以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

上菖蒲谷(しょうぶだに)

昔は岡と呼ばれる真向いの小高い場所に集落があったらしい。谷合いへ降りたのは何時の頃かわからないが、明治末頃は十四、五戸程であったという。

美しい大字名は、その昔菖蒲の花が咲いていたのかもしれない。川上に位置するため、美しい澄んだ水が絶えず流れ、南に面した暖い集落である。

県道が改修されてから、白山地区の中心地となったため、家数が二十五戸になった。隣接する堀とともに山村でありながら戸数が増えていった。

菖蒲谷は昔から、医者を開業していた人が多かった。明治の末、今の歯科医の篠山先生の父親に当る範先生という方が、内科医を開業された。漢方薬や、富山の置薬に頼っていた村人は大喜びであった。しかし、この人は若くして亡くなられ、その後、この場所で、佐々木先生、丹尾先生、似生先生、谷口先生、野尻先生と次々と開業され、診療に当って来られた。

この地で亡くなられた谷口先生以外の方々は村を去られた。その間無医村であったこともあり、地区民としては大きな不安であった。病人は、武生や宮崎村、また糠浦まで診てもらいに行ったが、戦争中であったため、車もなく、リヤカーや戸板にのせれて行った人もある。現在は地元出身である高橋先生が開業されて、地区民はこれ以上のよろこびはないと安堵している。

土山の願成寺の文書によると、菖蒲谷、土山、安戸に山争いがあり、天正十九年三月十四日山境の取り決めが行われたとある。

一、山の大場については大嶺、南平の横道を境にする事。

一、山に入ることの出来る者は菖蒲谷、土山、安戸で切り出しが出来る。

一、三ヶ村のうち菖蒲谷は持ち山が多いので、土山、安戸の者が山を利用した請料として毎年米五斗を菖蒲谷に納める事。となっている。

一、小字名

1 ちがだいら(血ヶ平)

2 こだに(小谷)

3 いなば(土地稲場)

4 はかんたに(墓ヶ谷)

5 むらのおく(村ノ奥)

6 おおひら(大平)

7 たかひら(高平)

8 みなみだん(南谷)

9 しもみなみ(下南)

10 このうえ(家ノ上)

11 おか(岡)

12 たけのこし(竹ノ腰)

13 ひのきだん(桧谷)

14 うやま(宇山)

15 はしがたに(橋ヶ谷)

16 ばんば(馬場)

17 みやのまえ(宮ノ前)

18 しもばんば(下馬場)

19 ののこし(野ノ腰)

20 よこまくら(横枕)

21 ごたんだ(五反田)

22 むかいかわ(向河原)

山林

23 たけのこし(上野ノ腰)

24 とうげ(峠)

25 かみちがだいら(上血ヶ平)

26 かみおおひら(上大平)

27 かみむねあげ(上宗上)

28 かみはしがたん(上橋ヶ谷)

29 かみみなみだん(上南谷)

30 かみたかひら(上高平)

31 おおいわ(大岩)

32 かきだいら(柿平)

33 ろくがたん(録ヶ谷)

二、小字のはなし

1 血ヶ平 山林上血ヶ平の下手の谷であり、土山の③血ヶ平の地続きでかっては田であったらしいが、今は山林になっているのか、田としてこの字名を知る人もない。

2 小谷 菖蒲谷から土山を経て糠に至る県道沿いの小さな谷

3 土地稲場 集落の奥の南向きの小高い所にあり、日当り良く昔は稲架の場であった。

4 墓ヶ谷 以前にこのあたりの田を整地したら、五輪の塔の頭が出て来たので、昔は墓場だったのかと思われる。

5 村の奥 集落を通り越して村の奥にある。

6 大平 山林上大平の下にある。

7 高平 山林上高平の下にある。

8 南谷 堀地籍の南谷の地続きであり、上手にあたる。

9 下南谷 総社白山神社を中心として南方に当る谷なのでそう呼ばれたものと思われる。

10 家の上 集落の奥の上方にある。

11 岡 ここに集落の氏神である白山神社がある。菖蒲谷の村も、もとはここにあったという。集落の南方の小高い丘陵地で日当りが良く、かっては秋になるとここに稲架が立ち並んだそうだ。夕方遅くまで稲刈りをして疲れた体で稲を背負って、この岡に登るのはとても辛かったそうで、稲を架け終えて家に帰る頃には真暗になり、手さぐり足さぐりで帰ったと言う。

