒鳴って帰ってしまったそうである。それでこのあたりを与門ごろという。

「勝手にさらせ」と言われた二階堂は、そこから奥はもらってしまったという。今でも堂の奥の奥の広い山林が、二階堂のとび地として残っている。

◇茅(かや)刈り

千合谷の人達に、茅刈りという大きな仕事があった。

春の日ざしも、日毎に暖かくなり、谷々を埋めていた雪が眼に見えて少なくなって来ると、「あゝ茅刈りの時期が来る」と、若い嫁さん達は物憂くなったという。その頃、在所の総代さん達は、区長さんの家に集って、その年の百姓手間を決める。

決められた男手間と女手間の中間が、その年の茅一メの価額である。又、その時にその年の雪の解け具合を見て、口明日(くちあけび)を決める。

口明日が決まると落着かず、鎌を研いだり、丈夫なカルサンを作ったり、日持ちのするおかずを作ったりしておいた。口明の日が来ると、一時、二時には起きて、自分はもちろん子供の分のおにぎりを作ったり、餅を焼いたり、赤ん坊にはお乳を飲ませて、いづめに入れ、四、五才の子は近所の年寄りに頼み、学校に行く子には起きたらすぐ食べられるように朝食を並べておいた。

外はまだ真暗で、お星様がキラキラ光っていた。一人では行けないので、何人か組になって、手に手に提灯を下げ、それぞれ自分の目ざす山へ出掛けた。

近い刈り場もだんだん無くなると、遠く六呂師、午房ヶ平、米ノ浦、高佐の滝の近くまで刈りに行った。千合谷の人達が入り込まないかと張り番をしていた地つづきの在所もあった。

在所生れの嫁さんは、小さい時から見よう見まねで上手に刈り揃えて行ったが、他所から来た嫁さんは泣かされた。五把で一〆と言い、上手な人は一日に幾メも刈ることが出来た。刈った茅は長く重かった。遠い山から背負って帰るのも又一苦労であった。

子供達も学校から帰ると水汲みをしたり、掃除をしたり、赤ん坊のお守りをしたり精いっぱいの手伝いをしながら親の帰りを待った。

そんな日が四、五日も続くと、もう体はへとへとに疲れ切ってしまった。

前年の暮の内に、神山、大虫、安養寺方面から注文を受けておき、出来上った茅をガタガタ車に積んで家々に運ぶのも一苦労であった。仲買人を通して買売されたが、個人売りもあった。若いお嫁さんはつらい目にあいながら、お金がどれだけ入ったか知らなかったが、大低その家の半年分の小遣いはあったのではないだろうか。

在所の屋根の葺替えは、結(ゆい)で茅三〆づつ持ち寄って手伝った。

「山干飯 小字のはなし」 05 二階堂(にかいどう)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

二階堂(にかいどう)

天王川上流部の山千飯盆地一帯を見渡す西部山麓に位置する、近世の山千飯郷の中心的集落として発達した。

当区の小泉家は二階堂吉信の末裔と伝えられ、代☆吉の字を冠し吉右ェ門と称していた。二階堂という地名についても二階堂吉信という武将がこの地を治めていたところからこの名がついたといわれている。

小泉家は代々二階堂の庄屋を務め、造り酒屋であったが、その後花筵等の伝習所をつくり、地域の産業の振興に努めた。また、小泉家には真宗道場もあり、総社白山神社の神職なども務めた家で、総社白山神社古文書をはじめ多くの古文書がある。

明治二十九年頃先代小泉教太郎県会議員が武生1米ノ線の県道改修に奔走し、現在の武生米ノ線が出来た。

堀町に公立温故小学校が明治初期に建てられたが、白山地区の学校を合併するにあたり、二階堂の白山神社境内に白山尋常高等小学校として、明治三十五年頃に設置され、隣村の坂口村、城崎村の高等科の生徒もこの学校に通って来た。

明治四三年(一九一〇)現在の都辺地区に白山尋常高等小学校が移転し二階堂の学校は廃校になった。二階堂町の東方山千飯道の北側の丘に古墳があると伝えられており、その近くの山麓から昭和三十五年頃、和同元年(七〇八)に初鋳された和同開珎をはじめとする皇朝銭が出土した。

