以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。
土山(つちやま)
古来より土山村と称したと思われる。泰澄大師が越前山干飯に来錫されて一村一宿坊を造られて宿坊に坊守をおき、村々の信仰の中心となされた。(白山神社に四十八坊ありというのは、山干飯四十八ヶ村に一坊をおいたことをいうのである。)
土山のお宮地は、土山十四字西山の二十九番地にあり、西山の中腹にあって古来よりの坊跡である。祭神は文珠菩薩木像同不動明王像十一面観世音像三尊像で、この仏像について、願成寺世代住職が修覆再興をした記録が仏像台座に書いてある。
願成寺の開創は応安五年、今より六百五十年前であるから、土山村開村以来の神宮本尊であり一村一坊の守護神であったと思われる。
土山の土地は、一帯が土のみで、石は無く、広域林道工事者も、土山の田地の改良工事(耕地整理)をした方々も、「私等三十年来工事の仕事をしているが、このような土ばかりの所ははじめてで、土山の名の通りですね。」と言われていた。山を三十米、 四十米も切り開き道路を造ったが、心土まで土であり、石は一個も出なかったと言うことだ。一千何百年来土山村と呼ばれていたのも、この理由からでなかろうか。
一、小字名
1 かみはたがだん(上畑ヶ谷)
2 はたがたん(畑ヶ谷)
3 ちがだいら(血ヶ平)
4 つじどおり(辻通)
5 てらだ(寺田)
6 てらのおもて(寺表)
7 はかんたん(墓ノ谷)
8 てらのおく(寺ノ奥)
9 だけ(嶽)
10 なかのたに(中ノ谷)
11 にしのたに(西ノ谷)
12 なかにし(中西)
13 だいもん(大門)
14 にしやま(西山)
15 むらのした(村下)
16 ひがしたん(東谷)
17 そんばたん(添場谷)
18 どうでん(土田)
19 さんごうだん(三合谷)
山林
20 きたはら(北原)
21 かみひがしたん(上東谷)
22 まくぼ(真久保)
23 のぼりばし(登橋)
24 ゆぐち(湯口)
25 はらいだん(払谷)
26 ごんご(言語)
27 あおいけ(青池)
28 としかげ(年蔭)
29 やなぎくぼ(柳久保)
二、小字のはなし
1 上畑ヶ谷 昔から畑地で山裾は傾斜地だが肥沃なので段切りをして、山桐、うるしの木、桑の木、三つ種、こうぞ等を植えた。
山桐は実から桐油を絞って行灯に用いたが暗いので、菜種油を二割程混合して使った。食用にならず、雨ガッパ、提灯、番傘等防水用に使用した。実は持主が二回拾った後は誰でも自由に拾ってもよかった。木が大きくなれば実も少なく、収穫もだんだん減ってくる。こうして役にたたなくなった木は下駄に使われた。重いが歩いても歯は減らず一般向きであった。
冬期は三つ椏、こうぞの皮はぎをした。桑の木は高くなるので梯子を架けて葉をつんだが、近年の刈り桑の木とはちがい小さな葉だった。桑の大樹は上等品の家具に造られ、舟ダンス、茶ダンス、箱火鉢、お椀の木地等になった。根は干して桑酒に入れた。鯖江の宿場に薬酒の酒造り屋があった。この土地は明治十年頃開田したが、用水が少ないため、山腹に横穴を掘ったところ、たくさんの湧水が出たので、近隣の村々より見学に来たそうである。
2 畑ヶ谷 九字の嶽より続いている地籍で、明治初年の頃、古老の話に「うららが田の草取りに行くと、上の高い田の土堤の眺めの良い所に肉獅子やカモシカがたくさんいて、日長の一日中草取唄をうたうのを聞いて見おろしていた・・・・」と。カモシカは毎日出てきたが、人にもおそれず害もなかったそうな。
3 血ヶ平 この地籍は菖蒲谷の一字血ヶ平の続きで、土山三字血ヶ平となっていて、四字辻通りに続いている。明治初年までは辻通りまで開田してあり、血ヶ平、畑ヶ谷の谷窪はしょぶしょぶの赤そぶの湧く湿地帯であった。
4 辻通り 願成寺元寺の屋敷前の道路で、糠浦へ通じ、現在の寺入口のT字路になっている。この道路の右の田は昔から風呂の下と呼ばれており、七堂伽藍のあった時の湯殿跡である。
寺の入口より五十米程上り、米ロと菖蒲谷に行く分れ道に、辻の地蔵堂があった。今は寺の石段の登り口に移されているが、地蔵堂には地蔵様一体とほかに立像二体があり、桃山時代かそれ以前の作といわれている。
辻通のしも土山字大門との境の川に極楽橋がある。この橋台は大石三個で出来ており、左の石は平石一個、右の石は二個となっている。昔碑をこわして橋をつくったという記録がある。