12 竹の腰 この奥の谷は竹藪であったそうだ。

13 桧谷 大きな桧でもあったのか。

14 宇山 村の上で畠がたくさんあり、昔はここにも家が建っていたそうだ。

16 馬場 18下馬場 その昔七十五町歩、七堂加藍の建物を誇った山千飯四十八ヶ村の総社白山神社の直線に当り、おそらく馬場として使用されたのであろう。通称仮屋ともいわれており、白山神社の三十三年毎のお渡りの祭礼の前夜、神社をお出ましになった神様を一夜仮の小屋を作って安置したので仮屋と言う名が出来たそうだ。

17 宮の前 二階堂より中野に通じる県道沿いの左側の山に総社白山神社の下の宮があったそうである。

21 五反田 都辺の地続きでここに菖蒲谷の田が五反あったのだろうか。

22 向河原 二階堂より中野に通じる県道近くにあり、千合谷の解雷ヶ清水を原流とする天王川の菖蒲谷より見て向側となる。

24 峠 菖蒲谷より土山に通じる県道近くにある。

35 上血ヶ平 この山に昔は火打石の原石が出たが、各村から来て取り尽され、今はほら穴のみ残っている。

26 大平 大きな斜面だからか。

30 上高平 南谷の奥に当り広い斜面が高い所にあるからこの名が出来たのか。

31 大岩 堀の大岩の地続きで山の中腹に大きな岩がはり出して居る。今は杉の木が大きくなって見る事が出来ない。

32 柿ヶ平 安戸の柿ヶ平の地続きである。

33 緑ヶ谷 戦前は参剝山(二ヶ村以上共有の山)この山は菖蒲谷、土山、安戸の共有で菖蒲谷は一番奥の山。

三、いいつたえ

◇嶽の一本松

大きな枝ぶりの良い松で、嶽は土山地籍だが、菖蒲谷より安戸の天井へ行く山の高い所にあり、山の行き帰りの目安として菖蒲谷の人に親しまれていた。また、この松にかかるお日様を見て時間を計ったともいう。今は枯れてない。

◇寺

場所は定かではないが、江戸末期まで天台宗の寺院があったそうだ。御本尊は現在菖蒲谷の白山神社に安置されてあるそうで、この仏像は名のある人の作と言われているが、文化三年の供養の時、傷みが激しいので修理に出した所、その修理の仕方が悪かったので文化財には認められなかったと言う。

◇古墳

昭和四十九年天城への登山道路を作る時、この白山神社の境内から鎌倉末期のものと思われる骨壺が出土している。骨壺の周囲は玉石で囲まれ、更に刻み石で囲んであって直経三十糎程の物が三個あった。その一個の中には骨らしきものが入っていた。この神社の境内にはまだ残された古墳があるのではないかと言われている。

◇お医者じようせん

通称じょうせんと言う地名がある。坂田氏宅の上の台地で、ここに昔じょうせんさんと言うお医者さんがあったそうである。また、このお医者さんは坂田氏一族であったとも言われている。

◇筆塚

中村氏と言う学者がおり、近くの子弟を集めて学問を教えたと言う。その徳を偲んで子弟達で筆塚を建て後世に伝えた。

◇田争い

六ヶ谷の山林の下の谷は、安戸の六ヶ谷と呼ぶ田になっている。この田で昔菖蒲谷と安戸が争ったそうである。この谷は菖蒲谷が苦労して切り開いた大切な田であった。どうしたいきさつか安戸がこの田を我が田だと言い出し、お互いにゆずらず話し合いがつかない。皆で相談の上、では領主様に願い出て決めてもらおうと言うことになった。

両方の庄屋が幾日もかかって領主様の所へ行き、お互いの言い分を申し上げたそうな。領主様はどちらとも言わず、

「お前たち田植えはすんだのか。」

「はい、全部終りました。」

「菖蒲谷は何を植えたか。」

「はい、早稲を植えました。」

「安戸は。」

「はい、赤い穂の出るもちを植えました。」

とそれぞれ答えた。

「では穂の出る秋まで待とう。」

と言うことになった。

そして、いよいよ秋になり、待ちに待った穂が出たが、それは一面赤い穂のもちだったので、菖蒲谷の負けとなったそうである。菖蒲谷はたしかに早稲を植えたのになぜ赤い穂が出たのかと言えば、安戸のある家にとてもてなわん婆さんが居て、菖蒲谷が田植えしたその夜一晩の間に全部植え替えてしまったのであった。

大切な田を取られた菖蒲谷は、「おのれこの恨みは孫子の代まで忘れんぞ」と口惜し涙をのんだそうである。それ以来菖蒲谷と安戸は一組の縁組も無かったと言う。 しかし、最近では昔の争いはどこへやら、今ではその田んぼも植林されたり、減反のため昔の田の面影はない。