遺跡のうちこれらの銭貨を意図的に埋納したと判断される例は全国的には各地に発見するものの、福井県下では確実な例は極めて乏しく、今のところこの下の宮遺跡だけである。

この遺跡から和同開珎、万年通宝、神功開宝の三種、計二十五枚という県内最多の皇朝銭が発見された。これらを内蔵する須恵器の一つは平瓶という埋納器としては比較的まれな器種である。

偶然の結果出土したこの遺物は発見者山下禎一氏によって永らく保管されていたが、現在は福井県立博物館に寄託してある。

白山神社は山千飯盆地を見渡す丘にあって、山千飯四十八ヶ村の総社であった。

祭神は伊諾冊尊で、「白山神社縁起」によれば、百済王の娘自在女が尼となり海を渡り、干飯崎(現越前町米ノ浦)に上陸して二階堂の地に至り悪病を祈禱によって平癒させたため、その守り神を当地の産土神としたのが白山妙理大権現と伝えられている。

中世近世には白山大権現と称した。養老元年(七一七)泰澄の創建と伝えられ、七堂伽藍の大坊で社領七五町を有し、殿社が多数あったという。江戸時代まで本地伝として阿弥陀如来を安置し、元和二年(一六六一)以来、鯖江誠照寺末の真宗光坊が神職を兼帯していたが、文政四年(一八二一)神主小泉家と真宗道場とに分離した。(小泉家蔵白山神社文書)

祭日は旧歴四月初午日、六月十四日、八月初午日、十一月初午日である。

祭礼の御輿行列は榊を先頭に、猿田彦-白山宮大旗-祇園大旗-村々氏子旗-悪魔払-獅子神楽-若者御馳走-御膳米口庄屋-御輿-神主の順で、御輿かつぎは昔から米ノ浦の若衆で、額に一本角御獅子頭は千合谷の若者と定められていた。

その御輿も今は修繕不能ないたみようで御輿堂に保管されており、現在は氏子の方々から特殊寄付を募って小さな御輿をつくり、幼児、小学生がかつぎ、氏子若衆、氏子総代一名、各集落からの宮当番一名が子供御輿について氏子の家を廻っている。

現在は白山神社の祭礼は十月十日に決められている。御輿堂も古く、いたみもひどくなったので、昭和六十年に下の広場に新しく建てられ保管されている。

大正九年(一九二〇)に菖蒲谷の白山神社、杉本の大将軍将社、都辺の春日神社、萩原の八幡神社、堀の三柱神社、土山の神明神社、小谷の秋葉神社が合祀した。現在総社白山神社の氏子は、二階堂、堀、菖蒲谷、萩原の四集落が氏子で合計七〇戸位で維持している。

一、小字名

1 おくじゅうだん(奥十谷)

2 かみじゅうだん(上十谷)

3 なかじゅうだん(中十谷)

4 しもじゅうだん(下十谷)

5 じゅうだんまえ(十谷前)

6 はやしがたん(林ヶ谷)

7 ろんみようじだん(運明寺谷)

8 かみいなり(上稲荷)

9 うめきだん(梅木谷)

10 なかいなり(中稲荷)

11 しもいなり(下稲荷)

12 にしのたに(西の谷)

13 ぢぞうまえ(地蔵前)

14 おくしみだん(奥志美谷)

15 しみだん(志美谷)

16 はくさん(白山)

17 みやのした(宮の下)

18 がんざき(願崎)

19 つくだ(佃)

20 またん(間谷)

21 きつねくぼ(狐窪)

22 うえの(上野)

23 いなば(稲場)

24 だいみようじん(大明神)

25 じゅうだん(十谷)

36 なかめぐり(中巡)

27 おおいわ(大岩)

28 うえみや(上宮)

29 しものみや(下の宮)

30 じょうざん(城山)

31 うしがたん(牛ヶ谷)

32 かみうめきだん(上梅木谷)

33 おくんみようじだん(奥運明寺谷)

二、小字のはなし

1 奥十谷 二階堂地区では、一番大きく又長い谷で、一番奥にあるので付けられたのではないかといわれる。上、中、下、そして十谷前と、奥の方から五つの呼名で分けられている。昭和四十七年の耕地整理で、三米巾の農道が出来、自動車で中十谷まで行くことが出来、農作業が便利になった。昭和五十七年には林道がつけられ、山の麓まで自動車で行けるようになった。