5 寺田 願成寺元寺屋敷で七堂伽藍の跡を享和年間に開田した。三反歩位ある。御朱印地は年貢を納入せずとも良いので、願成寺には三石四斗七升の年貢諸役免除の殿様(松平家代々)の書付がある。
6 寺の表 願成寺の一部開田したところ。昔、飢饉の年に土山村の大門氏が開田した時、仕事に来た人に手間代として一日に米五合を支払った。約一反歩位あったらしい。仕事に来た人々も飢饉のため粗食で十分な力仕事は出来なかったようである。
7 墓の谷 昔から土山の墓地で、願成寺初代からの墓や、村の家々の墓もあり、願成寺開山第一世芳・祖厳禅師の無縫塔がある(卵塔とも言っている)村の総墓で宝篋印塔一基があり、ともに昭和四十九年十一月一日に武生市の文化財に指定された。南北朝時代の手法をよく残している。農道改修の際寺墓地石段三段を無くして前面を道としたため元の形はない。
8 寺の奥 元願成寺の奥の谷で、この上が九字嶽地籍となっている。
9 嶽 寺の奥の上台地である。昔は田地だったが、今は杉が植えてあるが、それ以前は山桑、油桐木、三ッ匣、こうぞ等も植えてあった。その上は大杉林で中腹に安戸の天城へ行く道があり、菖蒲谷の血ヶ平より続く道である。
ここにまつわる話に、「或る日村の鶏が時の声をあげて、コレコッコーと鳴いたら、嶽山が火事となり、たくさん切り倒してあった大木は黒こげになってしまった。」と。それよりめんどりが鳴くと不吉であると言い伝えられている。
10 中の谷 この谷は日当りが良くて不作で飢饉の年であっても種子もみはあったという。谷の中央に清水がわき、この池で田を養っている。
11 西の谷 村の西方の谷で、中の谷より西の谷へ通じる山道がある。山の窪地に二坪程の平地があり、そこはこけがはえていて日当りも良く、人目にもつかず休場として格好の地であったため、村人は仕事に行くように見せかけ、ここに集ったという。
12 中西 西の谷続きで、谷の下の方で山腹に横穴を掘り用水にしている。
13 大門 元願成寺の入口にこの名があり、土山村の屋敷地である。橋本氏の屋号呼名を大門と言うのも、寺の大門に宅地を定めたので呼名になった。
14 西山 昔から畑地で、日当りよく作物がよく育ち、村の季節の野菜の多くはここで作る。山桑、こうぞ、油桐を植えた時代もあり、戦時中は食料増産でさつま芋、麦をたくさん作り供出した。この地籍の右方に村のお宮さんの旧地跡があり、近年は杉を植林して、耕地は少くなってきた。初めてキャベツを作った時、炊いて食べたら昆布を炊いて食べたような味がしたと古老が言っていた。
15 村下 小谷十一字の内に続き、佐内屋敷跡があるが、畑となり近年は杉を植林してある。
16 東谷 村より東方にあって小谷六字後谷と七字東谷の上の谷である。多くは溜池を用水としている。高台の田は百年程前に開田したと思われる。
17 添場谷 昔から添場谷と呼ばれていた。そばを作った谷かも知らず、そばは蒔いて八十日か百日位たてば刈り取られる作物で、非常に作りやすく貯蔵も出来、粟、きびに次ぐ大切な食料であった。茎はよく乾燥して繭から糸を取る時のゆで汁、あく湯に使用(茎を燃して灰にし、ざるにとり湯をかけて一夜おき、その上ずみのあく水を使った)他の灰のあくより良く糸が引けた。
18 土田 糠谷に面した山で日当りが良い。山の中腹へ谷水を引き開田した。安戸、土山、小谷地区の山中の田は、日当りが良く、水の便があれば開田したと思われる。帯のように長い田がたくさんある。
19 三合谷 今は山林となった。
20 北原 土山村の北方の山地山林をいう。
21 上東谷 土山村の東方山地。
22 真久保旧古宮の地名があり、昔の秋葉山神社の跡である。
24 湯口 大昔湯が湧き出たところであろう。小谷村2字湯の口の近くである。河野村糠浦へ流れる糠川の源は、杉山、神土の山の中にあり、(安戸村天城の水も杉山谷へ流れている)菅の川水を合わせて糠の海に入る。この谷は切り立った岩石が多いが甲楽城断層の割目であろう。越前町の温泉の湧く血ヶ平の谷も岩山で両側が切りたっているがよく似ているように思う。地下に湯脈があり湧き出していた事があるのだろう。
三、いいつたえ
◇神明講
土山、小谷村に神明講があり、毎月、月初めに廻り番に当番を定めて夕方集まる。(原則として男子)集まった者は手を洗い清め、神前にぬかずき般若心経を唱える。そのあと持ちよったお酒と当番にあたった家の手づくりの料理で食事をし一夜を楽しんでいる。昔は、五品位の副食を用意し(ごはんはめいめいが重箱につめて持ち寄った。)残ったものは重箱につめて持ち帰ったが、今は簡単なものになった。