「山干飯 小字のはなし」 06 千合谷(せんごうだに)

以下の内容は、白山読書会のメンバーによって昭和61年12月に出版された「山干飯 小字のはなし」の内容をデータ化して公開しています。

上千合谷(せんごうだに)

天王川の最上流部の谷合いにあり、千合谷の名の通り、谷の数が多いところからその名が由来しているといわれている。西方の山を越すと米ノ浦に達する。

集落の北西方には、二階堂町白山神社の奥の院といわれる白山神社があり、西方の御山には解雷ヶ清水(けらがしょううず)がある。

この解雷ヶ清水には、古く朝鮮、百済国の王女自在女(さいめ)が国難を避けて、干飯浦(米ノ浦)に上陸し、さらに奥地へ山を分け入り、千合谷へ向った。途中従者は水を求めたが、周りに見つからなかったので、王女は脚元の岩を杖で突いたところ、美しい冷水が渾々と湧き出し、従者の咽の渇きをいやすことが出来たという言い伝えが今も残っている。以来、由緒深い霊地として社を建て、不動明王を祀り、昔から毎年七月七日にはお祭りを行っている。村人はそれぞれ花を一輪づつ器に入れて手にしながらおまいりをしたものであった。また、雨乞いの神でもあり、天王川の水源地として、今でもこの水が渇れることはなく、一分と手がつけられないくらい冷たく清らかな水が流れている。

山干飯隧道が出来るまでは、米ノ浦から魚を売りに出るボテ振りさん達は、峠を越えると必ずこの水で魚を冷やし、府中の方まで売りに行ったという。冷たいため魚の鮮度を保つことが出来たらしい。

五十年頃までは、千合谷の人達はこの水で顔を洗い、野菜や食器も洗った。しかしこの頃では家屋の改造にともない、水洗トイレが普及され、汚水が流されるようになったので、そうしたことも昔話になってしまった。

今日まで、一回も火事を出したことがなく、これもお不動様のおかげと村人はいいつたえている。祭りの前日は、子供達が社周辺の草刈りや清掃を担当していたが、いつの頃からかその行事もなくなった。昭和五十五年には、茱原田、八斗田、馬戸(このあたりを通称ショケダンという)に潅漑用ダムが完成し、白山地区の田畑をうるおし、また、昭和五十八年には、水源地の工事が開始され、六十五年には工事完成で、白山地区の飲用水として需用が満されることになっている。これを機会に拝殿の改築が行われ、昭和六十一年七月、千合谷町あげての落成式典がとり行われた。

戸数は、明治六年頃には三十五戸あったが、昭和の現在は二十三戸に減少している。昔は炭焼きで生計をたてていたが、当時炭焼きは雨が降ると仕事にならず、男はお互いの炭焼き小屋をたづね合って、山や田畑をかけてチョボ(バクチ)をしていた。女は宝引きが楽しみの一つであった。

一、小字名

1 とうげ(峠)

2 くちとうげ(口峠)

3 くらかけぐち(鞍(鞍)掛口)

4 なかのはた(中ノ畑)

5 とりごえ(鳥越)

6 くちりょうだん(口無谷)

7 おやま(御山)

8 おやまぐち(御山口)

9 かくれだん(隠レ谷)

10 ささだん(笹谷)

11 くちろだん(口広谷)

12 おくくちろだん(奥口広谷)

13 さるだん(猿谷)

14 なべど(鍋土)

15 なかがくぼ(中ヶ窪)

16 ひながたん(雛ヶ谷)

17 だい(平ラ)

18 だいらぐち(平ラロ)

19 たかお(高尾)

20 でのたんぐち(出ノ谷口)

21 ばんどめ(番留=番乙女)

22 むかいやま(向山)

23 どうのくち(堂ノロ)

24 どうのく(堂ノ奥)

25 むらなか(村中)

26 どうりんだ(堂(道)林田)

27 とのやま=どうのやま(戸ノ山=堂ノ山)

28 てらだ(寺田)

29 くろのうえ(畦ノ上)

30 のどたん(喉吞)

31 くぼた(久保田)

32 いちのたん(一ノ谷)

33 おくいちのたん(奥一ノ谷)

34 ちわらだ=ちわりだ(茅原田)

35 はっとだ(八斗田)

36 ひやがたん(部屋ヶ谷)

37 あいど(相戸

38 にのたん(二ノ谷)

39 にのたんぐち(二ノ谷口)

40 すわのぢ(諏訪(防)路)