6 林が谷 7運明寺谷 共に現在は森林になっている。

8 上稲荷 この小字より下の方に、昔、稲荷さんをお祀りしたお堂の跡が残っている。それより上の方にあるため、そうよばれたらしい。

9梅木谷 二階堂から若須へ通じる昔の山道があり、昔の人は荷物を背負って、二階堂を通って米ノ浦へ行ったという。現在も山道は残っている。若須にも同じ字名があるが、いわれは知られていない。

10 中稲荷 稲荷堂を中心に、そのあたりを付けられたと思われる。

11 下稲荷 稲荷堂から下の方を呼んだものと思われる。

12 西の谷 白山神社から西の方にあるためか、堀の南谷、中野の北谷と思いあわせるとうなづける。

13 地蔵前 大正の初期迄、お地蔵さんがお祀りしてあったため、そうよばれたらしい。現在は、白山神社の拝殿にお祀りしてある。七月二十四日、十月二十四日の年に二回各家々から、赤飯、おすし、おはぎ等を作りお供えする。又、妊娠している婦人の家では、赤白のお餅を作りお供えし、各家に分けられる。お詣りした人達にも配られ、残ったお供物は家族でいただき、皆で安産を祈願する。昔は男の人達もお詣りし、のぼりもたて、盛大だったようだが、現在は一家の主婦一人と、子供達だけで、店で買って来た菓子、くだものをお供えするようになり、昔のような手作りのお供えは少なくなった。

16 白山総社 白山神社伊佐那冊尊をお祀りしてある所である。白山大権現と称し、山千飯四十八ヶ村の総社で、神領七十五町歩を有し別当寺院もあった。養老元年(七一七)越の大徳、泰澄の開基と伝えられている。

17 宮の下 白山神社より下一辺を宮の下と呼んでいた。

18 願崎 白山神社の近くで、昔、神の遙拝所であった。

22 上野 白山神社より向側の、小高い丘に上野城跡があった場所といわれている。上野城とは美濃守土岐頼芸が一時居城したといわれている。

23 稲場 昔の人が稲を乾す場所として「はさ」をた稲を乾した所から稲場とよんだものと思われる。

27 大岩 谷の奥に大きな岩があり堀の大岩と地続きである。

三、いいつたえ

◇鍋が人をつかむはなし

二階堂の狐窪を通って中野の田楽坂へ出る道がある。昔この狐窪あたりに大きな柿の木があって枝が道の上にのびて薄気味が悪く、また、近くに二階堂の火葬場もあるため、夜ここを通ると、木の枝から鍋が下ってきて人をつかむといふ事から、今でもこの道を一人では通らなくなった。

「山干飯 小字のはなし」 04 上杉本(かみすぎもと)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

上杉本(かみすぎもと)

普通杉本と言っているが、立待村吉江にも杉本という村があるので、白山村の杉本は河上にあるので、上杉本というようになった。この集落は杉本谷の中程にあって、丸岡、沓掛、勝蓮花、小野方面からの通学路に沿った十一戸ほどの村であったが、近年になって、都辺や県道沿いに移転したので現在では元のところには一軒もなくなって、今では神社だけが残っている。

この杉本谷の道は、武生方面からは小野、勝蓮花、沓掛、丸岡をへて、都辺、黒川、中野、牧、若須方面へ通ずる唯一の道で重要な道路だった。杉本谷と丸岡とのさかいに、長さ六十米ぐらいの小さなトンネルがある。このトンネルを越して通学した。

今では菖蒲谷よりに道路ができたのでだんだんと人通りも少なくなり荒れ果ててきた。現在では農作業や、山仕事に行く人が通るぐらいである。

昔から都辺、杉本といわれてきたので、小字も持主によって、都辺地籍、杉本地籍になったようで、非常に入りくんでいて厳密に分けることはむずかしい。

一、小字名

1 かみのたん(上ノ谷)

2 なかのたん(中ノ谷)

3 おおひら(大平)

4 とりごし(鳥越)

5 まえ(前田)

6 みずかみ(水上)

7 むらなか(村中)

8 むらした(村下)

9 さいがんだ(西願田)

10 おかぐらでん(御神楽殿)

