以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。
小谷(こだに)
小谷村は、昔、道路を境に土山村と相対しており、右が土山、左を小谷と昔の旧道にて形付けられていた。
現在の両村の中央が県道に変り、家の移転などで昔の形は残っていない。小谷村は小谷として地番号も元のままで戸数は十戸である。
この地に屋号を小谷さんと言われる家があるが、この家は昔、堀村に城をかまえていた黒田七郎左ェ門宗則という城主が居たが、織田信長の城攻めで落城し、ここ小谷に逃れた。後争いが静まったため、先祖の黒田三郎兵衛のみを残し、再び堀村にもどったということだ。(山寺谷の下に小谷清水と名付けた池があったので、ここに居をかまえたものと思われる。)現在も黒田三郎兵衛氏の屋号呼名を小谷(こだんさん)と呼んでいる。糠に通ずる道端にあったため、昔は旅人の休場になっていた。
松前船が糠浦の沖に停泊し、昆布、肥料、干だら、塩ざけなど北海産物を武生に送る荷が着くたびに、村々より人夫が集まり、広瀬の問屋まで背負って運んだ。賃金は木札の鑑札で、広瀬の問屋で運賃の精算をした。一日に二往復したと聞く。この荷運びも県道が明治十九年に開通し、また、北陸線の開通により便利になった。
一、小字名
1 とうげ(峠ゲ)
2 さがりで(下り出)
3 ながたん(永谷)
4 ぜんまがたん(善間ヶ谷)
5 あかさか(赤坂)
6 うしろがたん(後谷)
7 ひがしたん(東谷)
8 ちぎんだ(契田)
9 のせ(野瀬)
10 やまでら(山寺)
11 むらのうち(村の内)
12 にんにやま(右山)
13 うしろやま(後山)
14 そばたん(添場谷)
15 どうかべ(堂壁)
16 くつかけ(沓掛)
17 はらいだに(払谷)
18 どうでん(土田)
19 さんごうだん(三合谷)
20 かげひら(蔭平)
21 のぼりばし(登橋)
22 ゆのくち(湯ノロ)
23 かもとりだ(鴨坂田)
24 むろいわ(室岩)
25 おおえ(大江)
26 じうがたいら(上ヶ平)
山林
27 かみどうでん(上土田)
28 かみくつかけ(上沓掛)
29 かみにんやま(上右山)
30 かみあかさか(上赤坂)
31 かみうしろだん(上後谷)
二、小字のはなし
1 峠 ①そら峠、米口村との分水嶺となる峠で、これより小谷村の方の水は糠川へ流れ、米口の方の水は吉野瀬川へ流れそら峠とよんでいる。②下峠菖蒲谷と土山村の峠を下峠とよんでいる。
2 下り出 峠より下りてきたところ
3 永谷 土山小谷よりそら峠に行く谷で一番奥深く長い谷である。
4 善間ヶ谷 谷は浅いが湧水が太くて大事な用水である。
5 赤坂 赤坂は文字通り赤色の土が出る。土山からお宮の下の坂道を登った所に、赤坂のおん堂さんと呼ばれた地蔵堂があり、正面に聖観音様と、二体の地蔵様が祀ってあった。
昔、親子四人の乞食が来て家々を廻り食べ物を乞うたが、飢饉の年でだれも食べ物をやらなかったため親子四人とも死んでしまった。七左ェ門はこの親子の供養のため、安永四年石地蔵をつくった。今は寺の地蔵堂に観音様とともに一体は安置されており、もう一体の地蔵尊は長助に帰りたいとの行者様のおつげがあったので、長助がお世話をしている。毎年七月二十四日講中により夕方か御詠歌をあげて供養をしている。
6 後谷 赤坂の後の谷である。
7 東谷 村の東方にあり、土山十六字東谷地籍の続きである。
8 契田 金華山遊園地へ行く広域林道の入口。
9 野瀬 昔からの屋敷跡で、タッチョウ長者屋敷跡がある。今は段々畑となり柿の木、杉を植林してある。
10 山寺 古寺跡か、谷の出口は五輪塔が三つ四つあったが今は土中にうずまっている。寺の過去帳に山寺甚六名とある。
11 村の内 小谷村の宅地である。明治中期の実話に、この村に欲のない女乞食がいて、お宮をねぐらにして毎日家々を廻り食べものを乞うていた。一日腹がはれば明日の事は何も考えず、村の皆んなにかわいがられていた。ある年弥右ェ門に来て食を乞うだが、どうしたことか門口でうずくまったままこと切れた。村人たちが集って葬式、野辺送りをしたが、その時村の若者のひとりが乞食の足の裏に、越前の国小谷村、村乞食の名を墨で黒々と書いた。
二、三年たって大阪から一人の紳士が尋ねて来て、「我が家に赤子が今年生まれたところが、足裏に名前が書いてあった。行者が見て言うには死亡した所の土をもらって洗えば消えると聞き、お宮の土をいただきに来た」と言って土を持って帰られた。 大阪の豪商の家に生まれ変ったのだそうな。
12 右山 村より右の方の山畑地である。
13 後山 昔、小谷村の鎮守秋葉神社の社があった。 明治三十六年土山村神明神社と合祀されて現在地 土山の三十字上赤坂の地に新社殿を建てた。
後山の鎮守堂は大昔、土山の二十三字真久保の古宮地にあったのかもしれない。古来鎮守字堂の下にあったので、堂下という名になった。
14 添場谷 この谷の開田は谷水を高台に引く時に通 水のトンネル(横穴)を掘り水を引き、初めに六十刈(一反)を開田、後に八十刈を開き溜池を造用水とした。
15 堂壁 糠蒲への旧道で十六字 沓掛に続く糠川に そった旧道である。 30 上赤坂 土山、小谷村の神社がある。 明治三十六年秋葉山神社、神明神社を合祀した。この時神社の登る中間に山の神のお堂があったのを現在地に社殿を新築して(神社の左の土地)うつした。昭和二十八年頃までは、十二月八日の山祭りには山仕事にたずさわる人々(木びき、炭焼等)は御神酒やぼたもちを持ってお詣りをした。神前に献灯し、三宝を神前に並べ、その上に酒をそそぎ拝礼して帰った。九日は一日休養した。女の人はお詣りすることは禁じられていた。