41 う(ん)まど(馬戸)

42 るびがだいらぐち=ももがだいらぐち(胡桃ヶ平口)=(桃ヶ平ロ)

43 こまがたん(駒ヶ谷)

山林

44 にがき(苦木)

45 かまがたん(釜ヶ谷)

46 きようしたん(キョウシ谷)

47 きたどうのく(北堂奥)

48 かみくちろだん(上口広谷)

49 りゆうがみね(竜ヶ峰)

50 なかお(中尾)

51 ちようし(チョウシ)

52 おくにがき(奥苦木)

53 みなみにのたん(南二ノ谷)

54 ひがしいちのたん(東一ノ谷)

55 おくちょうし(奥チョウシ)

56 がくぼ(ユジが窪)

57 にがき(苦木)

58 おおひらくぼ(大平窪)

59 おおくぼくち(大窪口)

60 いちのくぼ(一ノ窪)

61 びわたに(批把谷)

二、小字のはなし
1 峠 山越えをし、六呂師を経て、米ノ浦に出る昔の街道。

2 口峠 峠道へ上る入口。

3 鞍掛口 百済の国の王女が、国難を逃れる為、船で出国し、米ノ浦に流れ着き、六呂師から竜ヶ峰を越えて村里へ向ったが、道が険しくて馬で進むことが出来ず、鞍をこのあたりの木にかけたという。

4 中ノ畑 山の中腹にある畑で、昔は油木が植えてあって、その実を拾ってかますにつめ油を取る工場のある甲楽城まで売りに行った。大へん良い収入になったという。

5 鳥越え 高い山と山の間にある低い山で鳥達の渡り場であったとか。

7 御山 解雷ヶ清水のある山で、神様のお水の山と尊んで呼んだのだろう。

9 隠れ谷 小さくて入口の解りにくい谷で年貢隠しの田があったといわれている。

11 口広谷 入口が広くなった谷。山の頂上に、五間四方位の土台石のようなものがある。何か建物の跡でなかったかと思われる。又、池の跡もある。

13 猿谷 若須岳の降り口に当り、獣達の通り道であったのか。

21 番留め 昔、二階堂に荷物を調べて、金を取る番所があったので、それをさけて山伝いに出る道を、他地区の人達に教えてあげる為と、住民のために作った仮の番所のあった所。

22 向山 村の向うの山。

23 堂ノ口 村の氏神様のお堂のある所。

24 堂ノ奥 氏神様の奥の土地。

32 一ノ谷 総ヶ谷の一番入口の谷。

3 4茅原田 谷底にある田で、昔は茅原であったのか。

35 八斗田 昔、年貢が八斗であったのだろう。

37 相戸 日当りの良い田で、飢饉の時でも良く米が取れたそうな。

40 諏訪ノ路 安戸地籍の諏訪屋敷と、天井山を通じて何か連がりがあるように思うが、何も残っていない。

49 竜ヶ峰 昔、大きな竜が住んでいたといわれる。

三、いいつたえ

◇這い獅子

二階堂白山神社宝物の、一本角の獅子頭は這い獅子といわれている。昔から十月四日の例祭には、千合谷の若衆がこの頭をつけて舞うことに決っている。他の在所の人がかぶると、手足がしびれ、こわばって動くことが出来なかったといわれている。

ササズリ、チャリ、オタフク等も千合谷の若衆が代々受継いで来たが、それも六、七十年前までの話で、今は誰も使える人はない。

山干飯地区に祇園ばやしという獅子舞があったが、千合谷が発祥の地だといわれている。

◇池の窪

竜ヶ峰の頂上近くの、池の窪という所に小さな池がある。その池はいつも水が白く濁っている。その昔、百済の国の王女が大勢の家来と山越えをする時、この池の水で米を研いだそうで、今でも白く濁っているといわれ、そこから流れる鞍掛川の水も白く濁って流れている。

◇茶屋ケ谷

昔、千合谷と二階堂の間で争いごとがあり、仲が悪かったらしい。そのため、千合谷の人達は、武生や、白山の中心へ出るのに二階堂を通るのがいやであったのか、それとも通してくれなかったのか、一の谷から茶屋谷をぬけて菖蒲谷へ出たという。又、二階堂に役人の番所があったため、ここを通行するたびに高額の通行料金が取られるというので、料金のがれのために番留から一の谷、茶屋ヶ谷をぬけて菖蒲谷へ出たという。今でもその道はあるが荒れ果てている。