11 きたがたん(北ヶ谷)

12 こだんぐち(小谷口)

13 どうでん(堂田)

14こだん(小谷)

15 おしだ(押田)

16 ごおず(ゴオズ)

17 ぐみだん(茱谷)

18 たかだ(高田)

19 ほりだ(保利田)

20 むかいがわら(向川原)

21 だいみようじん(大明神)

22 なわて(縄手)

23 しもむらなか(下村中)

24 かみむらなか(上村中)

25 しょぶしょぶショブショブ)

26 なかやま(中山)

27 うしだん(牛谷)

28 しもかまいだん(下竈屋)

29 おにのつくり(鬼ノ作)

30 しもきたがたん(下北ヶ谷)

31 あまがたん(尼ヶ谷)

32 うまおとし(馬落し)

33 おくかまいだん(奥竈屋)

山林

34 おまつばた(御松畑)

35 ひがしがたん(東ヶ谷)

36 かみぐみだん(上茱谷)

37 ひがしうちだん(東丑谷)

38 むらのうえ(村の上)

39 おやまだん(御山谷)

40 みやがだん(宮屋谷)

二、小字について

1 上の谷 杉本谷の一番上の方にあるから上の谷という。杉本トンネルに近い。

2 中ノ谷 杉本谷の中間にあるから中ノ谷という。

3 大平 おおひらとよんでいるが、それ程広くはない。

5 前田 昔の神社の前にあたるところと思われる。

6 水上 清水の源だろう。

7 村中 村の中央に位置したところにある。

8 村下 集落の道の下にあるからそういったらしい。

9 西願田 集落の西の方向になるからと思われる。

10 御神楽殿 昔御神殿があったところからそのように言うらしい。

11 北ヶ谷 集落からみて北の方にあるからそういったのだろう。

13 堂田 昔尼寺があったので堂田という。

16 ゴオズ 現在の中学校のある場所。

20 向川原 集落の向いの川べりにある田であるからそういったらしい。

25 ショブショブ 菖蒲がたくさん生えていたらしい。

30 下北ヶ谷 北ヶ谷より下の方にある谷だからそうよんだらしい。

31 尼ヶ谷 竈谷の奥の方にある谷で大きなほら穴がある。

32 馬落道 巾が狭く、けわしい所で馬も落ちそうなところだったようだ。

33 御松畑 昔神社があり、松の神木があったらしい。

37 東丑谷 都辺の丑谷に続き現在の公民館及び白山出張所の敷地の一部に含まれている赤土の瘦山で雑木林であった。高くて大変見晴しのよい場所である。

「山干飯 小字のはなし」 03 都辺(とべ)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

都辺(とべ)

丹生山中を流れる天王川の流域にある。現在の都辺はそう古い集落ではない。天正十八年(一五九〇)の「大谷刊部知行」でも、また慶長の石高などの記録でも、「戸部杉本村」と合併されて記されている。

正保郷帳では杉本村と記され、元禄郷帳から、「山干飯杉本村」と「都部村」に分けて記されている。分村する時、地権者によって配分されたせいか、都辺と杉本の境界は非常にいりくんでいる。

村誌によると、古事記には、従者(しとべ)というのがある。そのころ織田、四ヶ浦、宮崎が伊部郷で、北に、平知郷(おち)があり、南に従者郷、東には三田郷、田中郷があるので、この山千飯郷は、従省郷(しとむ)と昔いっていたのであろう。

従者というのは、貴人に仕える執部であるといわれている。そう解釈すると、この都辺の地は貴人に仕える人の住んでいたところであろうということになる。すると、貴人というのは誰かということになるが、このことはまだ明らかでない。から来られた

また、一説では従省部と「とべ」ではなく、「粢餅(しとき)」の「トキ」が「トベ」になったのではないかという。粢餅というのは、神前にお供えする餅のことである。この意味だとすれば、二階堂白山神社にお供えする粢餅の米を作ったところということになる。おそらく白山神社の神領であったので、「シキトベ(部)の里」といったものが、「トベの里」となり、「トベ」と転じたのであろう。

この都辺は明治初期には、十七戸内外の小さな寂しい一寒村であったが、明治二十二年(一八八九)町村制になると白山村の中心地となって、役場が置かれ、ついで明治四十四年(一九一一)には小学校ができ、その後各種の組合、団体等も設けられて村の政治、教育、文化の中心地となった。

