「山干飯 小字のはなし」 08 堀(ほり)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

堀(ほり)

堀という名の由来は明らかではないが、集落背後の丘上に、城中、城場という字名が残っているところから城があったのではないかといわれている。城中の四方に堀切りの跡があり、そのため下の方一面は窪地になっており、水溜りが多かったため、堀と名付けられたと言われている。(堀の跡とも言われている。)

集落は城中と御清水ヶ谷の一部を宅地としていたが、現在はこの元の村より西の方へとのびてゆき、勘定場、城戸ノロ、上中江、暮坪と家数が増えていった。

城のあったといわれる場所より東の方へ下ると谷があり、そこに飲料水が出ている。城は二階堂城の支城であり、城主は堀村の開祖であったと伝えられているところから、古来より栄えた村ではないかと思われる。

武生‐米ノ線を結ぶ街道は、昔は村の真向いの経ノ尾の麓を通っていたが、明治二十九年の道路改修によって県道が村の前を通るようになったため、今は廃道となっている。

堀には三柱神社があったが、大正九年(一九二〇)に山千飯の総社である二階堂の白山神社に合祀された。

村の中央に京都本隆寺の末寺である法華宗真門流妙証寺がある。この寺の開基は足利時代の中期といわれている。昭和三十七年に十七世が入寂されて以来無住となっているが、壇家がよく管理し行事を守っている。

明治八年には御清水ヶ谷の畑地に十五ヶ村共同で温故小学校が新築され、以来三十五年に二階堂に新校舎が出来るまで開校されていた。昭和になってもその畑から石墨などが出て来たという。

明治三十四年には、堀郵便局が置かれ、以来民家の一部を局舎にあてていたが、昭和初期に現在の上村下に初めて白山郵便局として独立の局舎が新設された。

県道が改修されてから、地区の重要な建物が建てられ、色々な商家も増えて行き種類も十一あり、栄えて行く集落といえよう。

大正に入って安戸から出て来た木股氏が、上中江に居を構えて風呂屋をはじめた。経ノ尾の麓から良い水が湧き出て、皮膚病や神経痛に効くと評判になり、米を持って泊り込む湯治客も多かったという。近くの人は大人は二銭、子供は一銭で入浴に行ったといわれる。後に床屋も開業し、散髪をしたお客さんは、無料で入浴したという。風呂屋は十二年頃に廃業し床屋だけとなった。

最近まで富山の薬屋さんの定宿となっていた。現在でもその付近は良い水が豊富に出るので飲料水として多くの人が利用している。

朶村に小谷があった。織田信長の兵火に焼かれた堀城の人達が小谷に逃れた。しかし、平穏になってから三郎兵衛という人を残して再び堀に帰ったといわれ、そのため堀の朶村になったという。現在は土山に近いため土山の朶村となっている。

一、小字名

1 おくおおいわ(奥大岩)

2 たかいら(高平)

3 おくみなみだん(奥南谷)

4 なかみなみだん(中南谷)

5 なかおおいわ(中大岩)

6 くちみなみだん(口南谷)

7 くちおおいわ(ロ大岩)

8 きどのくち(城戸ノロ)

9 かみくれつぼ(上暮坪)

10 なかくれつぼ(中暮坪)

11 しもくれつぼ(下暮坪)

12 かんじょうば(勘定場)

13 かみなかえ(上中江)

14 ゆぶりだん(湯降谷)

15 しもなかえ(下中江)

16 しもむらじた(下村下)

17 かみむらじた(上村下)

18 しろのなか(城ノ中)

19 おしょうずがだん(御清水ヶ谷)

20 おおいなば(大稲場)

21 げたがたん(下田ヶ谷)

山林

22 とうげ(峠)

23 りょうたん(両谷)

24 きどのおく(城戸ノ奥)

25 むねのり(宗則)

26 しろば(城場)

27 きょうのお(経ノ尾)

28 きょうがみさき(経ヶ岬)

二、小字のはなし

1 大岩 その名の通り、谷の奥の所に大きな岩があり、以前はその岩まで田であった。全面に苔が生えており、いつも水がしたたり落ち、巨岩の相を持っていたが、今は森林に囲まれてその俤はない。

2 高平 南谷の奥地で、普通ならば狭くなるのだが幅の広い地域があるので、高平と名付けられたのだろうか。

4 南谷 山千飯四十八ヶ郷の総社であった白山神社を起点として考えると、南にあるので南谷となったのか、中野村の北谷と思い合せるとこの考えもなりたつのである。

8 城戸ノロ 伝説としては何もないが、二階堂、及び堀に城のあったことを考えると此処に城戸のあったことは当然と思われる。しかし、それがいずれの城のものであるかはわからないが、二階堂城が本城で、堀城が支城であったと伝えられるところから、二階堂城のものかとも考えられる。一部は宅地にもなっている。

9 暮坪 遠く口分田の昔に拓かれていた田には、暮と呼ばれている地名もあるらしいが、暮坪はその頃、田であったかどうかは疑わしい。しかし四方が道路で囲まれ、二筋の作道で上、中、下に区分されており、高低が少なく、しかも最近の耕地整理に多くの神代杉が掘り起されたことを思うと、相当早く開墾されたものと思われる。

12 勘定場 堀城の勘定奉行所があったのかも知れない。又、その建物の敷地であったとも考えられる。

13 上中江 この字の中に桜町という田もある。かっては、桜の木でもあったのだろうか。上、中、下に分かれたこの田からも、耕地整理に神代杉が多く掘り出された。

14 湯降谷村の真向いので、畑になっているが、飲み水が湧き出ている。昔は湯であったと伝えられている。

16 下村下 元の村の下にあるのでそうよんだと思われる。この地は粘土質のため、明治三十二年頃に、瓦工場が建てられた。経営者は代ったが、昭和三十年頃までつづけられた。

18 城の中 通称、城中(じょうなか)といわれている。宅地の一部と、後の畑地で、頂上は広い台地となっており、城塞があったのではなかろうかと思われる。

19 御清水ヶ谷 宅地の一部と後の畑地となっている。この地の一画に温故小学校が建てられた。明治八年から三十三年まで開かれていた。

かって城の飲料水に使用されたのも、この谷の水であったかと思われる。耕地整理が出来るまでは、四町程の田を養なっていたが、今は水量も減り少なくなっている。

25 宗則 城ノ中から尾根伝いに行くと、宗則の頂上に出る。一面平地になっており、ここに堀城の本城があり、城主は、宗則成ノ守といったという。城ノ中の畑地と共に、独立した丘陵で眺望も良く、海岸の方も、府中の方も一望の内にあって、城のあったのも成程と肯けるのである。

この城も織田信長の兵火に焼かれたといわれ、この字名も城主の名前が付けられたと伝えられている。

27 経ノ尾 堀の正面の山で、通称向山とよんでいる。その頂上に村人の安泰を願って、法華経経文を書いた一字一石が埋められているといわれ、そのため経ノ尾と名付けられたという。又、その頂上に大きな松があり、村人は経の松と呼んだ。かなり遠くから眺められ、枝ぶりも良く、山の象徴として仰いだが、十年程前から枯れ初め、今は姿を見ることは出来ない。

白山地区に給水される水道の上水槽がこの経ノ尾の北端に作られるといわれている。

28 経ヶ岬 経ノ尾の東南につき出ているため、そうよばれたらしい。米口地域の猫谷と地続きである。

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