◇白椿

昔、百済(くだら)の国の王女が、国難をのがれて大勢の家来を連れ、黄金千両、朱千叭(かます)を舟に積み、米ノ浦の干飯崎へ上陸したという。六呂師から千合谷へ山越し、二階堂に来る途中の山の中の白椿の木の下に、黄金や朱を埋めたそうである。

場所は二の谷の奥で、今でもそのままだといわれるが、夢の中では、ありありとその場所が現れるが、翌日行って見てもどうしても見分けることが出来なかった。宝物は今もそのまゝ有るといわれている。

◇うたじし

 昔の人は、山の中や、畑で仕事をする時は、たいてい大きな声で唄っていたそうである。すると何時の間にか、うたじしが出て来て、畑の向うの山陰にすわって首をかしげて、じーっと聞きほれていたそうである。気が付いても知らん顔していると、何時までもいるので、「何じゃ、われ又来たんか」と声をかけると、こそこそと山の中へ隠れるが、又出て餌も取りに行かんとすわっていたという。

◇しか

昔、千合谷にも、鹿がいたそうで、射止めてかついで帰った人もあるし、時には角を拾って来た人もあるそうだ。

◇与門ごろ

昔、千合谷と二階堂が話し合いをして村境を決めることになった。

その日になると、二階堂の代表の人は、朝早く起きて来て、どんどん山の中に入って行った。千合谷は村が谷間のため、夜明けがおそいので遅れてしまった。代表の与門さんは、後から追いかけたが、二階堂の人は若くて足が速いため、追いつくことが出来ず、とうとう、堂の奥の奥まで来てしまった。そのうち与門さんは、木の根に足を取られて、「スッテン」と転んでしまった。腹を立てた与門さんは、「勝手にさらせ」と怒鳴って帰ってしまったそうである。それでこのあたりを与門ごろという。

「勝手にさらせ」と言われた二階堂は、そこから奥はもらってしまったという。今でも堂の奥の奥の広い山林が、二階堂のとび地として残っている。

◇茅(かや)刈り

千合谷の人達に、茅刈りという大きな仕事があった。

春の日ざしも、日毎に暖かくなり、谷々を埋めていた雪が眼に見えて少なくなって来ると、「あゝ茅刈りの時期が来る」と、若い嫁さん達は物憂くなったという。その頃、在所の総代さん達は、区長さんの家に集って、その年の百姓手間を決める。

決められた男手間と女手間の中間が、その年の茅一メの価額である。又、その時にその年の雪の解け具合を見て、口明日(くちあけび)を決める。

口明日が決まると落着かず、鎌を研いだり、丈夫なカルサンを作ったり、日持ちのするおかずを作ったりしておいた。口明の日が来ると、一時、二時には起きて、自分はもちろん子供の分のおにぎりを作ったり、餅を焼いたり、赤ん坊にはお乳を飲ませて、いづめに入れ、四、五才の子は近所の年寄りに頼み、学校に行く子には起きたらすぐ食べられるように朝食を並べておいた。

外はまだ真暗で、お星様がキラキラ光っていた。一人では行けないので、何人か組になって、手に手に提灯を下げ、それぞれ自分の目ざす山へ出掛けた。

近い刈り場もだんだん無くなると、遠く六呂師、午房ヶ平、米ノ浦、高佐の滝の近くまで刈りに行った。千合谷の人達が入り込まないかと張り番をしていた地つづきの在所もあった。

在所生れの嫁さんは、小さい時から見よう見まねで上手に刈り揃えて行ったが、他所から来た嫁さんは泣かされた。五把で一〆と言い、上手な人は一日に幾メも刈ることが出来た。刈った茅は長く重かった。遠い山から背負って帰るのも又一苦労であった。

子供達も学校から帰ると水汲みをしたり、掃除をしたり、赤ん坊のお守りをしたり精いっぱいの手伝いをしながら親の帰りを待った。

そんな日が四、五日も続くと、もう体はへとへとに疲れ切ってしまった。

前年の暮の内に、神山、大虫、安養寺方面から注文を受けておき、出来上った茅をガタガタ車に積んで家々に運ぶのも一苦労であった。仲買人を通して買売されたが、個人売りもあった。若いお嫁さんはつらい目にあいながら、お金がどれだけ入ったか知らなかったが、大低その家の半年分の小遣いはあったのではないだろうか。

在所の屋根の葺替えは、結(ゆい)で茅三〆づつ持ち寄って手伝った。

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