終戦後、中学校、診療所、幼稚園、武生市役所出張所、農業協同組合(現在は堀地籍に移転)、武生市農業倉庫、野菜集荷場、育苗センターなどが建設され、白山の繁華街となった。(診療所は廃止)

一、小字名

1 かみのたん(上ノ谷)

2 なかのたん(中の谷)

3 むらのした(村の下)

4 ぼうがだん(坊ヶ谷)

5 さいがんだ(西願田)

6 おかぐらでん(御神殿)

7 きたがたん(北ヶ谷)

8 かみきたがたん(上北ケ谷)

9 しもきたがたん(下北ヶ谷)

10 おにのつくり(鬼ノ作)

11 しもかまいだん(下竈谷)

12 なかやま(中山)

13 きたなかやま(北中山)

14 しょぶしょぶ(ショブショブ)

15 しもしょぶしょぶ(下ショブショブ)

16 むらのうえ(村上)

17 しもむらなか(下村中)

18 かみむらなか(上村中)

19 こだん(小谷)

20 どうでん(堂田)

21 おくどうでん(奥堂田)

22 おしだ(押田)

23 たかだ(高田)

24 ほりだ(保利田)

25 なわて(縄手)

26 むかいがわら(向川原)

27 でんがく(田楽)

28 うえの(上野)

29 ごおず(ゴオズ)

30 かみごおず(上ゴオズ)

31 ぐみだん(茱谷)

山林

32 むらのむかい(村ノ向)

33 みなみひがしだん(南東ヶ谷)

34 にしきたがたん(西北ヶ谷)

35 むらのうえ(村上)

36 みやのうえ(宮ノ上)

37 うしだん(丑谷)

38 かまいだん(竈谷)

二、小字のはなし

1 上谷 杉本谷の一番上の谷

2 中ノ谷 杉本谷の中程にある谷

3 村ノ下 集落の道の下にあるからそういったらし

4 坊ヶ谷 杉本谷の右手に入る小さな谷で半分は杉が植えてある。もとは田んぼだった。

6 御神殿 昔御神殿があったらしい。

7 北ヶ谷 杉本地籍で集落から見て北の方にあるから北ヶ谷といったらしい。

8 上北ヶ谷 北ヶ谷の上の方角にあるからこのようにいう。

9 下北ヶ谷 北ヶ谷の下の方にあるから。

12 中山 集落の中央ぐらいにあるからそういったのであろう。

13 北中山 中山の北の方角にあるからそうよんでいたのだろう。

14 ショブショブ 湿地帯で溜池があり、菖蒲がたくさん生えていたらしい。

15 下ショブショプ ショブショプの下の方にあり黒川に近い。

17 下村中 下村中に白山村役場があった。この役場の横から下黒川の由原へ通ずる巾二米位の山道があった。この道の中程をショブショブとよんでいた。下黒川、安養寺の学童達の通学路だったが、黒川より杉本まわりの大きな道もでき、現在は西瓜畑となっている。

19 小谷 小さい谷だからこのように言う。

20 堂田 昔尼寺があったらしい。

21 奥堂田 堂田の奥の方にあるから奥堂田という。

26 向川原 集落の向いの方に川がある。(天王川)その川ぞいにある田を言う。

29 ゴオズ 現在の第五中学校のあるところ。昭和十年頃は都辺の辻商店より、堀の木股氏宅までは家は一軒もなかった。上杉氏宅(神土から来られた)の家のところは小高い丘であった。道路は道下氏宅の横から南氏宅の家の後の山すそを通り、中学校の校庭をぬけて松月堂さんの裏を通り、あぶらやさんの前へ出た。あぶらやさんのところは竹やぶであった。中学校よりあぶらやさんにかけては、一番うす気味の悪いところであった。現在では戸数も十四軒にもなり繁華街となった。

30 上ゴオズ ゴオズの上の方にあるから。

31 茱谷 中学校の校庭より見える谷

山林

34 西北ヶ谷 北ヶ谷よりみて西の方にあるからそうよんだのであろう。

36 宮ノ上 都辺の春日神社の上の場所だからそういったのだろう。

三、いいつたえ

◇子育て地蔵

白山出張所の登り口に、二体の地蔵様が安置されている。この地蔵様は西野さんの地蔵様で子育て地蔵とか。元は杉本谷のトンネルの口の瓦ぶきのお堂の中に安置されていたが、この杉本谷の道も人通りが少なくなってきたため、昭和五十一年頃現在の場所へ移された。

◇避病院

都辺の春日神社の下、宮の上に平屋建の隔離病舎があった。昔の人は避病院とよんでいた。当時は赤痢が多く発生し、患者はこの病舎に隔離された。

長老の話では、この病舎には多い時で十数人もいたそうで、患者が苦しんでうめく声が、病舎から百五十米ほど離れた所まで聞えて、夜寝られなかったそうだ。

たいていの人はここで死んだらしく、目を落したら、家族の者は石灰酸という消毒液を身体にふきかけて会ったらしい。

死人の菌が外へ伝染しないように、風呂桶の中で蒸して棺桶に入れ、夜暗くなってから家族の者に背負われ、村の巡査立ち合いのもとに神社の上の山で火葬にされた。

風呂桶は避病院より離れたところに設置されていたそうだ。

死者の中には医者に内緒にして、家で治療して居た人もあったらしい。

病舎は大正五年頃子供の火遊びがもとで焼失したそうだが、その後も毎年赤痢患者が多く出たそうだ。当時の病舎の跡は現在畑となっている。

◇白山育苗センター 白山集出荷センター

白山育苗センターは、昭和五十二年に建てられた。白山野菜集出荷センターは二年後の五十四年に設立された。又、ガラス張りのスイカ育苗棟も二棟建てられた。

字名は北ヶ谷で、当時は赤土の瘦山の雑木林で、松林になっていた所も多くあった。

センターに引きつづき、十四、五ヘクタール余の西瓜畑が出来た。道路も舗装され、畑の一枚一枚に水の設備もされて現在は立派な畑に変貌した。

◇忠魂碑

白山小学校の正面の道路の上、通称稲場現在恒本慶一氏宅の倉の上に、第二次世界大戦前に忠魂碑が建てられていたが、終戦と共に取りのぞかれ、平和塔と碑文も改められ、小学校の敷地内に建て替えられた。

◇藺草(イぐさ)づくりと加工

終戦後二十五、六年頃までこの地でイ草が栽培されていた。刈取期にはちょうど学校の夏休みに入るため、校庭がイ草を干す格好の場所であった。その時期になると猫の手も借りたい忙しさで、小さい子供までが手伝い、一日に二回「干しかえし」の作業をさせられた。

一面に干された校庭はグリーン一色になり、のどかな風景がみられた。

秋の終りから冬にかけての農閑期には、イ草の加工作業が行なわれ、畳表、ござ、飯ござ、田ござ、ござ帽子等がつくられ、昔のことで少しでも高く売るために直売りをして生計をたてた人もあった。

◇白山出張所白山公民館

昭和五十一年三月「丑谷」に建てられた。赤土の痩山で雑木林であった。上杉本の東丑谷とつづく。

「山干飯 小字のはなし」 02 白山と山干飯

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

白山と山干飯

米ノ浦蓮光寺文書に「当所米ノ浦干飯崎(かれいざき)は敦賀よりの入海で、敦賀から十里離れた出張所で唐船はこの岬を泊所に定めていた。山干飯庄四十八か村総社、百済国(くだら)の比丘尼(びくに)の御船もここについて上らせられたということが古い社家縁起にでている。又、今は国司越前守殿より唐船目付の御番所並に烽火台が置かれている。唐船の売物は小舟で敦賀から運んだ。毎日朝食を敦賀で、昼食をこの岬と定めていたので、昔は敦賀を筒飯(つつい)の浦、この米ノ浦を干飯の浦と呼んだ。筒飯とは朝食のことであり、干飯とは昼食の和名である。」と記されている。

昔、敦賀から干飯崎に運ばれた荷物は、翌朝干飯崎や白山方面の人足達によって、山を越え、昼頃には二階堂の白山神社付近まで運ばれ、ここで昼食となったのかもしれない。それで白山山干飯となったのであろう。

白山神社の祭神は、百済の国の王女自在女が米ノ浦の干飯崎に漂着し、山を越え二階堂に永住し、自己の守神である三像の仏を祀って白山大権現と称したのが白山神社の創めとも言い伝えられている。

又、地区の昔からのいい伝えによると、百済の王女が国難をさけて、米ノ浦に漂着し、食糧の準備に米を炊き、干しあげたのでその地を干飯と名づけられている。それより、米ノ川を渡り六呂師を経て干合谷の峠から御山のあたりについた時、従者ののどの渇きをいやすため、王女が水を求めて杖で岩をついたところ、浄水がこんこんと湧きでた。この清水を解雷ヶ清水という。

王女は、この周辺を開発され海岸方面を海干飯、白山方面を山干飯とよぶようになったと伝えられている。

古くは山干飯郷四十八ヶ村の総社と言われていたが、四十八ヶ村をあげると、旧白山村全域と、宮崎村小曽原・古屋・熊谷・増谷・旧坂口村の勾当原・湯谷・中山・河野村の八田・甲楽城・糠・神土・杉山・越前町の牛房平・米ノ浦・六呂師・蓑浦・高佐・白浜・茂原・厨・道口・大樟・小樟が含まれている。

明治二十三年市町村制の実施にあたり、白山神社の名をとり白山村と名付けられた。山干飯郷のなくなった現在でも、近隣の人達は旧白山地区をさして山干飯とよび、また、地区内でも、周辺の小野・勝蓮花・安養寺・曽原方面の人は、現在の村の中心である菖蒲谷(白山神社近くの集落)へ行くことを、山干飯へ行くという。これは白山神社が山干飯郷の中心であったことが伺われる。

「山干飯 小字のはなし」 01 序

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

白山地区の地名(小字)を研究した読書グループの人たちの長年の労作がこの度刊行されることになりました。

地名の研究は戦前からもあり、戦後も地名に関する多くの出版もあります。谷川健一氏は地名研究所を個人でつくりました。この福井県版とも言うべきものは「うぶすな」という機関誌も刊行されています。今はなき柴田知明氏の『足羽という地名(明治書院昭和五八年)もあります。

武生市は既に武生市史資料編として「小字名一覧」(昭和五七年刊)を出版し、杉浦氏はこのことを地名学会で発表しました。武生市の小字の研究は全国的に知られています。ところで、この『小字名一覧」は武生市域の六千数百の小字を附図に記入されてあり所在場所も明らかとなるし、さくいんまであり、全小字名は、すぐどこにあるかさがし出せるという便利なものです。

しかし、この便利な「一覧』も単なる小字名が、地番順にならべられているにすぎなく、これを興味深く読ませる工夫はしてありません。今は亡き五十嵐與平氏が解題でその概要を説明してありますが、これのみで各地区の人たちは満足できないでしょう。そこで、これを、地区の人たちに親しみやすく読み物風に工夫して編集したものが、この本となったのです。このことは、まことに画期的なことであって、県内でも珍しい企画であって、読書グループのすばらしい成果でもあります。白山の地域に根ざした研究で、白山の地域で生活している者でなくてはできないものです。見て楽しい絵あり、伝説あり、一,二三八の小字名の由来あり、幼児から老人まで、誰でも理解できる親しみやすい構成となっています。きっと県内でもこれに刺されて、次々とこういう試みがなされることでしょう。先駆的な試みであります。

ここで若干、私の感想を加えるならば、地名(小字名)は、どうして誕生したのかとい素朴な疑問を誰しも持つでしょう。今日のように山野を歩くことが少くなってどこの山に、何が、いつ、いくとあるということは、だんだん知らなくなっている時代に地名が誕生したのではなく、初めは、地名も何もなく、唯毎日山野に動植物をさがし求めてくまなく歩いた時代、それは、縄文時代以前の石器時代、否旧石器時代にまでさかのぼるでしょう。山野から毎日の食糧を探し求めねばならない時代、それこそ、毎日その地域の変化がつかめ、地形や形状もよく把握されていたに違いない。あすこの谷には何があり、川の向うには木の実がある、川岸には、魚がいつ頃やってくるか、毎日、食糧をさがして生活していた時代、その地域の土地が手にとる様に知悉されていました。「地名の発生は必ずや人の生活における必要と便利に基づくものである上に、その地に生きる人びとの契約書なき合意と外からの快い承認と記憶によって保持されるもの」(『足羽という地名』二一頁)であるといわれています。その土地の地名が固定化し、何人もこの土地を知り、その地名に異をとなえず、必要さと、便利さとによって自然と地名が誕生していくものでありましょう。ナンビクァラ族は今猶アマゾン河の上流地域に二、三百キロの範囲をさまよいあるき、女は採集、男は狩猟の生活を続けていると人類学者川田氏は報告しています。こういう時代には文字はなく、唯地名は、どうしていたか単純な地名であり、自然の地形を重んじた名称が発生するでしょう。口から音として伝えられていき、どんな漢字もありません。発音が大切なのです。

武生市真柄の老人からシンゴという村の名を聞いたが、地図に地名はない、真柄のえだ村だという。漢字で今は、新宮となっています。武生市の『小字一覧』には新宮とかなづけていますが、(四八頁)私の聞いたのはシンゴでした。土地の古老が昔から呼んでいた言葉が一番正しい地名であると私は思っています。米ノ浦(越前町)もコメンダが昔からの呼び名であって、コメノウラといってはいないのです。『小字一覧」のさくいんには、平かなで統一してあって、たいへんよい。漢字が日本に輸入される迄は、日本人は、漢字をつかわず、発音だけで連綿として続いていたのでしょう。小字名はこのように、地域の人々の文化と歴史がこめられて受けつがれてきたものでしょう。

いま、われわれは、この小字名をたよりに、ありし日の人々の地域と文化、歴史をさぐろうと試みているわけです。

これがどこまで果せるか、永い努力が必要であって、この一端が白山地区の『小字」の研究にこめられていることをうれしく思うものです。

小字名はもともと、どこの土地でも太閤検地があって、この時にちゃんと、検地帳に記入されています。南越地方は慶長三年頃に行われています。わたしは、ある村の検地帳と明治の初めの土地台帳の小字を比較してみましたが殆ど同じでした。慶長時代の検地の折りに小字名ができたのではなく、もっと以前から小字名はあったのでしょう。ただ文字化されていなかっただけでした。民俗学者柳田さんも、その土地の名まえは、どう言っていたか、漢字でなく呼び方を聞けといっています。わたしの村の小字名に、

アミチ(雨落)
ジョガタン(城か谷)
キンナクボ(桐ヶ窪)

下の漢字はいつ誰がつけたのか、発音と漢字名はどうもしっくりしません。

アミチは網地とも網血ともかけるし亜道ともかける。ジョガタンは女が谷とか助が谷、条が谷、何んとでもかける。特に検地帳の頃の村役人が字が知らず、あて字でかいたりかなでかいたりしています。かなの方がよいが、下手な漢字を使っていては、先祖のつけた小字名がおかしくなってしまいます。

だから、小字名は漢字でなく、平かなが一番よいと思います。日頃考えていたことの一端をのべて序文といたします。

福井県史編さん委員(民俗部会副部会長)
鯖江市史編さん嘱託
刀祢 勇太郎

発刊にあたって

美しい自然と恵まれた環境に囲まれた白山地区、私たちが日常生活を送る中で、行政区画は切っても切れないものであります。

行政区画の単位名(都辺村、堀村、安養寺村等)の字名は、いくつかの小字が集合して、大字を形成しているものであり、土地改良、基盤整備により土地形態は変っても、小字名は後世に永く続くものであります。

白山読書会の皆さんが、昭和五十八年以来四ヶ年に亘り、こうした小字についての調査研究を続け、小字についての由来、小字にまつわる伝説などを編集し、発刊の運びとなりましたことは、ご同慶に甚えないところであります。

グループの方々の並々ならぬご労苦に対し、深く敬意を表したいと思います。

本書が多くの方々に愛読され、今後の地域発展の糧となれば幸と存じます。

昭和六十一年十二月
白山公民館長
清水 宇右衛門

交通安全茶屋開催します

安全防災部主催により、令和4年11月6日(日)14:00から、県道19号武生米ノ線の沓掛バス停付近にて、白山地区交通安全茶屋を開催します。19号線を車で通る運転者の方に学童クラブのみなさんが作ってくれたコウノトリキーホルダー等を渡して交通安全を呼び掛けます。  
当日はぜひ通りがかってみて下さいね。

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